日中共産党の関係

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日中共産党の関係 (にっちゅうきょうさんとうのかんけい) では、日本共産党中国共産党との関係について記述する。

戦前の日中共産党の関係[編集]

戦前、日本共産党と中国共産党はコミンテルンの日本支部、中国支部だったため、事実上ソ連共産党に従属しており、日本共産党にとってモスクワへのルートは中国が一番重要だった[1]。戦前には日中共産党ともに非政権党であったが、中国共産党は戦後の1949年に革命に成功して中国の国家権力を掌握。これ以降日本共産党にとって中国共産党はソ連共産党に匹敵する大きな存在となった[1]

日本共産党の分裂と中国共産党[編集]

1946年1月に中国・延安から帰国した野坂参三は、第5回日本共産党大会において「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョワ民主主義革命を、平和的に、かつ民主主義的方法によって完成する事を当面の基本目標とする」とした「平和革命論」を定めた[2]

しかしコミンフォルムは1950年(昭和25年)1月6日に平和革命論について「アメリカ帝国主義を美化するものであり、マルクス=レーニン主義とは縁もゆかりもない」とする野坂批判を行った。コミンフォルムの批判は日本共産党内に動揺を起こし、徳田球一は1月12日に「日本の実情も知らずに同志(野坂)の言動を批判することは重大な損害を人民並びに我が党に及ぼす」「一見方針が親米的に見えるだけで実質はそうではなく党の方針に誤りはない」とするコミンフォルムへの反論「政治局所感」を出したが、宮本顕治ら非主流派はこの所感に反対しコミンフォルムの批判を受け入れるべきという立場をとった(そのため宮本ら非主流派は「国際派」と呼ばれた。以下「国際派」と記す)[3]

中国共産党も1月17日に機関紙『人民日報』において「野坂の平和的方法で国家権力を勝ち取るためにブルジョワを利用できるとする理論は誤りであり、徳田の所感の内容は遺憾である」としてコミンフォルムの批判の支持を表明し、野坂に自己批判を要求した[3]。これを受けて野坂は1月18日にも平和革命論を自己批判するとともにコミンフォルムの批判を全面的に受け入れることを表明した[4]。党内論争としては国際派の勝利という形になったが、徳田の所感に賛成した主流派(以下「所感派」と記す)はこの屈辱を捨て置かず、宮本ら国際派を左遷した。さらにレッド・パージで共産党幹部の公職追放命令が出されると国際派を地上に残して地下に潜った[4]

地下に潜伏した所感派の徳田と野坂は1950年9月にも北京に亡命して北京機関を創設した[5]。一方地上に残った宮本ら国際派は所感派に対抗するため12月に「日本共産党全国統一会議」を結成した。だが所感派は1951年(昭和26年)2月の第四回全国協議会(四全協)でこれを分派と認定し「分派闘争決議」を出した。徳田は北京毛沢東、さらにモスクワに飛んでスターリンとも会談して中ソ両共産党の所感派への支持を確保した[6]。その圧力を受けて国際派の幹部には自己批判書の提出が要求され、宮本も自己批判書の提出を余儀なくされて「統一会議」は解散となった。国際派の復党はすぐには認められず、宮本の指導部復帰が認められたのもようやく1954年(昭和29年)になってのことだった[6]

国際派を屈服せしめた所感派は四全協の「当面の基本的闘争方針」や、1951年10月の第5回全国協議会(五全協)の「日本共産党の当面の要求」(通称「51年綱領」)などにおいて激烈な武装闘争の方針を定め、地下放送の自由日本放送から指示を出して中核自衛隊などに武装闘争を行わせた。この「51年綱領」は中国共産党とスターリンの合作だったといわれ[7]、中国共産党は「51年綱領」に対して満足の意を表明している[8]

しかし1952年(昭和27年)4月にはサンフランシスコ講和条約の発効で占領状態が解かれたことでレッド・パージは解除された。1953年(昭和28年)3月にはスターリンが死去し、7月には朝鮮戦争が終了。10月には徳田球一が死去した。武装蜂起を起こす口実がほぼなくなった[9]。ソ連の勧告もあって1954年(昭和29年)頃から所感派と国際派は歩み寄りをはじめ、1955年(昭和30年)7月の第6回全国協議会(六全協)で党の再統一を果たし、中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した[10]

