慕容麟

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慕容 麟(ぼよう りん、不詳 - 398年[1])は、五胡十六国時代後燕の皇族。後燕の皇帝慕容垂の子で慕容宝の弟。

弟の慕容宝に逃れた際、中山で燕帝を僭称した。同年に同じく燕帝を僭称した慕容詳を殺している。その後元号を延平とした。だが数ヵ月後に叔父の南燕慕容徳に降伏した。

生涯[編集]

前燕の呉王慕容垂の庶出三男として生まれた。369年、慕容垂と共に前燕から前秦に亡命した。当初、慕容垂は旧都である龍城に拠り、皇太后との和解を計画していたが、慕容麟が首都の鄴城へ引き返し、慕容垂の計画を暴いたことで慕容垂が前秦に奔走することを決意した。鄴城で慕容麟は皇太后によく思われず、慕容亮の下の沙城に左遷された。370年、兄の慕容令が前秦の宰相王猛に騙されて前燕に帰ると龍城の奪取を考えたが、慕容麟が慕容亮にそれを明かしたため、慕容亮の配下の渉圭が慕容令を殺した。同年、前秦が前燕を併呑すると、慕容垂は前秦の皇帝苻堅を鄴城に迎え入れ、慕容麟の母を処刑したが、慕容麟を処刑はせずに離縁した。しかし383年 - 384年に慕容垂が淝水の戦いの後の前秦から独立する際に慕容麟は数々の献言をしたため、慕容垂から信用されるようになった[2]

慕容垂時代[編集]

384年、慕容垂が後燕を建国すると、前秦の残党との戦いに多大な功績を立てた。386年、趙王となった。386年 - 387年390年 - 391年、慕容麟は後燕の属国であった北魏の拓跋珪と共に匈奴の劉顕などの北魏の脅威を破った。391年、慕容垂に拓跋珪を重用して中山に呼び寄せることを勧めたが、慕容垂は従わなかった。

391年、拓跋珪が後燕と対立して侵略するようになると、慕容垂は395年に太子の慕容宝を慕容麟や慕容農と共に攻撃に向かわせた。しかし、後燕と北魏が盛楽で対峙すると、拓跋珪は慕容垂が死んだという誤報を広めさせ、慕容麟の配下の慕輿嵩が慕容宝を弑逆して慕容麟を皇帝に建てることを企んだが、露見して殺された。この事が慕容宝と慕容麟の間に亀裂を生み、後燕軍は退却した。慕容宝は慕容麟を北魏に備えて辺境の守りに置いたが、慕容麟が慢心したため北魏軍は参合陂で慕容宝の軍を大破した(参合陂の戦い)。慕容垂は396年に北魏を攻め、成功したが、参合陂の側を通ると嘆いて病を発し、死ぬと慕容宝が即位した[2]

即位[編集]

395年の参合陂の戦いの後、慕容麟は慕容宝に部将として信頼された[3]北魏拓跋珪慕容農を破って并州を取ると中山に向かった。慕容麟は中山の守りに向かったが、守りを堅めて北魏軍と戦おうとしなかった。これは慕容農と慕容隆の反感を買った。

397年春、中山は北魏に包囲されていたが、慕容麟は中山内で慕容宝のクーデターを企んだ。それが失敗すると、中山を出て太行山に拠った。慕容麟が慕容会の援軍を襲うことを恐れた慕容宝は中山を棄てた。中山の人民は北魏と対抗するため慕容詳を統治者として支持したが、同年夏、慕容詳が即位したが、北魏と戦おうとせず、飢餓を無視して残虐だったため人民の怒りを買った。慕容麟は開門された中山を襲撃し、慕容詳を捕らえて殺した。慕容麟は自ら即位し、人民に食材の蓄積を許可した。しかし北魏と戦おうとしなかったため北魏に中山を奪われた。慕容麟は帝位を棄てて鄴城の慕容徳に奔走した。

慕容麟は慕容徳に、鄴城が守りには向かないことを指摘して黄河の南の滑台で北魏に備えることを説得した。慕容徳はこれに従った。慕容麟は慕容徳に帝位を勧めた。慕容徳は後に南燕の創始者となる。慕容麟は重宝されたが、造反を企むと慕容徳に処刑された[1][4]

[編集]

  • 慕容根 - 後燕の散騎常侍、後に北魏に投降した

脚注[編集]

  1. ^ a b 『資治通鑑』「晋紀」巻110
  2. ^ a b 『晋書』「慕容垂載記」
  3. ^ 『晋書』「慕容宝載記」
  4. ^ 『晋書』「慕容徳載記」

参考資料[編集]

  • 資治通鑑』「晋紀」巻102、105-110
  • 晋書』「慕容垂載記」巻123「慕容宝載記」巻124「慕容徳載記」巻127
先代:
慕容詳
後燕の対立皇帝
397年 - 398年
次代:
滅亡