新村猛
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人物情報 | |
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生誕 |
1905年8月2日 東京府 |
死没 | 1992年10月31日(87歳没) |
国籍 |
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出身校 | 京都帝国大学文学部仏文学科 |
両親 | 新村出 |
子供 | 新村徹 |
学問 | |
研究分野 |
フランス文学 言語学 |
研究機関 | 名古屋大学 |
称号 | 名古屋大学名誉教授 |
新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日 - 1992年(平成4年)10月31日)は、日本のフランス文学者、言語学者、国語辞書編纂者。名古屋大学名誉教授。元橘女子大学学長。新村出の次男。中国文学者の新村徹は息子にして中井正一の三女の夫、フリエディターの新村恭も息子。
来歴・人物[編集]
東京府出身。京都第一中学校、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入学。すぐに仏文科へ転攻し卒業する。
1935年2月、中井正一や真下信一や武谷三男たちと共に同人誌『世界文化』を創刊、また週刊紙『土曜日』の常連執筆者として反ファシズム運動に関わった。このため、同志社大学予科教授であった1937年11月に真下信一らとともに治安維持法違反で逮捕され、2年間の獄中生活を送る。『世界文化』『土曜日』は廃刊に追い込まれ、出所後もノイローゼのような状態になった。
1939年8月に釈放後、失職中であったため、父が1935年から編纂を進めていた国語辞書『辞苑』の改訂作業に1940年より参加する。岡書院店主岡茂雄の提案による。初めは外来語担当であったが、編者の息子であることに乗じて国語項目の書直しや百科項目の拡大を父より叱責を受けるほど行ったため[1]、1941年に予定されていた改訂版刊行は頓挫した。1945年に15万語の原稿を完成させたが、出版社の工場や倉庫が空襲により被災、改訂作業も中断となった。1946年、京都人文学園が設立され、初代園長に新村が就任する。この学園の設立に際し、自由学園の羽仁五郎の助言を得て、新村の親友、中井正一(国立国会図書館初代副館長)と羽仁(参議院図書館委員会委員長)との接点もこのとき出来たとされる。
戦後も父と共に辞書の編纂を続け、1955年、猛の交渉により出版元を岩波書店に変え、書名を『広辞苑』と改めて第1版を刊行する。傍ら、『世界文化』の同人であった真下信一らの推薦で名古屋大学文学部教授に迎えられフランス文学を講じ、ディドロやロマン・ロランなどを翻訳する。講師として教えていた同志社大学でロマン・ロラン研究会を指導する。学生の一人である今江祥智の人生の師となる。
1967年に父が没して以後、『広辞苑』の辞書改訂を引き継ぐ。
1971年、愛知県知事選挙に革新統一の無所属候補として出馬、91万余票を獲得するが、現職の桑原幹根に惜敗する。ただし名古屋市などでの得票は新村が桑原に勝っていて、同僚の本山政雄が革新系候補として名古屋市長選を制する下地ができたと、新村陣営は自己評価している。
著書[編集]
- 『国際反ファッシズム文化運動 フランス篇』(三一書房、1948年)
- 『フランス文学研究序説』(ミネルヴァ書房、1954年)
- 『ロマン・ロラン』(岩波新書、1958年)
- 『「広辞苑」物語』(芸術生活社〈芸生新書〉、1970年)
- 『新村猛著作集』全3巻 (三一書房、1993年 - 1995年) 今江祥智・川村孝則責任編集
- 1.ロマン・ロラン
- 2.「世界文化」三十年代の政治思想的証言
- 3.ヨーロッパ文明との対話
共編著[編集]
- 『ロマン・ロランの言葉と思想』(編、講談社現代新書、1966年)
- 『あえて言う 中国とソ連への直言』(松浦総三共編 すずさわ書店、1980年)
- 『美意延年 新村出追悼文集』(新村出遺著刊行会、1981年)
翻訳[編集]
- アンドレ・モーロア『フランスは遂に敗けた』博聞堂、1941年)
- 「牧歌」(モーパッサン選集 第3巻) (河出書房、1941年)
- 『ペルシャ人の手紙』(ポオル・ヴァレリイ全集 第10巻) (筑摩書房、1950年)
- バルビュス『砲火』後藤達雄共訳、ダヴィッド社、1951年)
- 『スターリン』(松岡達也共編訳、1953年、青木文庫)
- 『闘争の十五年』(ロマン・ロラン作品集 第10巻) (みすず書房、1954年)
- ディドロ『ダランベールの夢』1958年、岩波文庫)
- ランジュバン『科学教育論』竹内良知共訳、明治図書出版(世界教育学選集)、1961年)
- ディドロ『哲学断想』大賀正喜共訳、岩波文庫、1961年)
- マルク・ブロック『封建社会』1-2 (大高順雄、神沢栄三、森岡敬一郎共訳 みすず書房、1973年-1977年)
記念論集[編集]
- 新村猛教授退官記念論集(名古屋大学文学部仏文学研究室 1970年)
脚註[編集]
- ^ 岡茂雄『本屋風情』-「他とのバランスを考えて手を入れるようにと、私の言葉として伝えてくれたまえ」