中ソ対立と日中共産党の関係[編集]

1965年1月広州市を訪れた日本共産党書記長宮本顕治を出迎えた中国共産党中央書記処総書記鄧小平

再統一後、1958年(昭和33年)の第7回党大会までには宮本の党指導権が確立したが[11]、その後も1966年(昭和41年)までは中国共産党から影響を受ける関係は続いた[12][1]

1953年のスターリン死去後に開始されたソ連共産党フルシチョフ指導部の路線の評価に関して、ソビエト連邦と中華人民共和国の間に深刻な対立が発生した。とりわけ1961年にソ連共産党第22回党大会が中国共産党寄りの態度をとったアルバニアを「スターリン主義」と批判し、中国共産党の周恩来がそれに反論したことで中ソ対立が一気に激化した[13]

中ソ両共産党は世界各国の共産党に対してどちらの側に付くのか明らかにするよう迫った。日本共産党は判断に悩みしばらく沈黙を続けたが、党内の中国派から突き上げもあって、1963年(昭和38年)の第5回中央委員会総会でこの問題を討議することになった。ソ連支持、中国支持、不介入、三様の意見が出たが、結局宮本が「中国寄りの中立」で意見をまとめた[13]

同年7月にソ連と米英が部分的核実験禁止条約を締結したが、中国共産党はこれを三国が核兵器を独占し中国の核開発を阻止しようとするものと見て強く反発した。この対立が日本に持ち込まれたのが同年8月の第9回原水爆禁止世界大会だった。大会では中国共産党代表朱子奇がソ連共産党代表ジューコフに扇子を叩きつけるほど激しい対立が起きた。社会党総評系が部分的核実験禁止条約に賛成したのに対し、日本共産党は中国共産党寄りの立場から反対した。原水禁はこの時より社会党系と共産党系に分裂した[14]

日本共産党の親中反ソ傾向が強まったことに気づいたソ連共産党は1964年1月に書記局のオルグ3人を日本に送り込み、日本共産党を内部から切り崩そうと計った。これに対して日本共産党は2月に袴田里見を団長とする代表団をモスクワに送って談判を行ったが、けんか別れに終わった。その帰りの3月に北京に立ち寄ると中国共産党から「反修闘争の英雄」として大歓迎を受けた。こういうことがあって日本共産党の中国共産党寄りの態度は次第に決定的となってくる[14]

1964年(昭和39年)5月、来日したソ連のミコヤン第一副首相が傍聴席から見守る衆議院本会議において、ソ連派の志賀義雄は日本共産党の方針に反対して部分的核実験停止条約の批准に白票(賛成票)を投じた。参議院でも鈴木市蔵が賛成票を投じた。この急を聞いて急遽中国から帰国した宮本が臨席する5月21日の第8回中央委員会総会において二人は党から除名された。さらに9月25日には同派の神山茂夫中野重治も除名され、ソ連派は一掃された。そのため11月の第9回党大会の段階では日本共産党の中国共産党寄りの立場はいよいよ鮮明になった[15]

1966年の日中共産党の決裂について[編集]

この日本共産党の中国共産党寄りの立場が決定的に転換するのは1966年(昭和41年)のことである。事の起こりは第9回党大会の決議に従ってベトナム戦争北ベトナムを支援するための「国際統一戦線」を作るべく、同年2月に宮本を団長とする日本共産党代表団が北ベトナム、北朝鮮、中国を歴訪したことである。まず北ベトナムを訪問すると、中国製の兵器だけでなく、ミグ戦闘機や地対空ミサイルなどソ連製の兵器が欲しいが、中国共産党がソ連軍がそれを口実に近代兵器をもって中国大陸を横断することを恐れて妨害していることが悩みの種だということが分かり[16]、宮本は解決策として反修正主義闘争とベトナム支援の問題は一応区別して折衝すべきと考えた[16]。ソ連の修正主義についてはこのまま批判を続けるとして、それとは一応別個の問題としてベトナム支援と「国際統一戦線」の話を切り出せば、あるいはソ連も話に応じるのではという考えである[17]。3月3日に北京を訪問した宮本はこの腹案を中国共産党側に伝えたが、中国共産党は応じなかった。ついで宮本は北朝鮮へ行き、金日成にもこの腹案を伝えたところ、金日成からは支持された。自信を深めた宮本は再度北京に戻り、周恩来らと共同コミュニケの作成にあたった。両者の見解にはなおも深い亀裂があったので共同コミュニケは中身のない抽象的なものになったが、ともかく採択にこぎつけ、その成立を祝う祝賀会も開かれた。ところが共同コミュニケが毛沢東まで上がると、毛沢東は独断で破棄した[17]

