断作戦

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太平洋戦争当時のビルマ(現在のミャンマー)の地理

断作戦とは、太平洋戦争中、日本軍がイギリス軍中国軍の攻勢によってビルマ北部を失った後も、中国国民党への物資援助ルート(ビルマ・ルート)を遮断し続けることを目的とした日本陸軍の作戦。

概要[編集]

インパール作戦失敗後のビルマ方面軍の作戦指導は雲南における連合軍のインド・中国連絡ルートの遮断に重点が置かれることになった。 作戦案は大本営の作戦班長や支那総軍の課長参謀を歴任した辻政信陸軍大佐1944年昭和19年)7月3日第33軍参謀に補職)。当初はミイトキーナ線を重要視していたが、辻の案で雲南周辺に戦力を集結することに決まったのである。

具体的には第33軍がビルマと中国国境のバーモ及びナンカンを攻撃し、中国雲南省を目指す計画であった。だが、アメリカ、イギリスはすでに空路をつかって援助物資を国民党に送り込んでいた。地上における遮断作戦はあまり意味をなさなかったが、西から進撃し続けるイギリス・インド軍と、北で反撃に転じた雲南遠征軍両方から圧迫を受けていた。そのため、目的が変わり、攻勢からビルマ北部を持久戦によって戦線を支えた。

作戦[編集]

  • 第56師団方面:中国軍雲南遠征軍によって包囲されている拉孟、騰越、平戞を確保し、龍陵付近において反撃準備する。この間に第28軍から転属される第2師団をこの方面に進出させ、9月上旬、怒江の線に向かって反撃する。
  • ミイトキーナ方面:中国軍新編第1軍および新編第6軍(インド遠征軍)とアメリカ軍第5307混成部隊(ガラハッド部隊)に包囲されたミイトキーナは、バーモ付近の陣地構築等の準備が完了するまでこれを確保し、第53師団は、インドウ(バーモの西)以北において敵を阻止する。
  • 第18師団方面(フーコンの戦い):すみやかにバーモ、ナンカンに転進し、戦力を回復する。
  • 後方:マンダレー方面において補給線を遮断されることがあっても、1年は自給できるように軍需品を集積させる。

龍陵会戦までの戦闘[編集]

第56師団は7月2日まで龍陵の解囲に当たっていたが断作戦の発動により一旦芒市まで撤退し、5日に松井秀治大佐指揮する4個大隊によって龍陵を包囲する中国軍を奇襲し、解囲を成功させた。11日に松井秀治大佐指揮する4個大隊は続けて平戞の解囲作戦を開始したがすでに部隊の消耗は激しく、また芒市に有力な敵戦力が迫っているとの報告から作戦を中断して芒市まで撤退した。

龍陵会戦[編集]

再び龍陵守備隊を包囲した中国軍に対して9月3日に日本軍は第56師団に第2師団を加えた兵力で反撃を開始し、龍陵めざしてビルマ公路を進撃し始めた。 日本軍の編成は以下の通り。

  • 歩兵第4連隊:二個大隊
  • 歩兵第16連隊:二個大隊
  • 歩兵第29連隊:一個大隊
  • 工兵第2連隊:三個中隊
  • 野砲第二連隊第一大隊
  • 輜重兵第二連隊

ビルマ公路の路上のあちこちに中国軍の仕掛けた地雷があったため工兵を先頭に立て、また公路を見下ろす山上に陣取った中国軍を排除しながら進撃した。

日本軍と中国軍が四つに組んだ激戦を行っている最中の9月7日に拉孟が、9月14日に騰越が玉砕した。 龍陵では守備隊長が独断で退却を開始したが、第56師団は死守を勧告した(11月3日に撤退)。

龍陵会戦の参加兵力は拉孟・騰越の戦いも合わせると中国軍16個師団約20万人で死傷者約6万3千人、日本軍は各守備隊含めて約2万3千人で死傷者約一万三千二百人だった。

