押川方義

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おしかわ まさよし
押川方義
Reverend Masayoshi Oshikawa.jpg
生誕 1850年1月17日
伊予国(愛媛県)松山
洗礼 1872年3月10日
死没 (1928-01-10) 1928年1月10日(76歳没)
職業 キリスト教宗教家牧師教育者政治家
宗教 キリスト教
配偶者 押川常子
子供 押川春浪(長男)
押川清(次男)
所属政党 革新倶楽部1922年11月から)

選挙区 愛媛郡部、愛媛1区(松山市
当選回数 2回
在任期間 1917年4月20日 - 1924年1月31日
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押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日嘉永2年12月5日[1] - 1928年昭和3年)1月10日は、日本人キリスト教宗教家教育者東北学院及び宮城学院の創立者。日韓同志組合代表者の一人[2]新島襄本多庸一植村正久内村鑑三新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清

NHK朝の連続テレビ小説はね駒』の登場人物・松浪毅のモデルである[3]

生涯[編集]

生年[編集]

押川方義の生年に関しては諸説あったが、押川家の鎧櫃から「熊三郎[4]産髪包紙銘記 嘉永二年十二月五日出生 熊三郎産髪[5]と記された和紙が発見され(実際に産髪が包装されていた)、嘉永2年生まれ(グレゴリオ暦への換算では1850年)であることがほぼ確実となった。

初期[編集]

青年時代の押川方義

松山藩士橋本宅次の三男として生まれ、押川方至の養子となる。1866年(慶応2年)の第二次長州征伐に松山藩兵として従軍[6]。藩校の明教館で学んだ後、1869年(明治2年)貢進生に選ばれて上京し、開成学校に入学したが[7]1871年(明治4年)押川、横浜の「修文館」に移る。 ジェームス・ハミルトン・バラ(James Hamilton Ballagh、1832年9月7日 - 1920年1月29日)横浜居留地167番の小会堂で押川方義本多庸一植村正久ら達青年を教える、所謂「バラ塾」(「横浜英語学校」)に転じ、キリスト教に触れる。1872年(明治5年)日本人による最初の祈祷会 がバラの指導のもとに始まる。祈祷会は連日続けられたが、1872年3月10日(明治5年2月2日)、日曜日の午後、押川方義ら「バラ塾」青年中9名、バ ラから受洗。 この日、既に他所で受洗していた2名を加えた11名により我国最初のプロテスタント教会である「横浜公会」(「日本基督公会」)創立。 バラ、 仮牧師となる。日本最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」(現横浜海岸教会)にて宣教師J・H・バラより洗礼を受けた。すぐに、押川は青年長老となり、バラ仮牧師と一緒に日本基督公会(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)を組織する。通称横浜バンド

日本基督公会は日本基督一致教会に継承され、押川は日本基督一致教会の伝道者として東北伝道に赴く。プロテスタント諸教派は、日本における福音伝道には共同して当たり、各教派の宣教師達は日本を地理的に分割して伝道を担当し、東北地方は1886年6月に日本伝道を開始していたドイツ改革派教会(Reformed Church in the United States)に割り当てられた。押川はアメリカ人ドイツ改革派教会宣教師W・E・ホーイと出逢う。

新潟時代[編集]

1873(明治6)年「エディンバラ医療伝道会」、日本伝道を決定し、日本派遣最初の宣教医師としてT ・A・パームを選任した。新潟伝道に従事していた宣教師T・A・パームの通訳雨森信成が通訳を辞めると、医療伝道開始していたパーム、横浜のブラウンに協力者派遣を要請。 ブラウンからこの要請を知らされたバラは祈祷会の席上で「ブラウン塾」生達に新潟伝道応援のための献身者を募る。 誰一人応ずる者無き中で、一心に祈っていた「横浜公会」長老の押川方義に神の言葉が聞こえ「我、行かん」と新潟行きを決心、これに応ず。1876(明治9)年1月3日、押川、新潟のパームのもとに到着。 押川は1875年(明治8年)12月に新潟中條町到着、押川が代役に志願、翻訳通訳などパームの助手をする。

「合衆国改革派教会」(「ジャーマン・リフォームド」)、「米国改革派教会」(「ダッチ・リフォームド」)と提携して外国伝道を行うことを決定。1877(明治10)年10月3日、「日本基督公会」、「日本長老公会」合同により「日本基督一致教会」組織。

石油開発のために新潟に来た吉田亀太郎、パーム並びに押川による伝道説教で福音に接す。 押川、吉田亀太郎の協力も得て宣教活動の結果、新潟教会東中通教会が形成される。[8]

