悼温公主

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悼温公主(とうおんこうしゅ、1621年生没?)は、泰昌帝の十女。母は慎嬪邵氏。姓朱 徽姃(しゅ きせい、しゅ きしょう)。

経歴[編集]

万暦48年(1620年)7月、万暦帝の崩御により泰昌帝が即位する[1]が、翌月に崩じた。代わって天啓帝が即位し、父帝の寵姫らはことごとく追放された。間もなく、側女の邵氏は1人の女子を産んだが、夭逝したという[2]。この時には名前も位号も与えられておらず、墓もなかった。

崇禎7年(1634年)、邵氏は崇禎帝から召し出されて、光廟慎嬪(泰昌帝の廟号の光宗による)の号を授けられた。邵氏の娘は懐淑公主(天啓帝や崇禎帝、邵氏の娘の嫡長姉)の墓に従祀され、また崇禎14年(1641年)、名前(朱徽姃)と悼温公主の号を追贈された。

伝記資料[編集]

  • 『春明夢餘録』卷29 按光宗在東宮、生育頗多。崇禎初追封皇兄斉思王等、皇姉悼淑公主等。至辛巳五月御札:皇六弟定懿妃生、七弟敬妃生、十妹慎嬪生、皆殤、未追封。擬封六弟湘懐王、七弟慧昭王、十妹悼温公主。七月二十日親定皇六弟名由栩、七弟名由橏、皇十妹名徽姃。又追賜九妹名徽妱、仍祭告奉先殿。
  • 『綏寇紀略』上又追念皇妹十公主幼殤未名、命附祭于懐淑、一如皇弟礼。

脚注[編集]

  1. ^ 諒闇の期間に新皇帝の夜伽は禁物であったが、泰昌帝は数人の新しい美人を寵愛した。
  2. ^ 人工妊娠中絶の可能性はある。