戎橋松竹

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戎橋松竹(えびすばししょうちく)は、かつて大阪市中央区(旧・南区)に存在した演芸場。千日土地建物[1](のち千土地興行をへて日本ドリーム観光)経営。終戦直後における大阪唯一の寄席として知られた。通称・戎松えびしょうえびまつ

歴史[編集]

元来は映画館。戦前から吉本興業に対抗して幾度か演芸進出を図っていた松竹[2]創業者で会長の白井松次郎が、1947年自ら経営する千日土地経営の映画館・戎橋松竹を改装して演芸場に転換。漫談家・花月亭九里丸5代目笑福亭松鶴の楽語荘の同人が中心となり演芸人が集合。開場時には久里丸のアイデアでかつて舞台役者が道頓堀での芝居興行初日の際に行った道頓堀川の「船乗込み」を模したイベントが催された。

戦後の上方落語界を支えた落語四天王(6代目松鶴3代目米朝5代目文枝3代目春団治)らが新人として修行を重ね、また爆笑漫才の中田ダイマル・ラケットなど様々な芸人がこの劇場の舞台で腕を磨いた。東京からも幾人かの芸人が来演し、東西演芸交流の舞台ともなった。

当時戎橋松竹で行われていた若手の会「戎松日曜会」の集合写真。後列右が六代目笑福亭松鶴(当時光鶴または枝鶴)。左に三代目米之助五代目文枝(当時あやめ)旭堂南陵(当時二代目小南陵)。子供は和多田勝(当時小つる)

定員は300名程度でバラック造りの小屋ながら、中店が存在し、二階事務所は東京から来演した芸人が宿泊したりしていた。

当初は完全入れ替え制でかつ全席指定席であった。これは東京の東宝演芸場に倣ったものだが、やがて客足が落ちると入れ替え制を撤廃し、団体客を入れるようになった。客層も変化してじっくり落語を演じるよりも、賑やかな色物が好まれるようになった。1951年以降は朝日放送と提携して、舞台中継が放送された。

1954年、戎橋松竹支配人も務めていた勝忠男は千土地を辞して独立を図り、戎橋松竹常連の一部の芸人を引き連れて新生プロダクション(後の松竹芸能)を設立。千土地は対抗上残った戎橋松竹のレギュラー陣を専属化し、また現在のケーエープロダクションの母体とも言える秋田實の上方演芸に所属する芸人を迎えて番組を編成した。

しかし、千土地の経営基盤を確立する名目で、千日前大阪歌舞伎座を難波駅前の新歌舞伎座へ移転する事となり、その建設資金捻出のため1957年1月下席をもって北海道拓殖銀行に敷地を譲渡して閉鎖された。

現在は跡地に近鉄難波ビルが建ち[3]、地下は大阪難波駅の構内となっている。

朝日放送の「朝日放送ラジオ落語ライブラリー」には1955年4月9日収録のダイラケの「恋の手ほどき」の漫才と砂川捨丸のコンビ生活50周年記念の口上(他にも花月亭九里丸芦乃家雁玉林田十郎浮世亭夢丸浮世亭夢若が並んだ)の音が残されているのみ。

主な出演者(歌舞地下時代も含む)[編集]

漫才[編集]

他多数

落語[編集]

ほか多数

その他[編集]

後継劇場[編集]

歌舞伎地下演芸場[編集]

通称・歌舞地下。千日前・大阪歌舞伎座の地階にあった劇場で、元来は映画館。1957年1月1日に戎橋松竹の代替劇場として開場した[4]が、翌1958年4月30日に大阪歌舞伎座閉鎖と運命を共にした。閉鎖理由は歌舞伎座ビルの改装の他、近鉄が地下線で難波に延伸すべくその工事の開始が近々予定され、地下劇場の運営に支障が出る事が想定されたためである。収容人数は3~400人程度であるが、客席に柱が2本存在していたり、寄席囃子の音が楽屋を伝って上階の歌舞伎座の舞台にまで漏れてしまうなど、構造上問題があったといわれている。

京洛劇場[編集]

京都新京極の六角通にあった劇場。1958年5月1日開場。1959年1月31日をもって映画館に転向。

千日劇場[編集]

千日前・大阪歌舞伎座を改装した千日デパートの6階に開場した劇場。1958年12月1日開場。1969年4月30日閉鎖。

脚注[編集]

  1. ^ 三代目桂米朝は、自著に「当初松竹が経営していたが途中から千土地に変わった」といった内容を記述しているが、当初から千土地経営である。ただし、千土地は開場当初松竹の関係会社であったが、1954年に経営難で白井松次郎の末弟・白井信太郎から松尾國三に経営者が変わり、松竹系役員がすべて退陣している。松次郎の双子の弟で松竹社長の大谷竹次郎の要請で行われたものだが、このときをもって千土地は松竹の手を離れている。米朝のいう「千土地に経営が変わった」とはこの一件を指しているのであろう。
  2. ^ 松竹と上方演芸との関係は松竹芸能#吉本興業との関係の項を参照のこと。
  3. ^ 北海道拓殖銀行が更に近鉄不動産に売却。拓銀は引き続きテナントに入っていたが、現在は野村證券が入居。
  4. ^ 正月興行といったかき入れ時があるためか、1か月間は戎橋松竹と並行稼働していた。