徐夫人

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徐夫人(じょふじん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。揚州呉郡富春県の出身。孫権の正室の一人。通称を徐妃という(『太平御覧』)。祖父は徐真。祖母は孫堅の妹。父は徐琨。兄は徐矯。弟は徐祚。

生涯[編集]

孫氏に近い豪族の出身。初めは陸尚[1]に嫁いだ。夫の死後、孫権が呉県に住んでいた時代(200年 - 207年)に、琨の戦功により徐氏を妃(正室)として迎えた。

孫権は長男の孫登を徐夫人の子として養育させた。しかし嫉妬深いという理由から、212年に都の京口を秣陵(後の建業)へ移すことになった際、徐夫人は廃されて呉郡に留められた。

その後10年余りが経過し、孫権が呉王のちに帝位に就いた時、の臣下たちは徐夫人を皇后に立てるよう進言したが、孫権は歩夫人を皇后にしたいという気持ちがあったため、結局認めなかった。後に病のため死去した。

孫登は母養の恩がある徐夫人を敬慕した。徐夫人が廃されてからは歩夫人が最も寵愛され、その歩夫人から賜り物があると孫登はあえて辞退はしなかったが拝受するだけだった。しかし徐夫人から衣服の贈り物があったときは必ず沐浴してからこれを身に付けたという。太子に立てられることになった孫登はまず先に(自身の母として)徐夫人を后に立てて欲しいと孫権に述べた。

脚注[編集]

  1. ^ 180年に祖父の陸康の功績によって郎中に任命される(『後漢書』)

参考文献[編集]