宮本が毛沢東と会談に及ぶと毛沢東は開口一番「君たちはソ連の修正主義と同じ平和共存主義の合法主義者だ」と決めつけたうえで「戦争を回避しては世界革命はできない。恐らくここ1年、2年の間に米中戦争が起きるだろう。となれば、米国は北ベトナム国境、朝鮮国境、台湾、沖縄の四か所から中国へ侵攻してくる。その時、君たちは中国を援助し、また自身の革命のために武装蜂起するはらを決めているのか」と詰め寄り、「鉄砲から権力が生れる」として「51年綱領」に立ち返って武装闘争を開始することを要求した。これには宮本も二の句が継げず、会談は決裂。宮本ら代表団は急遽帰国することにした[17]

帰国した宮本は4月27日と4月28日に第四回中央委員会を招集。その席上宮本は「毛沢東は老衰して頭がぼけてしまっている。そのうえ思いあがって党内でも孤立している」と毛沢東を批判し、以降第10回党大会を目指して明確な反中路線に転換した[18]。「毛沢東一派の極左冒険主義」への批判が『しんぶん赤旗』紙上に載るようになり、1966年から1967年(昭和42年)にかけては西沢隆二ら中国派の中堅幹部30数名が除名された[18]。また中国共産党による工作員送り込みと分派作りを阻止すべく1966年の第10回党大会で党員に日本国籍を要求する規約改正が行われた。

中国共産党は宮本を「修正主義者」と認定し、日本共産党を「宮本修正主義集団」(宮修)と批判するようになった[1]。1966年9月には日中友好協会が日本共産党派と中国派で分裂し、後者は「日中友好協会」を脱退して「日中友好協会正統本部」を結成した。続いて日本アジア・アフリカ連帯員会も日本共産党派と中国派に分裂した。日本ジャーナリスト会議新日本婦人の会でも両派が対立し、中国派が飛び出した。また日本共産党系の商社の北京駐在員は中国政府から退去を求められ、日中貿易から閉め出された[19]。日本共産党の不破哲三によれば、中国共産党は日本共産党を日本の政界で孤立化させたり、内部分裂させるために他の政党との関係を利用した工作活動も行ったという[20]

1967年3月2日の善隣学生会館事件の際に中国派の中国留日学生後楽寮自治会側が撮影した「善隣学生会館を武力制圧した日本共産党・民青同盟ゲバルト部隊」とされる写真

1967年3月1日から2日にかけて東京都文京区の善隣学生会館で日本共産党派の「日中友好協会」と中国派の在日中国人学生が衝突して重軽傷者三十人を出す流血事件善隣学生会館事件が起きた[19]。中国派の「日中友好協会正統本部」や、中国の北京放送及び人民日報は「反中国活動を強化している日本共産党の計画的、組織的な暴力である」「日共修正主義分子は善隣学生会館になだれこみ、華僑青年と日本の友人を殴打する流血事件をつくりだした」との声明を発表した。対する日本共産党や日本共産党派の「日中友好協会」は「中国人学生と、これに盲従する日中友好協会の脱走分子が(日中友好協会の)事務局に押し入り、事務局員を不法監禁し、暴行を加えたのが真相」「事件は中共の極左日和見主義、大国主義分子による計画的、組織的な干渉と破壊活動のしくまれた一環」と反論した[19]

同年8月には北京空港事件があり、北京を退去しようとした日本共産党員2名が中国の紅衛兵に集団暴行された。こういった事件により日本共産党と中国共産党は完全に対立関係となった[19]

宮本・毛会談後の日本共産党の反中国的な活動に対する批判[編集]