1878年(明治11年)7月に東京築地の東京公会(新栄教会)第一回全国基督教信徒大親睦会に出席して、仏教、浄土真宗の迫害の激しい新潟から来て、押川自身も日本刀で辻斬りに会い、命を落としそうになった経験を踏まえて、悲壮なる覚悟で、「城を枕に討ち死にするんだ」との決心を表わした。

仙台時代[編集]

第三回全国基督信徒大親睦会の幹部の記念写真

1880年(明治13年)に押川と吉田亀太郎が新潟大火災をきっかけに、宮城県への伝道のビジョンを持ち、パームの励ましのもと、9月6日に新潟を立ち、10月10日より北三番町木通り角屋敷に「基督教講義所」の看板を掲げて伝道を開始した。押川と亀田は風呂敷を背負って仙台市内を巡回して聖書販売と路傍伝道を行ったが、伝道は困難を極めた。1881年(明治14年)に押川は腸チフスを患い、三ヶ月療養生活をする。

1881年5月1日に、横山覚、伊藤悌三が押川から洗礼を受ける。これが、仙台日本基督教会(現・日本基督教団仙台東一番丁教会)の創立記念日になった。

吉田と押川は仙台に拠点をもったが、仙台と新潟を絶えず往復して、その途中にある福島と会津の伝道を行った。押川と吉田が福島で宿泊して一番大きな家から伝道を始めると、小此木信六郎が出てきて、彼らの伝道により直ぐ洗礼を志願して、洗礼を受けた。

1883年(明治19年)5月に上京して、東京築地の新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に出席する。横浜海岸教会で始まった明治のリバイバルの影響で熱狂的な集会になった。押川は仙台に打電して、「非常時来た、集まりて熱心に祈れ」と教会員に指令を出した。[9]

1885年の夏には福島県の鐸木三郎兵衛の紹介で、飯坂小学校を会場にキリスト教演説会が行われ、植村正久、押川方義、グイド・フルベッキなどが伝道の演説をした。1886年には、福島耶蘇教講義所(日本基督教団福島教会)が設立された。吉田亀太郎が初代牧師になった。[10]

山形時代[編集]

1886年(明治19年)には、山形県上山市で伝道を開始して、上山教会を設立、1887年(明治20年)には山形教会(日本基督教団山形六日町教会)、1888年(明治21年)には鶴岡教会(日本基督教団荘内教会)1990年には米沢教会(日本基督教団米沢中央教会)を設立した。[11]

教育者[編集]

このように東北地方を中心に伝道活動を続ける中で、1886年アメリカ人ドイツ改革派教会宣教師のウィリアム・E・ホーイとともにキリスト教伝道者育成を目的とした「仙台神学校(現・東北学院)」及び、女子教養教育の普及を目的とした「宮城女学校(現・宮城学院)」を創設した。1901年(明治34年)に仙台を離れた後も顧問として東北学院と終生関わりを持った。


日本基督教会の指導者
上左から右下へ、奥野昌綱押川方義植村正久井深梶之助熊野雄七

島崎藤村の『桜の実の熟する時』という自伝的小説の中で、明治学院の学生であった時に開催された YMCA の夏期学校の様子が描かれ、当時のキリスト教会の代表的指導者たちの人となりが、名は伏されたまま記されている。フルベッキ植村正久海老名弾正小崎弘道本多庸一徳富蘇峰と思しき人々と共に、押川方義のことが 次のように描かれている。 「今度の夏期學校の校長で、東北にその人ありと言われ、見るからに慷慨激越な氣象を示したある學院の院長が通った。」 若き藤村の目には押川が「慷慨激越な気象を示す」人物と映ったのである。一瞥したにすぎなかったが文学者特有の鋭い直感が、的確に押川の人となりを描き出している。

日本基督公会を継承する日本基督一致教会は東北学院創設者である押川の出身教会であった。東北学院神学部(仙台神学校)の創設にあたった合衆国ドイツ改革派教会(Reformed Church in the United States,German,略称:RCU)は日本における福音伝道には日本基督一致教会の諸州派と共同して当たり、仙台を中心に北日本を担当した。各教派の宣教師達は日本を地理的に分割して伝道を担当していたのであった。合衆国ドイツ改革派教会伝道局と日本基督一致教会の伝道師である押川の直後の討議がもたらされることになるのはむしろ必然であった。1889(明治22)年3月2日、押川方義、「在日宣教師社団」(「ジャパン・ミッション」)の推薦と「合衆国改革派教会」外国伝道局の招聘により欧米の教育事情その他視察に出発。押川は渡米し、ドイツ改革派教会宣教師団伝道局と神学校校舎設立(東北学院神学部)を協議した。後に宮城学院の校長になる、在日宣教師団エリザベス・R・プールボー(Elizabeth R Poorbaugh)のドイツ改革派教会宣教師団伝道局宛の書簡Poorbaugh letter to Keller. Jan.15.1889によれば以下のように伝えている。[12]

