怕尼芝王統

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帕尼芝王統(はねじ おうとう、はにじ おうとう)は、山北王国(北山王国)の最後の王統。別名:羽地王統

経歴[編集]

今帰仁グスクを本拠に沖縄本島北部(国頭)とその周辺の島、奄美群島南部(与論島沖永良部島)が勢力下にあった。

帕尼芝は羽地の漢字音訳で、聞き書きした中国人によって「帕尼芝」や「攀安知」と筆記されたので後世個人名のように思われる原因となったが、実際は羽地按司であったと思われる。

おもろさうしでは帕尼芝が王になった経緯については、従兄弟(仲昔今帰仁按司)の子で山北王である今帰仁仲宗根若按司を討ち、自ら山北王(後北山王)となったと言われている。

への朝貢数が一番少ないことから、国力は三山のうちで最も低かったと思われる。

初代の帕尼芝には出生に諸説あるが、一番有力なのは英祖の次男、湧川王子(北山王、今帰仁城主)のひ孫という説である。更に、帕尼芝の治世が70年にわたるため、実は親子で同じ名を使っていたのではともいわれている。

与論島と沖永良部島[編集]

諸説あるが、帕尼芝王統のいずれかの代で、与論島・沖永良部を平定し、王子がそれぞれ与論島、沖永良部島の世之主として君臨したとされている。与論島は王舅(おうしゅん、うーしゃん)、沖永良部島は真松千代(ままちぢよ)であり兄弟であったとされる。

すなわち北山(国頭)と与論島、沖永良部島は同じ王族により連合していたとも評価できる。この領域では沖永良部与論沖縄北部諸方言が話されている。

1416年に北山王国が滅ぼされると二島とも中山王国、次いで琉球王国の勢力下となった。