宮本顕治は、「ベトナム侵略反対の国際統一戦線の結成を願って、ベトナム、中国、朝鮮の三カ国の共産党、労働党と会談するために、大型の代表団を」送ったが、統一戦線にソ連を含めることに中国側が反対し、中国共産党との共同声明を公開できず、これが両党の断絶につながったと書いている[21]。しかし、当時の国際情勢と日本共産党の党内事情、あるいは会談後の日本共産党の動静などから考えると、代表団派遣の意図や動機には、建前とは異なるものが見えてくる。

1966年当時、北ベトナムへの軍事攻撃を強めるアメリカに対し、中国はベトナムへの侵略は中国への侵略につながると考え、国を挙げてベトナムの抗米・民族独立闘争を支援していた。他方、中国脅威論に取りつかれたアメリカは、日本・韓国・台湾の連携を強めさせ、中国包囲網を強化しようとしていた。ところが、同時期に、中ソ対立が公然化し、両国共産党の論争や対立から、国家間の対立へと発展しつつあった。中国は、米ソ二つの超大国から攻撃を受けかねない情勢に追い込まれ、これを克服するために文化大革命を発動して、国内体制の再編・強化に取り組み始めていた。

このように中国が重大な局面に立っていたときに、日中共産党の対立が生じ、日本共産党は中国との交流自体を断絶させることになった。前述のとおり、中ソ対立は国家対立にまで発展しつつあり、日本共産党の指導部は、延安時代の中ソ共産党の関係からの状況をよく知っていたはずであり、ベトナム侵略戦争反対の国際統一戦線を、前述の形で提案すれば、ソ連の評価について日中共産党の対立が発生することは予測できたはずである。のちの日本共産党の行動を見ると、宮本らは、そのような対立が出た場合には、中国共産党との関係を断つ心づもりで、代表団を送ったのではないかと考えられる。当時、日本共産党は、国内問題で、それまで採用していた闘争を中心とする方針を転換しつつあり、中国共産党の強硬な路線には賛成できないという方針を固めつつあった。つまり、宮本顕治書記長が党内で主導権を確立するという目的があった可能性は否定できない[22]。日本共産党では宮本書記長と意見が異なる従来の党員を排除する権力闘争が長く続いていた。そのような闘争を通じて、今日の日本共産党が形成されている。

宮本は、手記[21]で、路線対立などにつき「歴史の検証」を待とうと書いているが、同じ共産党といっても、国によって事情が異なり、意見の対立があったことはやむを得ない。

しかし、日本共産党は党間の対立を、日中友好運動の中に持ち込み、さまざまな友好団体に派遣していた党員のメンバーを通じて、中国との交流そのものを否定し、妨害する姿勢を強めた。日本共産党が日中友好協会を含む友好団体に多くの人員を提供していたのは、日本共産党が様々な団体の中に組織を作り、その組織を通じて団体に対する共産党の影響を及ぼそうという性格の活動をおこなっていたからである。

たとえば、1965年の日中青年友好大交流の成功に続き、1966年に予定されていた第二回日中青年友好大交流は、日本共産党が不参加方針をとっただけでなく、日本共産党の指示に従った団体が参加を阻止するための妨害行動を行い、佐藤内閣はこの内部対立に乗じて、旅券の発行を認めない方針を決定した。また、1966年11月から12月にかけて、日中双方の貿易関係諸団体の主催により、北九州市と名古屋市で中国経済貿易展覧会が開催されることになり、日本側では日中友好協会などの友好団体が準備をしていたが、日本共産党中央が同展に参加しない方針をとるとともに、関係団体に所属している党員を通じて、規模を大きくさせないとか、会場で『毛沢東選集』をはじめとする中国の書籍の展示や販売をさせないなどという妨害活動を行った。日中友好運動全般で徹底されたこのような日本共産党の行動は、「反中国」と形容され、運動に混乱をもたらした。日中友好の運動は、特定の党派の専有物ではなく、日本の各界各層の人たちによる大衆運動だったからである。党派の方針を日中国交回復という国民的な政治課題に優先させて、妨害行為を行った日本共産党の当時の姿勢を問題視する批判がある[22]

関係断絶期[編集]

