日本における死刑囚

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日本における死刑囚では、日本における死刑囚に関し記述する。

日本の死刑囚の処遇[編集]

死刑執行が猶予される場合[編集]

闘病中や精神障害妊娠中など刑の執行を停止しなければならない場合や、非常上告の有無、再審請求中、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認されなければならないとされる。そのうち妊娠中を理由に死刑執行が猶予された者は現行法上存在しない。これは被告人が妊娠している場合には裁判手続きが停止になるためである[1]。なお1872年に処刑された夜嵐おきぬは、江戸時代の法であったが、出産まで執行が猶予されている。そのため、死刑判決確定から20年以上経過して執行されていない場合には、これらの条件のうちいくつかが該当しているといえる。また組織犯罪の死刑囚では共犯逃亡していたり公判が終了していないため、死刑執行が行われていない例がある(例として連合赤軍事件の死刑囚や三菱重工爆破事件の死刑囚など)。

また財田川事件(後に再審無罪)の元死刑囚のように故意もしくは過失で裁判記録の一部が破棄されたために上申書作成が不可能になり死刑執行が出来なかったケースや、樺太で戦中発生した樺太・西柵丹強盗殺人事件の死刑囚が同様に、ソ連軍の侵攻で裁判記録を運び出せず消滅したために、個別恩赦で無期懲役に減刑されたケース[2]がある。

死刑囚の扱い[編集]

死刑の判決を受けた者の刑は、死刑そのものであることから、死刑執行に至るまでの期間の身柄拘束は「刑の執行ではない」として、処刑までの間の身柄は、刑務所ではなく拘置所に置かれる。

マスコミでは、死刑確定者を「死刑囚」と呼んでいるが、既に執行された場合や、獄中で死亡した場合は「元死刑囚」と呼ぶ。再審によって無罪が確定した場合、新証拠等によって無罪の可能性が高くなり釈放された場合は、敬称に戻している。

戦後、恩赦による減刑は政令恩赦は15名、個別恩赦は11名いる。政令恩赦はサンフランシスコ平和条約締結を機に行われ、個別恩赦は諸般の事情を考慮して行われたが、1975年に福岡事件の殺人の実行者に対する事例を最後に行われていない。そのため、日本において現在では死刑囚がどんなに改悛したとしても恩赦減刑される道は事実上閉ざされている。そのほか、再審で無罪になった元死刑囚は4名いたが、いずれも1980年代の事例である。また死刑が執行されず獄死したものも少なくない。1946年から2007年3月までの死刑確定者は自殺・獄死・恩赦減刑を除くと728人であった。この時点までに死刑執行者は627人、この時点での未執行者は101人であった。なお戦後女性死刑囚は16人(恩赦減刑1人、執行5人、獄死3人)である。そのため、日本において死刑が適用される凶悪犯の圧倒的多数は男性であるといえる。

2020年7月時点での、日本における死刑確定囚は111名(うち女性6名)であり、確定後の拘置期間は2005年9月時点[3](この時点での確定者は68名)で、平均して8年3ヶ月である。

死刑囚の処遇[編集]

日本における死刑囚の処遇は、他の懲役刑のそれと大きく異なる。まず自らの死をもって罪を償うのが死刑であるため、国家の収入の一部となる刑務作業を科されない為、「死」の直前まで原則として拘置所に収監されることになる。死刑囚の中には被害者への償いのために軽作業を行ったり、書籍の点字翻訳のボランティアをしていた[4]ものもいる。

また、たとえば東京拘置所には特別に死刑囚房といった設備がないため、死刑囚と同じフロアに刑事被告人が収監されている場合[5]があるという。実際に元外交官で文筆家の佐藤優は、東京拘置所に収監中、両隣に袴田事件袴田巌元死刑囚(現在釈放中)と連合赤軍事件坂口弘死刑囚がいたと証言[6]している。また、死刑囚の処遇には次のようなもの[7]があるという。おもに自らの罪を悔い改めさせる事を目的としている。

  • 請願作業 - 本人が希望する場合、軽作業(内職等)を7時間程度行わせる事ができ、それによって収入を得ることもできる
  • 教誨 - 死刑囚に単独の宗教教誨を受けさせる
  • 礼拝用具等の使用 - 宗教的用具を所持使用させる
  • 教科指導 - 俳句書道などを学習させる
  • 情操教育物の使用 - 書道の道具などを所持使用させる
  • ビデオ視聴 - 映画等のビデオ鑑賞を独房内で行う

死刑囚の移送[編集]