一致教会が合同を持ちかけている日本の組合教会は日本人伝道者をアメリカに送っており(同志社新島襄を指す)もしもドイツ改革派教会宣教師団伝道局が押川師を渡米させないならば私達は押川師を失うかもしれない。押川師が去る時、私達が自分達の成果として報告して来たものの全て、あるいは大部分を失うことになりましょう。私達の全部が束になっても押川師ひとりの影響力とは比較すべくもありません。押川師は疑いもなくこの帝国内で第一級の説教者ですから。 — Poorbaugh letter to Keller. Jan.15.1889

また、押川の仙台帰還に際してドイツ改革派教会の機関誌『メッセンジャー』はD・B・シュネーダーの書いた次のような賛辞を掲載した。[13]

押川を載せて来た船から彼の祖国が見えた時、彼は泣きました。彼の涙はこの国の物質的貧しさのゆえであり、道徳的・霊的低さゆえでした。説教者、また指導者として彼に比ぶべき者はありません。新島の死のあと、日本のキリスト者の最も傑出し、最も影響力があるのは、他ならぬ押川なのです。 — Schneider letter to Board, Jan. 16. 1890

もっとも、この時点で押川は明治学院の副総理として東京に来るようにとの魅力ある申し出を受けていたのである。ゆえにウィリアム・E・ホーイは本気で押川を東北学院(仙台神学校)から失うことを心配した。シュネーダーと共に、ホーイは押川を高く評価し続け、様々な問題が起こったにもかかわらず、彼を支持し続けたのである。[14]

1892年(明治25年)のドイツ改革派教会宣教師団伝道局年次報告The Messenger, Feb, 23 1893をホーイは副院長として次のように書いた。[15]

押川はまさしく、適材適所の見本のような人物です。青年たちに及ぼす彼の影響力は東北学院を設立した教会の益を押し進める点で、他の誰にもひけを取りません。学生たちの進歩と向上を願う彼の私欲を抜きにした献身ぶりは、他の何にも替がたいところです。学生たちは押川を父親のように慕っております。

また、『メッセッンジャー』紙の記事記載にあたり、ホーイは学生に向けての押川の演説をこう特色づけている。[16]

彼は日本が必要としているものについて語り、このような必要を満たし、この発展途上国の諸問題に対処するのは、どのような人間であるのかを説き明かします。彼はいつでもその解決策、その目標、その理想を主イエス・キリストに求めます。神人の似姿として創造された人こそ、日本を作り上げなければならないのだ、と。 — ウィリアム・エドウィン・ホーイ伝 ー139、140頁1988年5月

日本基督一致教会と 日本組合基督教会の合同問題[編集]

1886年から1890年にかけては、日本基督一致教会日本組合基督教会との合同運動とそれに伴う合同問題が生じた。 組合教会の新島襄は、日本基督一致教会牧師で、後に明治学院総理となった井深梶之助にあてた1881年11月12日の手紙で、組合教会と一致教会が十分、合同の意味をよく理解し、納得の上で合同するならば、これに反対しないとした。新島は当初、反対していた。しかし、そこには新島なりの見解が存在していた。それは会衆主義的自由がないがしろにされ、その独自性が喪失することを考慮したゆえであるということであった。長老主義は組合教会の主義と対立するものであり、合同は各教会の独立と自治を失うことになりかねないとして、これに反対し、合同するならば、自らは組合教会から脱会することさえ考えているとしていた。それゆえに、この頃、新島は合同草案を修正するに際して、東北学院創設者の押川方義と意見交換を行なってもいる。それによって新島は合同草案修正について押川の提案を新島の母教会である群馬の牧師たちに伝え、組合教会側の修正案は一致教会側にも受け入れられた。 合同は実現しなかったが 日本基督一致教会の長老(押川)と協議においての一致が意味するものは組合基督教会にとっての喪失と新島には思われた。

ホーイとの別れ[編集]

1898年(明治31年)4月1日付けで、押川が「帝国全域で伝道を展開するため」二年間の休暇を願い出た時、少しも驚きを持って受け止められなかった。押川は院長の職に留まるが給料は半減するということで合意が成立する。 東京へ移る前に押川は「十分な給料を払って自分の代わりに任命することを願っていますが、学院憲法は宣教師の一員たる副院長が、院長不在の場合には院長の代理をするように定めています」と語る。

