徳島藩

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徳島藩(とくしまはん)は、阿波国徳島県)・淡路国兵庫県淡路島)の2国を領有した。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。

略史[編集]

豊臣秀吉股肱の臣で播磨国龍野を領していた蜂須賀正勝は、天正13年(1585年)の四国征伐の後に阿波国を与えられたが、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、家政が徳島藩主となった。入部当時の石高は17万5千石で、板野郡の一部が他領であり[1]、阿波一国ではなかった。同年、家政により徳島城が築造。徳島城は明治新政府による1873年明治6年)の廃城令まで約300年間にわたり維持された。最後まで残っていた「鷲の門」は第二次世界大戦中に焼失したものの、1989年昭和64年/平成元年)に個人が再建、徳島市に寄贈された。2006年に、徳島城跡は日本100名城の76番目の城に指定されている。

徳島城完成時に踊られたのが阿波踊りの発祥[2]とする説がある。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、家政は西軍により強制的に出家させられた上で高野山に追放され、阿波国は毛利家の軍勢が進駐して、その管理下に置かれた。その一方、妻が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫[3]である嗣子の至鎮は会津征伐に従軍しており、9月15日(10月21日)の本戦では東軍として参加した。この結果、戦後改めて至鎮に旧領が安堵されることとなった。この時より実質的に徳島藩が成立したと言えるため、家政は「藩祖」、至鎮を「初代藩主」として数える。

至鎮は大坂の役において、2代将軍徳川秀忠より7つもの感状[4][5]を受ける働きをした。これにより蜂須賀家は岩屋を除く淡路7万石を与えられる。寛永3年(1617年)に岩屋も加増され、阿波・淡路の2国・25万7千石[6]を領する大封を得た。

吉野川流域ではの生産が盛んで、特に10代重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾や品質により全国の市場をほぼ独占するに至った。藍商人より上納される運上銀冥加銀は藩財政の有力な財源となった。領石高25万石と言われているが、実際には阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石になるともいわれている。

明治4年(1871年)、廃藩置県により徳島藩は徳島県となった。その後名東県(阿波国・讃岐国・淡路国)を経て、一旦は高知県に編入された。この時、淡路島は兵庫県に編入された[7]1880年(明治13年)に徳島県として再び分離された。

蜂須賀家は明治2年(1869年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)の華族令侯爵となった。

歴代藩主[編集]

蜂須賀家

外様 17万5千石→25万7千石

  1. 至鎮 淡路国加増により25万7千石 [8]
  2. 忠英
  3. 光隆
  4. 綱通
  5. 綱矩
  6. 宗員
  7. 宗英
  8. 宗鎮
  9. 至央
  10. 重喜
  11. 治昭
  12. 斉昌
  13. 斉裕
  14. 茂韶

支藩[編集]

富田藩[編集]

富田藩(とみだはん)は、徳島藩の支藩として江戸時代中期に存在した新田藩である。延宝6年(1678年)に蜂須賀隆重が徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩より5万石の分知を得て立藩した。3代正員は宗家の嫡子となり、徳島藩に所領を返納したので、享保10年(1725年)に廃藩となった。

歴代藩主[編集]

蜂須賀家

譜代 5万石 (1678年 - 1725年

  1. 隆重(2代藩主蜂須賀忠英の次男)[9]
  2. 隆長
  3. 正員[10] - 宗家相続

公族(藩主一門)[編集]

家老[編集]

中老[編集]

生駒善長-言慶-何三-時里-永言-永貞-何前-永豊-永綏-永久-
  • 里美氏
  • 武藤氏 [23]

阿波九城[編集]

蜂須賀氏入国後(天正年間)、阿波国内にあった既存の9つの中世城郭を改修し「阿波九城」と称する支城として整備した。一国一城令慶長20年(1615年))により廃城。

城番

不通大名[編集]

江戸時代、意図して互いに交流をしない大名同士のこと。江戸城内で会っても会釈も挨拶も交わさないとされる。

家祖・蜂須賀正勝の娘糸姫家政の異母妹)は福岡藩初代藩主・黒田長政黒田孝高の子)の正室。糸姫と長政の間には娘・菊(井上庸名室)もいたが、関ヶ原の戦い慶長5年(1600年))の前に離縁され、実家の阿波国に返される。これは長政の継室として家康の養女栄姫保科正直の娘)が嫁ぐ為である。 この糸姫との離縁が、江戸時代中期までの黒田家と蜂須賀家の127年に渡る「不通大名」のきっかけとなった。

