恒性皇子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
恒性皇子
続柄 後醍醐天皇皇子
称号 大覚寺宮、越中宮
全名 恒性(こうしょう/つねなり)
出生 嘉元3年(1305年
死去 元弘3年/正慶2年5月10日1333年6月22日)(享年29)
父親 後醍醐天皇
母親 源親子(養・憙子内親王
役職 大覚寺門跡
テンプレートを表示

恒性皇子(こうしょう(つねなり)おうじ、嘉元3年(1305年) - 元弘3年/正慶2年5月10日1333年6月22日))は、鎌倉時代皇族後醍醐天皇皇子。母親は源親子、義母は大叔母でもある憙子内親王(昭慶門院)。別名は大覚寺宮越中宮

経歴[編集]

大覚寺門跡となっていたが、元弘の乱隠岐配流された後醍醐天皇に連座し、1332年(元弘2年/正慶元年)に還俗させられた上で越中国射水郡二塚(現・富山県高岡市二塚)にある現在の気多社(悪皇子宮)に流されて幽閉された。

しかし、翌年には後醍醐天皇が隠岐から脱出して倒幕の兵を挙げる。出羽越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしているという噂を聞きつけた執権北条高時は、皇子の北陸での挙兵を警戒し、越中守護名越時有に皇子の殺害を命じる[1]。時有の甥・名越貞持によって、皇子は側近であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通と共に暗殺された。なお、名越氏もこの約1週間後に放生津城(現富山県射水市)で、反幕府側にまわった御家人勢に囲まれて滅亡している。

墓所[編集]

太子墓と呼ばれていた高岡市二塚にある皇子の墓は、1912年明治45年)の皇太子(後の大正天皇)の北陸巡啓の際に宮内省による調査が行われ、同県で唯一の皇族陵に定められた[2]。現在は宮内庁が管理している。墓陵の近くには皇子ゆかりの品を伝えている浄誓寺がある。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 富山県公文書館『とやまの歴史』富山県、1998年、p44-45。
  2. ^ 朝日町にある北陸宮の陵墓は1970年(昭和45年)に分骨されたもの。