ホーイの解釈では、押川にとって東北学院は活動の場として余りに狭すぎた。

「もはや彼(押川)から多くの奉仕を期待しませんが、これが彼を満足させる最善の途と考えます」Ibid,Nov.6,1897.Mission Proceedings,Nov.16,1897 [17]

大アジア主義[編集]

1894年(明治27年)には朝鮮半島で日本文化のアジア進出を考え、キリスト教界、大隈重信他政財界人の協力で日本語教育を行うことを目的として大日本海外教育会を結成、朝鮮に京城学堂を設立。さらに翌年には北海道同志教育会をおこし、湧別村に学田を設けたりもした。

押川が主導した大日本海外教育会創立[編集]

京城学堂は、旧韓末「日語学校」日清戦争 (1894〜 95年)前後から日韓併合 (1910年)にかけての 韓国史上「旧韓末」主として日本人の手によって設立され日本語および「日本語による普通学」の教育を目的とした「日語学校」と総称される一群の学校である。一般に韓国近代教育史は,官公立学校・キリスト教系私立学校・民族系(非キリスト教系)私立学校を3本の柱として展開されたとするのが定説となっている。発足当初の役員陣は、会長未定、副会長押川方義 理事本多庸一 幹事勝田孫弥 評議員板垣退助以下8名であった。会長に押川、副会長に本多、実質的にそうであったというにすぎない。実際には当初、あくまでも、押川が副会長、本多が理事だったのであり、会長は名誉職とし大隈重信であった。 参画は巌本善治 原田助等の諸氏、其贊同を得て、茲に海外數育會を創立する事となった。本多・松村・巌本は横浜バンドの面々であり、原田は 横浜パンドの出身ではないが、この後 (1907〜1919年)同志社社長を務めることになるキリスト教界の大立者である。本多庸一は、押川の生涯の盟友で、しかも本多の政治志向は押川に勝るとも劣らぬものがあった。押川が主導した大日本海外教育会創立への参画はこの延長線上に位置づけられるものである。ちなみに、当時本多は青山学院長であった。こうして陣容を整えた海外教育会は、その最初の事業として京城学堂の開設に着手することになる。

京城学堂の開設[編集]

 大日本海外教育会の朝鮮進出に当ってこれを斡旋した中心人物は、当時の駐朝公使井上馨であった。井上は「押川氏の如き人物が朝鮮教化に蠱力さるは自分の最も欲する所である」と考えていたのである。大日本海外教育会の朝鮮進出基地たる京城学堂、それも、押川らの当初の構想であった「大学布及(ユニバシティ・エクステソション)」の形態でなく、日本語学校としの形態が確立した。 三国干渉などの紆余曲折を経て京城学堂設立のための要員として小島今朝次郎が派遣されたのは1895年12月のことであった。小島は同志社の出身で大日本海外教育会が組織される前から朝鮮教育に志を立てていた。

渋沢栄一伝記資料』第27巻所収の大日本海外教育会「義捐名簿」趣旨 によれば、ここでいう「代表者」は小島今朝次郎を指すことになる。「 彼が明治28京城学堂は小島を初代堂長として1896年4月15日、約40名の生徒を以て開校した。彼学務衙門の委托に応して学生数名を収育し又京城に於て一校を創設して之を京城学堂と号し彼子弟を就学せしむ」とある 。

大日本海外教育会創立当時の資金募集について『聖雄押川方義』は「斯くて先生は一方日本國内の基督教會に檄を飛ばして其寄附援助を求めたと共に、他方國内の有力家を勸説して其贊同と後援を求めた。當時朝野の有力家も能く先生の趣旨を察知し何れも喜んで先生の擧を後援すべきことを約した。當時の有力家伊藤博文 西園寺公望 近衞篤麿 大隈重信 澁澤榮一等の諸氏は何れも先生の企圖を直接間接に支持し後援した」と記している。
しかし京城学堂は、明治30(1897)年8月、開校以来の会洞校舎が手狭になった為、明洞に新校舎を購入 移転している。明治三十二 (1899)年度京城学堂報告によれば「明治三十年八月校舎購入ノ為メニ京仁間二寄附金ヲ募集セシニ、時ノ公使加藤増雄氏ヲ始メ在京仁諸有志ノ尽力二由リ千数百円ノ寄附金ヲ得タリ之二本部ヨリノ送金ヲ合シテ現今ノ校舎ヲ購入シ之二移転スルヲ得タリ」とある。 これはすなわち当時、京城・仁川等在留の日本官民の間に京城学堂支援体制がある程度できていたことを意味する。
一方、韓国政府 (学部)も1898年12月、京城学堂を以て同国公立学校に准ずるの認許状を交付し、同時に毎年360元 (当時の元は円に同じ)の補助金を下付することを約した。当時韓国 近代教育の普及を図るという意味から日本の教育進出を歓迎し、これを保護する政策をとったのである。
このように韓国在留日本人の支援体制もある程度整い、韓国政府からの補助金もでるようになったが、在留邦人の援助は校舎移転という一事業にはほぼ充分であっても経常的に期待できるものではなかったし、韓国政府の補助も金額としては僅かであった。

