懿安張皇后

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張皇后(ちょうこうごう、1607年11月24日万暦35年10月6日) - ?)は、天啓帝の皇后。崇禎帝から懿安皇后(いあんこうごう)の尊号を贈られた。

経歴[編集]

河南省祥符の人。監生張国紀と陳氏の長女として生まれた[1]天啓元年(1621年)、選抜され皇后に立てられた。父の張国紀は正一品錦衣衛左都督となった。明の皇帝としては珍しい、親の許しを経ず皇帝自身の選択のみによる結婚だった[2]

張氏は容姿は美しいが超然として高慢な性格で、深緑の服を好み[3]、平素は本を読むのが好きであった。当初、太監(宦官魏忠賢と乳母の客氏が天啓帝の信任を受けて後宮の権勢を掌握していて、皇后と彼らとは犬猿の仲になった。子を妊娠したものの、客氏のために流産させられたという[4]。後に信王朱由検(崇禎帝)を後継に立てさせたのは、皇后の力であった。

崇禎帝が即位すると、皇嫂(皇帝の兄嫁)たる懿安皇后と称され、慈慶宮に入住した。また崇禎3年(1630年)、張国紀は太康となった[5]。崇禎15年、仁寿宮(先帝妃嬪の居所)に移された。

崇禎17年(1644年)3月18日、北京が李自成軍によって陥落すると、崇禎帝は懿安皇后と皇太妃李氏に自害を命じたが、混乱のさなかでその命は伝わらなかった。翌日、李自成軍が皇宮に侵入すると、懿安皇后はその際の混乱により行方不明となった。自殺したと考えるのが通説であるが、変装して逃亡したとも言われた。南明弘光帝によって、孝哀慈靖恭恵温貞偕天協聖悊皇后諡号が贈られた。

子女[編集]

  • 朱慈燃(流産、懐沖太子の諡が贈られた)

伝記資料[編集]

  • 『明熹宗実録』
  • 『崇禎長編』
  • 『甲申伝信録』

脚注[編集]

  1. ^ 天啓元年夏、婚礼後まもなく、死刑囚の孫二は皇后の実父を自称した。2か月後、孫二は原判決のまま斬首刑に処され、事件は収束した。後に権力闘争が激化した頃、この一件が張氏への攻撃材料となった。
  2. ^ 天啓帝の祖父、祖母、父、嫡母、生母はいずれも既に死去していた。
  3. ^ 『崇禎宮詞注』
  4. ^ 流産しなければ、天啓帝の次男(第3子)となっていた。
  5. ^ 崇禎17年2月、張国紀は2万両の義捐金を崇禎帝に献じて、侯爵となった。しかし翌月、大順政権に財産を押収され、拷問によって死去した。