中国共産党からの批判・内政干渉・分派作りに直面して宮本は、中国共産党との関係断絶に踏み切らざるを得ず、これ以降日本共産党は他国の共産主義政党とは距離を置く「自主独立」の旗を掲げるようになった[1]。しかしソ連のみならず、中国をも敵に回したことにより日本共産党は国際共産主義運動の中でほぼ完全に孤立した。また国際共産主義運動自体もソ連派、中国派、チェコ派、中立派などの四分五裂を起こして事実上崩壊状態となった[1][23]

1968年(昭和43年)には日本共産党と中国共産党の決裂を知ったソ連共産党が、志賀義雄ら「日本のこえ」をそでにする形で日本共産党との関係を修復しようとスースロフを団長とする代表団を代々木の日本共産党本部に送った。日ソ両共産党は一応共同コミュニケを出したが、「自主独立」路線後の日本共産党はソ連とも距離を置く姿勢を取り、同年にソ連がチェコスロバキア侵攻を行うと「兄弟党の内部問題不介入の原則に著しく反する」としてソ連を批判した。そのためソ連共産党と日本共産党の関係回復も短期間で終わった[23]

この時期、日本共産党は中国共産党やソ連共産党に対する激しい闘争のため、反共政党の民社党よりもという皮肉な評価を受けることもあった[24]

1976年に毛沢東が死去し中国共産党は鄧小平体制に移行したが、日中共産党の対立は続いた。中国共産党は文化大革命時の世界各国の共産党への内政干渉を1970年代末から順次曖昧な「どっちもどっち論」や「未来志向論」などで修復していった。その流れとして1985年にも一度は関係修復のための会談を日本共産党に申し入れていた。しかしその内容は関係悪化の原因を「宜粗不宜細(粗い方がよく細かいのはよくない)」として曖昧にするものであり、日本共産党議長の宮本は、誤りを具体的に認めず、謝罪もしない中国共産党の姿勢は拒絶した[1]。「中国からの内部問題干渉」があった旨を明記し、その行動が明白な両党関係の悪化の原因であった事を明らかにしなければ不十分とした。中国共産党にはこの時上記「どっちもどっち論」「過去は忘れて未来志向」以上の譲歩と反省の用意はなく交渉は流れた。文革を国内で終結させ、対外関係も一定修復しつつあった鄧小平にとっても、これが限界であった。

1979年2月に始まった中越戦争では日本共産党は「中国はベトナムに対する侵略行為をただちに中止せよ」という声明を出し、中越戦争を中国の侵略と断じるとともに中国の軍事行動を「社会主義の大義とは全く無縁」として批判した[25]。3月には中越戦争を取材中のしんぶん赤旗ハノイ特派員の高野功が中国人民解放軍に射殺される事件があった[26][27]。しんぶん赤旗編集長韮沢忠雄は「正義と真実の報道に準じた高野特派員の死を深く悼むとともに、重ねて中国のベトナム侵略を強く糾弾するものである」との声明を出した[28]

1989年天安門事件を日本共産党は「社会主義の大義に照らし国際的にも絶対に黙過できない暴挙」「言語道断の暴挙にたいし、怒りをこめて断固糾弾する」と批判している[29]

関係修復[編集]

しかし1997年に鄧小平が死去し、中国共産党の体制が名実ともに江沢民体制へ移行すると、朝日新聞に掲載された中国共産党側からの内部問題不干渉原則違反を反省する旨の関係修復への非公式なサインが日本共産党に対してあった。この年には日本共産党側でも中国共産党と長年対立してきた宮本顕治が引退して不破哲三が党指導権を確立しており、以降日中共産党は関係修復に向けて動きだすようになった[1]

1998年6月に北京で両党会談が行われて関係回復の合意に達した。このときの合意文書[1]では、「中国(共産党)側は、六〇年代の国際環境と中国の「文化大革命」などの影響を受け、両党関係において、党間関係の四原則、とくに内部問題相互不干渉の原則にあいいれないやり方をとったことについて真剣な総括と是正をおこなった。日本(共産党)側は中国側の誠意ある態度を肯定的に評価した。」という条項が盛り込まれ、中国共産党が文化大革命時の日本共産党への干渉について非を認めた。