死刑判決が確定した死刑囚を移送することは、刑事施設の側は保安上の理由等から回避したい事態と思われる。近年、死刑囚を移送する際の事故は、少なくとも報道されていない。(しかし、懲役20年の判決が確定した受刑者については、2013年に移送中に逃走を試みた事件があった[8]

死刑囚の移送は以下のような場合に行われる。

刑場のある刑事施設への移送[編集]

刑場のある刑事施設は、現在、全国で7箇所(札幌拘置支所(執行は札幌刑務所で行う)、仙台拘置支所(執行は宮城刑務所で行う)、東京拘置所名古屋拘置所大阪拘置所広島拘置所福岡拘置所)あり、多くの死刑囚は未決のうちから刑場のある上記の施設のいずれかに収容されて死刑判決が確定することになる。それは、地方裁判所で一審判決を受けた後も身柄の拘束が続く場合、原則的に高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所に移送されるためである(例:ファミレス2人射殺事件の元死刑囚。千葉から東京へ移送ののち、2013年4月26日に東京拘置所で死刑執行)。

高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所は全国で8箇所あるが、高松矯正管区以外の拘置所には刑場がある。もちろん、一審段階から刑場のある拘置所・拘置支所に収容されている者は、死刑判決が確定しても原則として移動することはない(例:名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件の元死刑囚。名古屋から移動せず、2013年2月21日に名古屋拘置所で死刑執行)。

刑場のない刑事施設で死刑判決が確定するのは、主に以下のような場合である。

また、1945年 - 1963年は、東京に刑場がなく、死刑執行のために宮城刑務所に死刑囚を送っていた。これは「宮城送り」と呼ばれていた[9]

共犯死刑囚の分散[編集]

刑場のある施設であっても、1箇所に3人以上の共犯死刑囚が収容されている場合、1つの施設あたり2人以下になるよう分散が図られる。

例えば、警察庁広域重要指定118号事件の3死刑囚はもともと3人とも宮城刑務所仙台拘置支所に収容されていたが、うち1人は東京拘置所へ移送された(3人とも執行はされず病死)。

また、大牟田4人殺害事件の4死刑囚は、死刑確定時には4人とも福岡拘置所に収容されていたが、死刑囚のうち1人は広島拘置所、もう1人は大阪拘置所に移送されている。

オウム真理教事件の死刑囚13人は長年東京拘置所に全員が収容されていたが、全裁判が終結したことを受け2018年3月に分散された(その後、7月6日に元教団代表で全事件の首謀者の麻原彰晃(松本智津夫)以下7名、7月26日に残りの6名が執行)[10][11][12]。なお、この13人については、2012年の春に刑場のある7施設への分散の予定があったが、2011年末に逃亡共犯者が出頭したために移送が立ち消えになった旨の報道があった[13]

この他、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の3死刑囚、マニラ連続保険金殺人事件の3死刑囚(うち1人は最近病死)も分散されている。

一方で、東京拘置所に収容中の架空請求詐欺仲間割れ殺人事件の死刑囚3人は分散されていない。

なお、3人以上の共犯死刑囚を1箇所の拘置所に収容しない理由は、共犯関係にある死刑囚は同日に死刑執行されるのが原則だからである。同日に同じ刑場で3人以上の死刑を執行するのは困難とされる[14]

もっとも、1984年以降で1つの拘置所で同日に3人の死刑を執行した例もオウム真理教事件以外にも1例だけ存在する[15]。オウム真理教事件では2018年7月6日に3人、同年7月26日に3人が東京拘置所で執行された。

死刑囚の出廷[編集]

これは死刑囚本人が被告として出廷する場合と、死刑囚が証人として出廷する場合がある。

前者としては、宇都宮監禁殺人事件の死刑囚が、収容されていた東京拘置所から水戸へ移送され、水戸地裁で判決を受けたのち、再び東京拘置所に移送された例がある[16]

後者としては、オウム真理教事件の逃亡犯3人の裁判員裁判に、2013年から2015年にかけて、井上嘉浩中川智正新実智光小池泰男広瀬健一の5名が出廷した例がある。この出廷に関しては、検察側は死刑囚の心情の安定の問題、死刑囚に危害が加えられる可能性など、移送に伴う混乱は必至であるとし、「裁判所に呼ぶのはリスクしかない」と反対した[17]。これは、死刑囚13名を全国7箇所の拘置所・拘置支所へ分散しようと計画していたこととは大きな矛盾であった。一方で、拘置所で行なった死刑囚の出廷の予行演習の情報は外部へ漏れ、テレビで放映された。実際の死刑囚の出廷は厳戒態勢のもと行われ、事なきを得た。