蜂須賀・黒田両家は享保12年(1727年)、蜂須賀綱矩黒田宣政の代に、陸奥守山藩[26]松平頼貞[27]のとりなしで和解した。

最期の藩主蜂須賀茂韶の孫・蜂須賀年子著『大名華族』(1957年、三笠書房。徳島新聞連載)には「黒田家から教わった『火伏せのまじない札』」の塗り込められた『火伏せの板戸』[28][29]の話が10代藩主・蜂須賀重喜の頃の伝承として出てくる。これによると、蜂須賀家は「江戸時代初期に黒田家からまじない札を教わった」とある。

豊臣秀吉を祀る豊国神社 (京都市)の再建は、黒田長成蜂須賀茂韶が中心になって行われた。
明治期以降、黒田家蜂須賀家は当主同士が鳥類学者であり親しかった。

幕末の領地[編集]

上記のほか、明治維新後に日高国新冠郡を管轄したが、藩士の稲田邦植に移管された。また、稲田邦植は増上寺領だった日高国静内郡および根室国花咲郡の一部(後の色丹郡)も移管を受けた。

徳島藩を舞台とした作品[編集]

小説
映画
ドラマ

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 赤松領1万石。住吉23村。赤松則房は慶長3年(1598年)死去。大阪の陣後に廃され、敬台院の化粧領となる。藍住町観光マップ 正法寺
  2. ^ 阿波おどり発祥には複数の説がある。
  3. ^ 徳川家康の外曾孫
  4. ^ 大阪冬の陣の感状は10個で、そのうち7つが徳島藩に贈られた。
  5. ^ 蜂須賀家の参勤交代先頭は、この時の感状であった。
  6. ^ 四国一の大藩である。
  7. ^ 淡路国の分離は庚午事変が遠因とも言われる。
  8. ^ 洲本城の歴史
  9. ^ 甥の4代藩主・綱通と5代藩主・綱矩がともに幼年だったため、幕府の命で藩主補佐をした。隆重は11歳で、将軍になる以前の徳川家綱(4代将軍)の小姓を務めた。
  10. ^ 5代藩主蜂須賀綱矩四男
  11. ^ 5代藩主蜂須賀綱矩三男。富田藩2代藩主隆長の養嗣子だったが廃嫡。
  12. ^ 最期の至鎮男系子孫
  13. ^ 正室は隆寛の妹 津世。休光の四男。兄弟に休紹。
  14. ^ 休栄と津世の娘・艶と婚姻。婿養子。娘・斐姫は蜂須賀茂韶の正室。娘・倫子は斉裕養女として鷹司輔政に嫁ぐ。
  15. ^ 8代藩主・宗鎮の養継嗣となるが早世
  16. ^ a b 男爵
  17. ^ (蜂須賀玄寅。(池田恒興の曾孫))
  18. ^ (池田興龍(鎮辰)。2代藩主蜂須賀忠英の四男)
  19. ^ (玄寅庶子)
  20. ^ (第8代藩主宗鎮の男系孫)
  21. ^ 蜂須賀家政従兄弟説あり。蜂須賀正勝正室まつが益田氏の出とも言われる。まつ弟益田一正の子
  22. ^ a b 蜂須賀家の御家騒動 山川浩實(徳島県立博物館・博物館ニュース2006年3月)
  23. ^ 武藤家文書 徳島県立文書館蔵
  24. ^ 昭和~平成の歴史学者牛田義文先祖
  25. ^ 歌舞伎の初代中村勘三郎は、重勝(中村右近)の庶子である、とする説がある。
  26. ^ 水戸藩御連枝
  27. ^ 正室は富田藩初代藩主・蜂須賀隆重の次女。
  28. ^ 柳に水車図・桐花図杉戸絵徳島城博物館蔵、徳島市有形文化財
  29. ^ 『大名華族』では「第二次世界大戦時の空襲で焼失した」と書かれているが現存。
  30. ^ 原士とは/原士堀北家控帳 阿波市立図書館 ADEAC
  31. ^ 市場町の民家 郷土研究発表会紀要第25号 徳島県立図書館
  32. ^ 上林春松本店 長屋門の屋根に蜂須賀家の家紋が入った瓦が見られる。
  33. ^ 藍作・養蚕・棉作・焔硝の採取・織物・紺屋人口動態について」阿波学会研究紀要 郷土研究発表会紀要第31号
先代:
阿波国淡路国
行政区の変遷
1641年 - 1971年 (徳島藩→徳島県)
次代:
名東県