関係修復後は両党の理論交流が再開した。日本共産党は1976年から自分たちの思想を表す表現を「マルクス=レーニン主義」から「科学的社会主義」に変更していたが[30]、中国共産党が掲げている「マルクス主義」と意味は同じであり、日本共産党も用語として排除しているわけではないという立場から中国共産党との理論交流では共通語として自分たちの思想を「マルクス主義」と表現した[31]

中国共産党との関係改善の影響で日本共産党議長の不破哲三が主導した2004年の日本共産党綱領改定では「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」という記述が入った。これは中国共産党が主張していた「社会主義市場経済」を「社会主義を目指す新しい探求」として肯定的に評価するものだった。他方で不破は「政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも」という但し書きによって、中国で起こっているすべてを肯定する立場に立つわけではないとも述べた[32]。日本共産党委員長志位和夫も中国の将来について「楽観的、固定的に見ているわけではない」と繰り返し表明し、この立場から日本共産党は「内政不干渉の原則を守りつつ、国際的な性格をもつ問題点については、節々で我が党の見解を伝える」という方針をとった[33]

その立場からチベット問題ウイグル問題・香港民主化デモへの強権的内政、また尖閣諸島問題南沙諸島問題といった領土問題での強硬姿勢については日本共産党は度々中国共産党を機関紙などで批判した。

日本共産党は2014年1月の第26回党大会決議で中国の前途について「そこには模索もあれば、失敗や試行錯誤もありうるだろう。覇権主義や大国主義が再現される危険もありうるだろう。そうした大きな誤りを犯すなら、社会主義への道から決定的に踏み外す危険すらあるだろう。私たちは、“社会主義をめざす国ぐに”が、旧ソ連のような致命的な誤りを、絶対に再現させないことを願っている」という両党関係回復以来、はじめて警告的な意見表明を行った[34]

再び関係悪化へ[編集]

クアラルンプールでのアジア政党国際会議についての日本共産党の主張[編集]

日本共産党委員長の志位は「わが党が、中国に対する見方を決定的に変えざるをえないと判断したのは2016年9月にマレーシアクアラルンプールで行われたアジア政党国際会議(ICAPP)での体験だった」と述べている[34]。この会議に日本共産党代表団団長として出席した志位によれば、次のような経緯であったという。

日本共産党代表団は総会宣言に過去の総会宣言でも盛り込まれた「核兵器禁止条約の国際交渉のすみやかな開始を呼びかける」という記述を入れる修正案を提案し、宣言起草委員会では中国共産党代表団も賛成して全会一致で採択され、総会最終日の総会宣言案に盛り込まれたが、宣言採択直前になって北京の指示を受けた中国共産党代表団がこの部分の削除を要求したために記述は削除された。日本共産党代表団は宣言起草委員会で全会一致で決まったことを中国共産党の一存だけで一方的に覆す覇権主義的なふるまいと反発し、日本共産党副委員長で代表団副団長の緒方靖夫は中国共産党代表団に話し合いを申しこんだ[34]

その会談で緒方は「過去2回のICAPP総会で、中国も賛成し、全会一致で賛成しているものだ。何の問題があるのか」と問いただしたが、中国共産党代表団は「過去のことは知らない。こういう文章を入れることは、侵略国の日本がまるで被害国のように宣伝されてしまう」と述べた。緒方は「この修正案には日本の被爆の話も被害の話も一切ないではないか。人類的な大きな国際問題として提起している」と反論したが、中国側は「この問題については議論したくない。われわれは修正案には反対だ。提案は拒否する」と理由も述べずに反対する姿勢を繰り返して会談を終わらせた[35]

日本共産党代表団は再度の会談を求め、再会見で緒方は改めて「中国は核兵器禁止条約をこれまで主張してきたのに、なぜそれに反する態度をとるのか」と問いただしたが、中国側は答えず「あなたは覇権主義だ。自分たちの意見を押し付けている」と緒方を批判した。緒方は「それは当たらない。議論しているのだ。これが押しつけなら議論ができないではないか」と反論した[36]。また中国側は「何度も俺を呼び出しやがって、無礼だぞ」とった侮蔑的な言葉も投げつけたという。中国共産党代表団の態度について志位は「1998年の両党関係正常化のさいの反省はいったいどこにいったのかと、事態の重大性を深刻にとらえざるをえませんでした。」と述べている[34]