死刑囚の医療機関への受診[編集]

死刑囚が病気に罹患し、その刑事施設で対応出来なければ、医療施設の整った他の刑事施設や外部の医療機関に受診させるため移送することがある。場合によっては入院もあり、そこで死亡する場合もある。

医療刑務所で死亡した例としては、高知連続保険金殺人事件の女性死刑囚大阪医療刑務所)、平沢貞通元死刑囚(八王子医療刑務所)、マニラ保険金殺人事件の元死刑囚(八王子医療刑務所)[18]

外部の医療機関で死亡した例としては、高岡暴力団組長夫婦射殺事件の元死刑囚(名古屋の病院)、警察庁広域重要指定118号事件の元死刑囚(仙台市内の病院)。

外部の医療機関を受診させなかったために死刑囚で失明したとして民事訴訟となり、国側が死刑囚に対して和解金を支払った事例もある[19]

日本における死刑囚の確定と執行の推移[編集]

江戸時代後期・幕末[編集]

日本全体及び江戸時代全体を通じた死刑執行数は不明であるが、江戸大阪町奉行並びに奈良奉行、その他の代官郡代における死刑執行数は、期間は限定されるが、以下の通りである[20]

江戸における15歳以上の男性庶民(武士公家僧侶神職被差別部落民を除く)に対する死刑執行数と死刑種類別内訳
獄門 火罪 死罪 下手人 江戸庶民
死刑執行数
引回あり 引回なし 引回あり 引回なし 引回あり 引回なし
1862年(文久2年) 3 0 7 33 2 19 74 1 139
1863年(文久3年) 0 0 2 24 3 14 49 0 92
1864年(元治元年) 1 0 2 19 5 6 54 0 87
1865年(慶応元年)5~12月 1 2 5 31 0 11 58 1 109
死刑執行
方法別総計
5 2 16 107 10 50 235 2 427
死刑執行方法別
割合内訳(%)
1.2 0.5 3.7 25.1 2.3 11.7 55.0 0.5 100.0
  • 上記の表では、15歳未満少年は女性は含まれていない。この期間中に15歳未満少年は死刑執行されておらず、
    罪1等を減じて遠島となって、親戚預かりとなった者が3人いる。女性は10人死刑執行されている。
大阪町奉行における15歳以上の男性庶民(武士・公家・僧侶神職・被差別部落民を除く)に対する
死刑執行数と死刑種類別内訳
獄門 火罪 死罪 下手人 大阪庶民
死刑執行数
引回あり 引回なし 引回あり 引回なし 引回あり 引回なし
1781年(天明2年) 1 0 0 1 0 4 12 2 20
1782年(天明3年) 0 0 0 2 0 1 32 4 39
1783年(天明4年) 0 0 4 3 6 3 28 3 47
1784年(天明5年) 0 0 16 8 0 8 43 6 81
1785年(天明6年) 0 0 10 14 0 3 16 0 43
死刑執行
方法別総計
1 0 30 28 6 19 131 15 230
死刑執行方法別
割合内訳(%)
0.4 0 13.0 12.2 2.6 8.3 57.0 6.5 100.0
江戸と大阪町奉行以外における15歳以上の男性庶民(武士・公家・僧侶神職・被差別部落民を除く)の死刑執行数と死刑種類別内訳
奉行・代官・郡代名 獄門 火罪 死罪 下手人 庶民死刑
執行数
引回あり 引回なし 引回あり 引回なし 引回あり 引回なし
奈良奉行所 1811年(文化8年) 0 0 3 0 8 0 11
備中国倉敷代官所 1789(寛永9年) 0 0 0 0 0 0 0 1 1
西国郡代 1845年(弘化2年) 0 0 0 0 0 0 0 1 1
飛騨郡代 1866年(慶応2年) 0 0 0 0 0 1 0 0 1

明治時代[編集]

