徳川頼宣

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徳川頼宣
Tokugawa Yorinobu.jpg
和歌山県立博物館蔵 紙本著色徳川頼宣像(南龍公神影図)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年3月7日1602年4月28日
死没 寛文11年1月10日1671年2月19日
改名 長福丸(幼名)、頼将、頼信、頼宣
別名 南龍公(尊称)、紀伊頼宣
神号 南龍大神
戒名 南龍院殿従二位前亜相顗永天晃大居士
南龍院殿二品前亜相永天晃大居士
墓所 和歌山県海南市長保寺
官位 従四位下常陸介従三位参議右中将権中納言従二位権大納言正二位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光家綱
常陸水戸藩主、駿河駿府藩主、紀伊和歌山藩
氏族 徳川氏紀州徳川家
父母 徳川家康養珠院
兄弟 松平信康亀姫結城秀康督姫秀忠
松平忠吉正清院武田信吉松平忠輝
松平松千代松平仙千代義直頼宣
頼房市姫
瑤林院
理真院、山田氏、越智氏
光貞、茶々姫、修理、松平頼純、松姫
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徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩主となった。母は側室養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める[注釈 1]。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。

生涯[編集]

慶長7年3月7日1602年4月28日)、伏見城にて生まれる[1]

慶長8年(1603年)、2歳にして常陸水戸藩20万石を与えられる。水戸には入らず、父家康の許で育てられた。慶長11年(1606年)、家康に従い京都に上り元服する。慶長14年(1609年)、肥後熊本藩加藤清正の次女・八十姫と婚約。翌年9月徳川家より結納使として頼宣の伯父三浦為春(生母の兄)が清正の領国肥後国に下って納幣。同年、駿府藩50万石に転封された。

慶長16年(1611年)、家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見を行った際は兄の徳川義直と共に東寺まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた。のち、義直と共に返礼の名代として大坂城の秀頼を訪問する。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。

元和3年正月22日(1617年2月27日)、家康も清正ももはや鬼籍ではあったが、かねてよりの約束により前述の清正の五女・八十姫(瑤林院)を正室とする。

元和5年(1619年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。

慶安4年(1651年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。

同時期、の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、将軍家光の叔父で頼宣の兄である尾張藩徳川義直が死去し、格上の将軍家綱が幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後、慶安の変に絡む疑いは晴れて無事帰国したが、いまだ拡張整備中だった和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承にちなむ「堀止」という地名がある)。

寛文7年(1667年)嫡男・光貞に跡を譲って隠居し、寛文11年1月10日1671年2月19日)死去した。享年70。紀州藩主としての治世は47年9か月であり、この間の江戸参府19回、紀州帰国18回、紀州在国の通算は21年10か月であった。さらに隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回であった[2]。覇気に富む人柄であったと伝えられている。

逸話[編集]

  • 父・家康の晩年、頼宣を最後まで手元に置き自ら薫陶を与えて育てた。まだ幼いにもかかわらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落水しても家康は放置した、と伝わる。
  • 大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが鎧初めを行う、特別な扱いを受けた。
  • 夏の陣に際して先陣を希望するが、却下された。これを涙を流して悔しがったため、松平正綱が「まだお若いから、これから機会は何度でもありましょう」と慰めたが、頼宣は「14歳が2度あるのか」と怒った。これを聞いた父の家康は「今の一言こそが槍(手柄)である」と言って頼宣を褒め、諸大名も感嘆した、と伝わる。
  • 家康没後に駿河から紀州に転封となったが、これは2代将軍の秀忠が父の家康の遺風に対抗し、自身の権威を見せつけるため「家康の子、すなわち自分の兄弟である」「家康が直々に配した」「父が自分の所縁の地を与えた」頼宣ですらも、自分は転封させることができる。すなわち、それ以下の格の諸大名は親藩譜代外様を問わず、全ては我が権威の下であるということを天下に示すためであった、とも言われている。駿府は一旦幕府直轄を経て、秀忠の次男である徳川忠長をもって駿河藩55万石となったが、これも父と同様に自分も御三家相当の家を設立することができる。そして、御三家から駿府を奪い我が子に与えることで、家康の権威よりも自分のほうが格上であるとする意思表示であったとする説がある。
  • 西国転封の際、頼宣は再建成った大坂城を領することを願ったが、かなえられなかったと伝わる。
  • 由井正雪関連の疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があればただちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした[3]。外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎え、当該の大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけないだろう?という意味である。
  • 鄭成功に関する援軍要請の際は、「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ、西国大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれれば、日本の面子を充分に立てて来る」と乗り気であったとも、「出兵しても日本に利がない」として反対だったとも伝わる。
  • 頼宣は様斬(ためしぎり)を好み、自ら囚人を試し斬りした後、家来一同に「さてさて、この名刀や、かくの如き切り手は日本はおろか、天竺にもあろうか?」と問うたところ、儒者の那波活所が「名刀ならば唐には干将・莫耶という名剣があります。また人を殺すことを楽しんだ王なら紂王など悪王がおります」と答え、「およそ殺人を面白がるのは禽獣の仕業。人間の行いではありません」と諫言した。以後、頼宣は試し斬りをやめたという。
  • 若い頼宣が粗暴な振る舞いを行った際、附家老の安藤直次が豪腕をもって主君頼宣を押さえつけた。この際に頼宣の股に傷跡が残ってしまったが、後年になって医師がこれを治そうとした際に頼宣は「今の自分があるのは直次があの時諌めてくれたお蔭である。この傷跡はそのことを思い出させてくれるものである」として、治癒を断っている。

官職および位階等の履歴[編集]

系譜[編集]

  • 父:徳川家康(1543-1616)
  • 母:養珠院(1577-1653) - 万、正木頼忠の娘
  • 正室:瑤林院(1601-1666) - 八十姫、加藤清正の次女(第5子)
  • 側室:理真院 - 中川氏
  • 側室:山田氏
    • 次男:松平修理
  • 側室:越智氏
    • 長女:茶々姫(1631-1709) - 芳心院、因幡姫、池田光仲正室
      • 女系ではあるが、因幡姫の子孫には現在の男性皇族・内親王・女王などが含まれている。
    • 三男:松平頼純(1641-1711)
    • 次女:松姫 - 松平信平正室

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ の一文字目については徳川家源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「」の字を用いたものとみられる。
  2. ^ 「介」は佐官(二番手)でありいわゆる国主としての「守」の一段下であるが、常陸国に関しては天長3年(826年)以降、「親王任国」のひとつとされており「常陸守」は武家官位としては名乗らないのが通例であり、介が事実上の一等官の称号に相当する。

出典[編集]

  1. ^ 勝浦市史編さん委員会編 『勝浦市史 通史編』、2006年、406頁。 
  2. ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版、2011年。
  3. ^ 小山誉城「徳川頼宣の晩年」『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版、2011年。

関連項目[編集]

小説[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]