中国を「新しい大国主義・覇権主義」と批判[編集]

2017年1月に日本共産党は第27回党大会において核兵器問題での深刻な変質、東シナ海と南シナ海での力による現状変更をめざす動き、国際会議の民主的運営をふみにじる覇権主義的なふるまい、日中両党で確認してきた原則に相いれない態度などから中国を「新しい大国主義・覇権主義の誤り」があると名指しで批判した。志位によると党大会直前、当時の中国大使だった程永華より志位に面会要請があり、その会見で「新しい大国主義・覇権主義」の記述の削除を求める要請があったが、志位は要請を拒否するとともに、なぜそういう規定をしたのか理由を述べて是正を求めたという。また「中国共産党代表団がアジア政党国際会議でとったふるまいを、中国共産党中央委員会として是とするのか、非とするのか。本国に問い合わせ、回答を持ってきてほしい」と要請し、程も本国に伝えると約束したが、その後も返答はなかったという。そのため日本共産党としては「クアラルンプールで中国共産党代表団がとった覇権主義的ふるまいは、中国共産党中央委員会自身の問題とみなさざるをえない」「そこに『社会主義の事業への誠実さ、真剣さ』を見いだすことはできない。」と判断するにいたったと述べている[37]

また会談で程は「意見の違いを公にせず、内部の話し合いで解決してほしい」「敵が喜び、右翼が喜ぶだけだ」とも述べたが、志位は「国際問題で我が党がその立場を公然と述べることは、党の自主的権利に属することであって、もしも異議があるならば公然と反論すればよい」「『敵が、右翼が喜ぶ』というのは、安倍政権の『戦争をする国づくり』と真剣にたたかっている我が党に対して、あまりに礼を失した発言であり、率直にいうが、中国の大国主義・覇権主義的ふるまいが、どれだけ安倍政権が安保法制=戦争法を進める口実とされているか、日本の運動の利益をどれだけ損なっているかを、真剣に考えてほしい」と反論したという[37]

中国を「社会主義をめざす新しい探究が開始された国」とする評価の除去[編集]

2019年、日本共産党第8回中央委員会総会において、中国は社会主義の原則や理念から外れているとして、社会主義を目指す国との評価をする綱領文の削除が提案され、2020年1月18日第28回党大会で正式に綱領が改定され、名指しは避けているものの中国やロシアを念頭に置いた「いくつかの大国で強まっている大国主義・覇権主義は、世界の平和と進歩への逆流となっている。アメリカと他の台頭する大国との覇権争いが激化し、世界と地域に新たな緊張をつくりだしていることは、重大である」という記述が綱領に盛り込まれるに至った[37]

志位が大会でおこなった「綱領一部改定案についての中央委員会報告」では、中国を「社会主義をめざす新しい探究が開始」された国とみなす根拠はなくなったことの理由として、八中総での、第一に、核兵器廃絶に逆行する変質がいっそう深刻になっていること、第二に、東シナ海と南シナ海での覇権主義的行動が深刻化していること、第三に、国際会議での民主的運営をふみにじる横暴なふるまい、日中両党で確認された原則に背く行動について、是正する態度がとられなかったこと、第四に、香港やウイグル自治区などで人権侵害が深刻化していることの指摘が確認され、中国は名指しで批判された。志位報告は、中国はどういう経済体制とみているかは内政問題であり政党としての判断を公にしない、研究者などが個人の意見を述べるのは自由、中国共産党とは関係は維持し、可能な協力の努力は続ける、とも述べた。[38]

このような日本共産党の批判に対して、中国の公式メデイアは沈黙を続けている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 不破哲三と中国共産党との関係経緯
  2. ^ 日本共産党五十年史p54
  3. ^ a b 日本共産党五十年史p63
  4. ^ a b 日本共産党五十年史p64
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参考文献[編集]

  • 「日本共産党五十年史」 (1973年) 共産主義問題研究会 (編集) 心情公論社
  • 「武装闘争路線から平和共存路線へ 中国共産党の国際情勢認識、一九五〇年~一九五五」(1991年) 高橋伸夫 (著者) 慶応義塾大学法学研究会