執行数 備考
一般刑法犯[21][22] 旧日本陸軍
常設軍法会議[23][24]
旧日本海軍
常設軍法会議
総数
旧刑法施行以前
1869年(明治2年) - - - 480以上 江戸時代の法に基づく裁き。東京府内では128人(梟首38人、斬首:90人)が死刑執行されている[25]
1868(明治元)年10月29日仮刑律が制定され、死刑は、刎(身首処ヲ異ニス)と斬(袈裟斬)とがあったが、梟首(獄門に相当)・斬首死罪に相当)・絞首刑の3種になった。そのほかに、磔、火罪(放火犯に対するもの)も用いられたが、前年11月に至って、磔刑は君父に対する大逆罪に対してのみ用いられることになり、火罪は梟首に代えられた[26]。また仮刑律より、官人と諸藩士に対して梟首は行わないことになっている[27]。しかしながらも、その法が適用された地域は旧天領であるであり、諸に対しては残酷な刑罰を除去する事を命じた上で当面の間は自藩の刑法を施行させた。そして、版籍奉還が行われた後は死刑執行には政府の許可を得ることとなった。
更に、軍律の発布と糺門司の設置を行い、日本で初めて軍事裁判制度が確立した[28]
1870年(明治3年) - - - 1080以上 暫定刑法である新律綱領の制定。この法により、磔は廃止され、梟首・斬首刑・絞首刑の3種類となった。更に、この法では親族から希望があれば死体の埋葬や弔いが許されている[29]。この時、斬首刑が主に執行されていた。また、士族に対しては、自裁(切腹)を設け、僧侶官吏らにも準用した[30][29]。そして、この年の4月15日の太政官布告により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止される[27]。東京府内では87人(磔1人、梟首28人、斬首:58人)が死刑執行されている[25]
1871年(明治4年) - - - 1246以上 1871年までの数値は、戊辰戦争による刑死は含まれない。また、軍律に代わり、海陸軍刑律が発布。
1872年(明治5年) 1126 - - - 旧日本軍に軍事裁判所が設置される。
一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首69人(男67人、女2人)、斬首:773人(男766人、女6人)、絞首刑:283人(男279人、女4人)、自裁:1人(男1人)[31]
1873年(明治6年) 961 1[32] 0 962 欧米の近代刑法の影響を受けた改定律例の制定。また終身懲役を導入したことで、死刑を回避された者が、少なくともこの年で228人いる。
一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首34人(男33人、女1人)、斬首:709人(男690人、女19人)、絞首刑:218人(男217人、女1人)[31] 軍事裁判所:陸軍軍人及び軍属:1人(罪状:官金窃盗)
1874年(明治7年) 748 - - - 佐賀の乱江藤新平島義勇が梟首
一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首15人(男13人、女2人)、斬首:618人(男600人、女18人)、絞首刑:117人(男114人、女3人)[33]
佐賀の乱の首謀者として法律を無視した私刑の形で死刑執行された江藤新平と島義勇が含まれたかどうか不明である。
1875年(明治8年) 452 3[34] 0[35] 455 一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首13人、斬首:371人、絞首刑:68人[36]
旧日本陸海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
1876年(明治9年) 378 1[37] 0[38] 379 一般刑法犯死刑執行内訳:梟首7人、斬首:341人、絞首刑:30人[36]
旧日本陸海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
1877年(明治10年) 135 0[39] 1[40] 136 前年の司法省布達20号より、地方の裁判官に酌量軽減の裁量を認めた。特に死傷を伴わない凶器を用いた強盗犯の死刑執行がこの通達により、前年には235人いたが、この年は全くいなくなった[41][42]。しかしその代わり、終身懲役を科された者が、8割近く(791人中623人)いた[43]。また、西南戦争時に官金を西郷軍に提供した罪でこの年の9月30日に斬首された大山綱良は含まれていない。
一般刑法犯死刑執行内訳:梟首10人、斬首:101人、絞首刑:24人[36]
旧日本陸海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
1878年(明治11年) 169 63[44] 1[45] 233 この年を最後に梟首が無くなる。また、旧日本陸軍の死刑がこの年多く執行されたのは、明治11年8月に発生した竹橋事件によるもの。そして、旧日本陸海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
