惟明親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
惟明親王 | |
---|---|
続柄 | 高倉天皇第三皇子 |
全名 | 惟明(これあき) |
称号 | 大炊御門宮、鳥羽三宮 |
身位 | 三品・親王 |
出生 |
治承3年(1179年) |
死去 |
承久3年5月3日(1221年5月25日) |
配偶者 | 藤原公時女 |
源通資女 | |
子女 | 尊雲、聖海、国尊王(交野宮) |
父親 | 高倉天皇 |
母親 | 平範子 |
惟明親王(これあきしんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての皇族。高倉天皇の第三皇子。品位は三品。
経歴[編集]
寿永2年(1183年)に異母兄・安徳天皇が平家の都落ちに伴って西国へ下った際、同じく異母兄の守貞親王も皇太子に擬せられてこれに同行したことから、1歳年下の異母弟・尊成とともに皇嗣の有力候補となる。しかし、惟明は母親(平範子)の身分が低かったことに加え、皇嗣を定めるために後白河法皇が両皇子を引見した際、惟明は法皇を見て大いにむずかった一方で、尊成は法皇に睦んだことから、皇位は尊成が継いだという(後鳥羽天皇)[1]。
文治5年(1189年)親王宣下を受け、建久6年(1195年)に後鳥羽天皇の生母・七条院(藤原殖子)の猶子となり元服して三品に叙せられる。承元4年(1210年)後鳥羽天皇の皇子・順徳天皇が即位すると、皇位継承の望みがなくなった不遇を儚んで、翌承元5年(1211年)出家し、以後は聖円入道親王と名乗った。承久の乱直前の承久3年(1221年)5月3日薨去。享年43。
和歌に優れており、式子内親王や藤原定家などの当代随一の歌人とも親交が深かった。『新古今和歌集』(6首)以降の勅撰和歌集に33首が収められている[2]。
系譜[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『本朝皇胤紹運録』