恒川官衙遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
恒川 官衙遺跡の位置(長野県内)
恒川 官衙遺跡
恒川
官衙遺跡
遺跡の位置

恒川官衙遺跡(ごんがかんがいせき)は、長野県飯田市にある、奈良時代から平安時代にかけての官衙遺跡2014年(平成26年)3月18日に一部が国の史跡となり、2年後の2016年(平成28年)10月3日に一部範囲が追加指定された[1]

概要[編集]

長野県南部の伊那谷の南に位置する、標高420~438メートルの比較的平坦な低位段丘上に所在する。この遺跡は、古代においては信濃国10郡のうちの伊那郡に含まれ、藤原宮出土の木簡などにも伊那郡の前身である「伊那評」の記載がみられる[2]。遺跡の西方には奈良時代の瓦が出土する元善光寺がある[3]

本遺跡の発掘調査は、1977年(昭和52年)の国道153号バイパス建設に先立ち行われ[3]縄文時代から近世にかけての遺構遺物が多数検出された。なかでも、奈良・平安時代では、遺構として掘立柱建物、遺物として和同開珎銀銭や、「美濃」の刻がある須恵器の他[3]、多数の陶硯緑釉陶器などが検出され、官衙的性格を有することが注目された。飯田市教育委員会では、この遺跡の重要性に鑑み、1983年(昭和58年)から70次を超える遺跡の範囲と内容を確認するための発掘調査を実施してきた。その結果、正倉、正倉区画溝、官衙の北限とみられる溝、官衙に関係する諸遺構、祭祀遺構などの存在が明らかになったが、郡庁に関わる施設は、これまでの調査で確認できていない[2]

遺跡は、Ⅰ期が7世紀後半、Ⅱ期が8世紀前半、Ⅲ期が8世紀後半から9世紀代、Ⅳ期が9世紀末から10世紀前半の4期にわたり変遷した。Ⅰ期は、本格的な正倉の成立以前で規模は、小さかったと考えられる[2]。Ⅱ期は計画的な造営が認められる段階で、正倉区画溝については、北東側で未確認ではあるが、長辺215メートル、短辺150メートルで、北側にある高岡1号墳を避けて台形を呈し、桁行4間、梁行3間の総柱掘立柱建物がほぼ等間隔で直列に配置される[2]。Ⅲ期は、掘立柱建物と同じ場所に礎石建物が造られたが、礎石が抜き取られている等明確ではない。また、の出土も確認され、瓦葺きの倉庫の可能性がある。Ⅳ期は、Ⅱ・Ⅲ期のような規則的な建物配置は認められなくなり、区画溝も確認されていない[2]

一方、正倉域から南西250メートルのところに、「恒川清水」と呼ばれている地点がある。周辺からは、人形、馬形、斎串など奈良時代の遺物も出土し、律令的な祭祀がおこなわれたことが考えられる。ちなみに、当地には秋葉信仰の石碑があり、現在においても地域住民による祭りがおこなわれている[2]

出土遺物としては、奈良三彩や、畿内系土師器など多数の土器、中でも陶硯の存在が注目される。この遺跡からは、圏足硯を主体とする専用硯が多数出土しており、長野県内の専用硯の約25%を占めるに至っている[2]。時期としては8世紀が中心で、9世紀には減少している。墨書土器の出土も顕著で、「厨(くりや)」「官」等の記されたものが検出されている。また、正倉を区画する溝からは軒丸瓦、軒平瓦、平瓦、丸瓦などが出土しており、正倉は瓦葺であったことが示唆される[2]。さらに、炭化米も出土し、籾殻のついた稲籾の塊(頴稲)、籾殻が付着しない握り飯状の塊の2種類が存在し、後者については、糒の可能性が考えられている。これら放射性炭素年代測定法を実施したところ、7世紀後半とされたものがある[2]

このように、恒川官衙遺跡は確認された遺構や遺物のあり方、文献史料等から、伊那郡衙(郡家)の可能性が高い遺跡であり、古代国家の地方支配の実態を具体的に知る上でも重要である[2]

脚注[編集]

  1. ^ 恒川官衙遺跡(飯田市)
  2. ^ a b c d e f g h i j 文化庁
  3. ^ a b c 「角川日本地名大辞典」p.505

参考文献[編集]

座標: 北緯35度30分53秒 東経137度49分19秒 / 北緯35.51472度 東経137.82194度 / 35.51472; 137.82194