後宇多天皇宸翰御手印遺告

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(巻頭部分)

後宇多天皇宸翰御手印遺告』(ごうだてんのうしんかんおていんゆいごう)は、後宇多天皇元亨元年(1321年)に大覚寺が再興された経緯、大覚寺と真言密教が永く興隆をすることを願って定めた遺誡21箇条を記した書。略称は『御手印遺告』(おていんゆいごう)。その他、後宇多法皇御遺告、御遺告とも称される。1巻。全文6500文字余り。宸翰様の書作品。後宇多天皇宸筆(自筆)の草本が現在も大覚寺に所蔵されている。昭和26年(1951年6月9日国宝指定。

概要[編集]

大覚寺建立の縁起、大覚寺護持のためのと密教興隆の願いを、永く後世に伝えるべく執筆された遺告。執筆時期は、元亨2年(1322年)5月以降から崩御する元亨4年(1324年)7月までの間。後宇多天皇が傾倒した空海の『御遺訓』に倣って25箇条まで作る予定だったようだが、実物は21箇条で終わっている。また、年期を記すべき箇所を空白にし、所々に推敲の跡が見られることから、元々は清書を予定していた草稿として作られたと考えられる。原本では、後宇多天皇自身が真言の部分、7箇条目まで8箇所に御手印(手形)を押している。

大正5年(1916年5月24日、『官報』第1042号の文部省告示第84号により、「紙本墨書御手印御遺告傳後宇多天皇宸翰」の指定名称で、当時の国宝(乙種・筆蹟)、後の重要文化財に指定された[1]。所有者は大覚寺[1]

昭和26年(1951年6月9日付で、昭和27年(1952年1月12日の『官報』第7502号の文化財保護委員会告示第2号により、「後宇多天皇宸翰御手印遺告」の指定名称で、国宝(書跡の部)に指定された[2]。官報告示の所有者表記は「大覚寺」、住所表記は「京都府京都市右京区嵯峨大沢町」[2]

21箇条(抜粋要約)[編集]

1条・後宇多天皇が自身の経歴を述べ、密教興隆を願う気持ち

2条・密教における祈祷の意義

3条・国家仏法の興廃に関して

4条・教王常住院の建立について

9条・僧侶教養の軌則

11条・童子の教育について

12条・禁ずべき行為・事柄

14条・御追福に関すること

15条・御陵について

21条・禅助に対して報恩する気持ち

脚注[編集]

[脚注の使い方]

参考文献[編集]

  • 京都国立博物館 編集・制作・発行 『[特別展覧会] 宸翰 天皇の書 --御手が織りなす至高の美--』 2012年、p.249

関連項目[編集]