一般刑法犯死刑執行内訳:梟首20人(男17人、女3人)、斬首:131人(男124人、女7人)、絞首刑:18人(男17人、女1人)[46]
1879年(明治12年) 154 3[47] 0[48] 157 梟首を正式に廃止[49]。また、旧日本陸海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
一般刑法犯死刑執行内訳:斬首:135人(男121人、女14人)、絞首刑:19人(男16人、女3人)[50]。また、この年に高橋お伝が斬首刑に処せられている。因みに、高橋お伝は最後に斬首された女囚ではない。
1880年(明治13年) 125 - 0[51] - 旧刑法(明治13年太政官布告第36号)が制定される。また、旧日本海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
一般刑法犯死刑執行内訳:斬首:119人(男111人、女8人)、絞首刑:6人(全員男)[52] 
1881年(明治14年) 96 1[53] 0[54] 97 陸軍刑法海軍刑法が制定される[28]。また旧日本陸海軍の執行数は、当年7月から翌年6月までの執行数である。
一般刑法犯死刑執行内訳:斬首:93人(男86人、女7人)、絞首刑:3人(全員男)[55]。この年の7月27日市ヶ谷監獄にて強盗目的で一家4人を殺害した岩尾竹次郎、川口国蔵の2人の死刑執行が日本法制史上最後の斬首刑(少なくとも当時の法に適法である)であると共に、山田浅右衛門による最後の斬首刑である[56]
旧刑法施行下
1882年(明治15年) 51 - 0[57] - 1月1日に新律綱領・改定律例に代わって旧刑法が施行される。旧刑法施行により、一般刑法犯の死刑執行方法が絞首刑に限定された。また、軍事裁判所から軍法会議へ改称する。
1883年(明治16年) 61 2[58] 0[57] 63 軍事裁判の訴訟手続法として陸軍治罪法が制定される[28]
1884年(明治17年) 52 1 0[57] 53 海軍治罪法が制定される[28]
1885年(明治18年) 130 1 0[59] 131
1886年(明治19年) 131 2 0[60] 133 この年の12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市青森監獄前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平巡査が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯(東奥義塾教師)がそれぞれの任を果したと言わている。
しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法の死刑執行かつ公開処刑であると言わざる得ない[61]
1887年(明治20年) 97 1 0[60] 98
1888年(明治21年) 60 1 0[62] 61
1889年(明治22年) 49 0 0[63] 49
1890年(明治23年) 39 2 0[63] 41
1891年(明治24年) 66 0 0[63] 66
1892年(明治25年) 51 0 0[63] 51
1893年(明治26年) 46 3 0[63] 49
1894年(明治27年) 52 0 - -
1895年(明治28年) 75 1 0[64] 76
1896年(明治29年) 72 1 0[64] 73
1897年(明治30年) 21 0 0[64] 21
1898年(明治31年) 48 1 1[64] 50
1899年(明治32年) 37 0 1[64] 38
1900年(明治33年) 33 0 0[65] 33
1901年(明治34年) 29 1 0[65] 30
1902年(明治35年) 28 0 0[65] 28
1903年(明治36年) 41 1 0[65] 42
1904年(明治37年) 45 - 0[65] - 1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて日露戦争が行われたが、旧日本陸軍常設軍法会議によって死刑執行された者は不明である。
1905年(明治38年) 36 - 0[66] -
1906年(明治39年) 19 0 0[66] 19
1907年(明治40年) 12 4 0[66] 16 陸軍刑法海軍刑法が改正される[28]
現行刑法施行下
1908年(明治41年) 51 1 0[67] 52 現行刑法が制定。刑事事件に対する刑罰が現在の法体系となる。
1909年(明治42年) 18 1 0[68] 19
1910年(明治43年) 39 0 0[69] 39
1911年(明治44年) 40 0 0[69] 40 幸徳事件で、幸徳秋水ら12名に死刑執行される。
  • 1868年(明治元年)における東京府内の死刑執行者は190人(磔3人、梟首95人、斬首:92人)
  • 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)で死刑判決が下され、執行された者のみであり、 特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)によって死刑判決下され死刑執行された者は含まれていない。