日本軍は平戞の救出に全力を挙げることになった。

平戞守備隊救出[編集]

龍陵守備隊は結局そのまま死守することとなった。郊外に畑を造っていたが敵との無人地帯になったため命がけでの争奪戦になった。 一方第56師団主力は龍陵から芒市へ撤退し9月17日から平戞守備隊の救出作戦を開始した。 日本軍は敵中を突破して9月22日に平戞へ到達、守備隊を収容し、9月27日に芒市へ帰還した。

龍陵、芒市、遮放の戦闘[編集]

日本軍は龍陵の確保にこだわり、兵力の配備交代や陣地強化を行った。 一方雲南遠征軍は10月29日に龍陵へ総攻撃を開始した。 第56師団は龍陵は放棄もやむなしと判断し、11月3日に龍陵守備隊は夜陰に乗じて撤退した。 11月5日に雲南遠征軍は芒市にせまり、日本軍は持久戦を行いつつ芒市を撤退、遮放周辺で中国軍を食い止めながらワンチンまで後退した。

バーモ、モンミット退却戦[編集]

ミイトキーナを占領した中国インド遠征軍は11月ごろに南下を始めた。 11月13日に中国軍はバーモへの攻撃を開始した。 12月14日にバーモ守備隊は脱出し、19日にモンミットにたどり着いた。

レド公路開通[編集]

レド公路打通を目指してビルマ・雲南を東西から挟撃する中国軍はそれぞれワンチンとナンカンに達した。 日本軍は陣地を構えてできる限りの遅延戦術を続けたが、一月末に後退を始めた。 1月27日についに中国軍のインド遠征軍と雲南遠征軍は合流をはたし、数年間におよぶ援蒋ルートの遮断は解消された。

時系列[編集]

  • 7/1、インパール作戦中止
  • 7/2、南方軍ビルマ方面軍に対して、威作命甲第101号(威は南方軍の秘匿名)を発令し、断作戦が開始される
  • 7/3、第33軍司令部の元に「陸軍大佐辻政信を第33軍参謀に補す」の電報が届く
  • 7/5、第18師団がサーモ(モガウンより南西20キロ)に到着し、フーコンの戦いが終了する
  • 7/10、辻大佐がメイミョー(マンダレーより東)の第33軍司令部に着任する
  • 7/12、ビルマ方面軍は7月2日の南方軍命令に基づき、作戦計画を策定
  • 7/16、第2師団長岡崎清三郎中将、ヘンサダ(ラングーン西北120キロ)にてビルマ方面軍司令官河辺正三中将から「第2師団は怒江戦線に転進し、第33軍指揮下に入るべし」の命令を受領する
  • 8/3、ミイトキーナの戦いによりミイトキーナ失陥
  • 8/17、第2師団第16連隊第2大隊がバーモ及びミヨジット(バーモ北東20キロ)占領する(その間、この地は一兵の配備もなかった)
  • 8/25頃、第2師団主力、ナンカンに集結する
  • 8/26、第56師団長松山祐三中将、拉孟救援のため龍陵を独断で攻撃を開始する
  • 8/26夜、岡崎中将、芒市にて松山中将に連絡を取る
  • 8/30、第33軍司令官本多政材中将、芒市に進出し、雲龍寺に軍戦闘指揮所を開設する
  • 8月末、第2師団は芒市東側地区に集結する
  • 9/3、第2、56師団、龍陵を攻撃(龍陵会戦)
  • 9/7、拉孟失陥
  • 9/14、騰越失陥(拉孟・騰越の戦い
  • 9/14夕刻、龍陵攻撃中止
  • 9/15、第56師団、龍陵戦線を離脱し平戞守備隊を救出するよう下達される。本多軍司令官、芒市に帰還
  • 9/22、第56師団、平戞守備隊を救出

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 福田誠・松代守弘『第二次大戦 作戦名事典1939~1945』、koei、1999年、ISBN 4877196153
  • 野口省己 『回想ビルマ作戦』 光人社、2000年、ISBN 4769822588