新庄局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新庄局(しんじょうのつぼね、? - 慶長11年(1606年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。熊谷信直の娘。吉川元春の正室。名は不明。その他の呼び名は、大はうさま・慈光院・いわくに。

生涯[編集]

安芸国国人領主・熊谷信直の娘として生まれる。

天文16年(1547年)に毛利元就の子・吉川元春と結婚。翌天文17年(1548年)には長男の吉川元長を生み、続いて吉川元氏吉川広家らを生んだ。元々は政略結婚とはいえ、元春は新庄局を深く愛し、他に側室を持つことは無かった。新庄局自身もそんな元春の誠実さに心うたれたのか、元春を誰よりも信頼し、愛した。

勝気な女性であったのか、毛利元就の娘で義姉で宍戸隆家の妻・五龍局と険悪な雰囲気があったらしく、家中の和を望む元就に「三子教訓状」でその事をたしなめられている。また、元就に送った書状は「文章が非常に短く、まるで尼子経久弘中隆包の偉そうな書状のようだ」と元就を苦笑させ、五龍局との和解を仲介する書状を送ってきた小早川隆景に対しては返事も送らなかった。しかし、吉川家中では良妻賢母であったようで、元春が息子の広家に送った手紙には「内とわれら二人のひざもと」などと、その家庭のぬくもりを語っている[1]。経言に宛てた手紙には元春と連名して「われら二人 親ふたり 二人の親」と鮮やかな夫婦の姿を浮きぼりにしている[1]

天正14年(1586年)に九州へ出陣中の元春、翌天正15年(1587年)に子の元長と相次いで病死すると、吉川氏の継嗣となった三男の広家に引き取られた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は、広家に従って周防国岩国に移住。

慶長11年(1606年)に死去。岩国の万徳院に葬られたが改葬され、現在墓所は山口県山口市瑠璃光寺と山口県岩国市洞泉寺にある。

陰徳太平記と元春夫人の醜女説の成立[編集]

新庄局は非常に醜女だったとされている。その根拠とされている記述は香川宣阿陰徳太平記』に存在しており、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望み、驚いた就忠が確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話した、とある。

だが吉川広家が存命中に成立した可能性がある江戸時代の『安西軍策』には新庄局の器量が悪かったとの記述はなく、岩国藩の香川正矩の『陰徳記』に「器量が悪い」との記述が現われ、香川宣阿の『陰徳太平記』に継承され今日の「元春の嫁取り」につながっている。後世、香川氏が熊谷氏に対する嫉妬心でこの記述を追加したという説が一般的に有力であるが、そうであるとすると香川広景も熊谷信直の娘を妻としており、香川正矩は香川広景の子孫ではなく、熊谷氏の血は流れていなかったとは言え何故このような記述に及んだかは不明と言う他ない。

武田光和に嫁いだ信直の妹は絶世の美人であり[2]、他に香川氏山内氏天野氏に娘が嫁いでいるが、その娘達には「醜女」の伝承は残っていない。叔母と姪で容色がそこまで違うのかという疑問もあり、本当に不器量であったかどうかは不明である。これに似たような話に諸葛孔明黄夫人を嫁にした話がある。

参考資料[編集]

  • 芸藩通志
  • 萩藩閥閲録

脚注[編集]

  1. ^ a b 藤木久志、「戦国乱世の女たち」、笠原一男編 『彼岸に生きる中世の女』 評論社〈日本女性史3〉、1976年 
  2. ^ この妹を安芸武田氏が離縁したことも熊谷氏が安芸武田氏から離反する原因となっている。

関連項目[編集]

  • 吉川元春館(新庄局も居住、隣接地には吉川元春館の完成まで住んだ松本屋敷跡もある)