折口春洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓:藤井、1907年2月28日 - 1945年3月19日)は、日本国文学者歌人

経歴[編集]

石川県羽咋郡一ノ宮村(現在の羽咋市)に藤井升義の四男として生まれる。生家は漢方の眼薬を伝える古い家柄であった。

石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1925年國學院大學予科に入学し、折口信夫に師事。折口主宰の短歌結社「鳥船社」に入り、新派短歌を作る。1928年同性愛者であった折口と同居開始。実質的な愛人としてである。

1930年、國學院大學文学部国文科卒業。

1934年、國學院大學講師となる。1936年には國學院大學教授に就任。

1943年太平洋戦争で2度目の召集を受け、金沢歩兵聯隊に入営。1944年7月、陸軍少尉として硫黄島に着任。独立機関銃第2大隊第1中隊の小隊長となる[1]。同じく1944年7月、折口信夫の養子として入籍。

独立機関銃第2大隊第1中隊は、硫黄島の戦い1945年2月19日 - 1945年3月26日)の直前、2月17日に、アメリカ艦隊の激しい艦砲射撃により、陣地からの後退を余儀なくされ、2月23日ごろまでに全滅したとされる[1]独立機関銃第2大隊の総員288名のうち、硫黄島からの生還を果たしたのは1名のみであり、折口春洋の戦死の様子は不明[1]。戦死により陸軍中尉に進級。

折口信夫は米軍上陸の2月17日を折口春洋の命日と定め、「南島忌」と名づけた。

折口信夫が建てた父子の墓は羽咋市にある。折口信夫の撰した墓碑銘「もつとも苦しき / たゝかひに / 最もくるしみ / 死にたる / むかしの陸軍中尉 / 折口 春洋 / ならびにその / 父 信夫の墓」 (/は改行、引用者が挿入)が刻まれている[1]

家族・親族[編集]

歌集[編集]

1800首を収録。巻末には「島(硫黄島)の消息」と「追ひ書き」があり、硫黄島で詠んだ歌と手紙を収める。


脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 梯 2013, 位置No. 612/712, ドキュメント2 三人の若き指揮官の肖像-■折口春洋 折口信夫の弟子にして恋人の死

参考文献[編集]

関連項目[編集]