そこで大日本海外教育会としては、どうしても日本国内における財政基盤を固める必要があった。このために開催されたのが1899年2月14日帝国ホテルにおける懇談会である。この会合は渋沢栄一押川方義らの名義によって招集され、来会者は政・財界の有力者40余名にのぼった。席上伊藤博文大隈重信の演説に続いて渋沢栄一は大日本海外教育会の 財政的窮を訴え、来会者の相応の出資を願った。

政治家時代[編集]

晩年の押川方義

親交のあった大隈重信からの勧めにより、1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙福島県郡部から出馬するも落選。1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では愛媛県郡部から出馬して当選、さらに1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では愛媛1区(松山市)に転じて当選。1922年11月に結成された革新倶楽部に加わり、犬養毅尾崎行雄島田三郎古島一雄中野正剛らと行動を共にした。

代議士としての押川の活動は外交問題、とりわけ日中関係に関するものが多かった[18]

最期[編集]

1927年1月に脳溢血で倒れ[19]、翌年1月10日東京府大井町で死去。享年76歳。

デヴィッド・ボウマン・シュネーダーは東京で行われた葬儀に列して帰仙すると、合衆国・ドイツ改革派教会伝道局幹事のバーソロミューに宛てて書いた。「押川先生は最後の年になって神の恵みを新しく体験されたように感じられます」と。[20]

かつて東北学院を去るにあたり宣教師を中心とする学院理事会との衝突はあったが、創立者の一人としての押川の貢献は否定すべくもなく、葬儀は青山斎場で東北学院関係者によりキリスト教式で行われた[21]。押川の遺骨の一部は東京の墓地に埋められたが、残りは仙台の北山キリスト教墓地に葬られた。押川はその若い頃、そこをキリスト教墓地として獲得するにあたって力があったのである。のちに同窓生たちは押川のため同地に墓碑を建てた[22]

脚注[編集]

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  1. ^ 『東北学院百年史』 63-64頁
  2. ^ (90) 韓日同志組合에 관한 重要文書 押收件 續報 韓国史データベース
  3. ^ 『快男児 押川春浪』 22頁
  4. ^ 熊三郎は方義の幼名である(『東北学院百年史』 65頁)。
  5. ^ 『東北学院百年史 資料編』 2頁
  6. ^ 『東北学院百年史』 77-79頁
  7. ^ 『愛媛県史 人物』 愛媛県史編纂委員会、1989年、147-148頁
  8. ^ 守部(2009年),p71
  9. ^ 小野(1986年),p.78
  10. ^ 守部(2009年),p.32-p.33
  11. ^ 守部(2009年),p.29-p.30
  12. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 p.82
  13. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 p.98
  14. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 p.98
  15. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 p.139
  16. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 p.140
  17. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』1986年 p,165
  18. ^ 『押川方義 そのナショナリズムを背景として』 275-283頁
  19. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)7頁
  20. ^ 『シュネーダー博士の生涯:その人とその時代』 158頁
  21. ^ 『東北学院百年史』 687-688頁
  22. ^ 『東北学院百年史』 785頁

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 大塚栄三 『聖雄押川方義』 押川方義先生文書刊行会、1932年
  • 横田順彌・会津信吾 『快男児 押川春浪』 パンリサーチインスティテュート、1987年
  • 藤一也 『押川方義 そのナショナリズムを背景として』 燦葉出版社、1991年 ISBN 978-4-87925-002-5
  • ウィリアム・C・メンセンディク著、出村彰訳 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 東北学院、1986年
  • 中島耕二、辻直人、大西晴樹長 『長老・改革派来日宣教師辞典』 新教出版社、2003年
  • 中村敏 『日本キリスト教宣教史』 いのちのことば社、2009年
  • 東北学院百年史編纂委員会 『東北学院百年史』 学校法人東北学院、1989年
  • 東北学院百年史編纂委員会 『東北学院百年史 資料編』 学校法人東北学院、1990年
  • 学校法人東北学院 『東北学院の歴史』 河北新報出版センター、2017年 ISBN 978-4-87341-366-2