戒秀

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戒秀(かいしゅう、生年不詳 - 長和元年(1015年)閏6月)は、平安時代日本歌人肥後清原元輔の子で、姉妹に清少納言がいる。子に定額がいたとする系図がある[1]

概要[編集]

比叡山延暦寺の僧であったが花山院に登用され、殿上法師となる。寛弘元年(1004年)祇園社別当。同年閏9月4日に花山院の御使として藤原道長を訪ねる。長和元年(1015年)閏6月12日、の直撃に遭い数日後に死去[2]

今昔物語集』に、戒秀がある年配の受領の妻のもとにこっそり通っていたが、受領に見つかってしまい、受領の一計により、祇園社で恥をかかされたという逸話がある[3]

和歌[編集]

父・元輔と同じく戒秀も勅撰歌人で、『拾遺和歌集』及び『詞花和歌集』に各1首の合計2首が採られている。

  • 亀山に いく薬のみ 有りければ 留むる方も なき別れかな(拾遺集・331番)
  • 春ごとに 心をそらに なすものは 雲ゐに見ゆる 櫻なりけり(詞花集・26番)

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「豊後清原系図」(『続群書類従』巻第173所収)
  2. ^ 小右記
  3. ^ 『今昔物語集』巻第28本朝付世俗,第11