大正時代[編集]

執行数 備考
一般刑法犯[21] 旧日本陸軍
常設軍法会議[23]
旧日本海軍
常設軍法会議
総数
大正期
1912年(大正元年) 24 0 0[70] 24
1913年(大正2年) 60 0 0[71] 60
1914年(大正3年) 5 0 1[71] 6 大正天皇即位に伴う恩赦のため大量減刑。大正時代最少執行数。また、1912年に起きた装甲巡洋艦「日進」の火薬庫爆発事件を起こした予備役二等兵曹(罪状:艦船破壊未遂罪と殺人罪の併合罪)が死刑執行され、大正時代の中で唯一旧日本海軍常設軍法会議によって海軍刑法を犯し死刑執行された唯一の軍人となった。
1915年(大正4年) 94 0 0[72] 94 大正時代最多の死刑執行数
1916年(大正5年) 63 1 0[73] 64 大正時代の中で唯一旧日本陸軍常設軍法会議によって死刑執行された軍人(20代前半の朝鮮駐箚軍下士官 罪状:殺人既遂)がいる[74]
1917年(大正6年) 53 0 1[73] 54 旧日本海軍常設軍法会議によって死刑執行された軍人(20代前半舞鶴海兵団兵士 罪状:殺人既遂 犯罪動機:怨根)がいる。
1918年(大正7年) 56 0 0[75] 56
1919年(大正8年) 41 6 0[76] 47 大正時代の中で唯一旧日本陸軍常設軍法会議によって死刑執行された非軍人(20代後半2人と30代前半1人と30代後半3人の計6人であり、全員軍人軍属及び捕虜でない青島守備軍占領地居住民 罪状:強盗殺人)がいた年である[77]
1920年(大正9年) 41 0 0[76] 41
1921年(大正10年) 25 0 0[78] 25 この年の4月25日に陸海軍治罪法を廃止し、新たに「陸軍軍法会議法」・「海軍軍法会議法」を制定[28]
1922年(大正11年) 32 0 0[79] 32
1923年(大正12年) 32 0 0[79] 32
1924年(大正13年) 13 0 0[80] 13 虎ノ門事件難波大助らに死刑執行
1925年(大正14年) 19 0 0[81] 19
1926年(大正15年) 29 0 0[82] 29
  • 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)で死刑判決が下され、執行された者のみであり、 特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)によって死刑判決下され死刑執行された者は含まれていない。

昭和時代前期[編集]

執行数 備考
一般刑法犯[21] 旧日本陸軍
常設軍法会議[23]
旧日本海軍
常設軍法会議
総数
昭和前期
1927年(昭和2年 12 0 0[83] 12
1928年(昭和3年) 21 0 0[84] 21
1929年(昭和4年) 13 0 0[84] 13
1930年(昭和5年) 15 0 0[85] 15
1931年(昭和6年) 19 0 0[86] 19
1932年(昭和7年) 22 0 0[87] 22 桜田門事件李奉昌10月10日市ヶ谷刑務所にて絞首刑が執行される。但し、上海天長節爆弾事件の実行テロ犯尹奉吉に対する銃殺刑は、含まれていない。
1933年(昭和8年) 28 0 0[88] 28
1934年(昭和9年) 35 0 0[89] 35
1935年(昭和10年) 14 0 0[90] 14
1936年(昭和11年) 11 1 0[91] 12 この年の7月12日に行われた二・二六事件による15名の死刑執行は特設軍法会議で行われたため、含まれていない。
1937年(昭和12年) 23 0 0[92] 23 この年の8月19日に行われた二・二六事件による北一輝西田税磯部浅一村中孝次の4名の死刑執行は特設軍法会議で行われたため、含まれていない。
1938年(昭和13年) 15 -[93][94] 0[95] -
1939年(昭和14年) 14 -[93][96] 0[97] -
1940年(昭和15年) 20 -[93][98] 0[99] -
1941年(昭和16年) 22 -[93][100] 0[101] -
1942年(昭和17年) 11 -[93][102] - -
1943年(昭和18年) 13 -[93][103] - - 戦時法により刑事犯に対する裁判は三審制から二審制になった[104]
1944年(昭和19年) 25 -[93][105] - - 太平洋戦争が始まった1941年からこの年の7月まで高等軍法会議を除く、全ての常設軍法会議は廃止され、臨時軍法会議に移行した。
1945年(昭和20年) 8 - - - 長崎市への原爆投下により死刑囚4人[106]が爆死。
また、法務官不在でも軍法会議が開廷できるように処置される。
終戦後の12月に内地における軍法会議は廃止され、その記録は全て地方裁判所に移管された。
1946年(昭和21年) 11 - - -
1947年(昭和22年) 12 - - - 刑法から天皇・皇族に対する大逆罪(未遂も死刑)が削除される。そして、陸軍刑法廃止にともなう同法の改正により、日本の軍法会議制度は消滅[107]。また、外地の軍法会議はこの年の2月まで存続している。
1948年(昭和23年) 33 - - 33 1審における死刑判決数が戦後最多の116人であった。死刑の存置を合憲とする死刑制度合憲判決事件判決が出された。また、極東国際軍事裁判によって死刑判決が下された7人への死刑執行は含まれていない。
  • 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)で死刑判決が下され、執行された者のみであり、 特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)によって死刑判決下され死刑執行された者は含まれていない。
  • 旧日本陸軍の1938~1947年までと1942~1947年の旧日本海軍の軍法会議による死刑執行数は不明である。また、戦時中における軍法会議の中には、本来死刑にする罪でない逃亡兵士を故意に敵に投降逃亡したとみなし、銃殺刑に処された例が多くあると指摘されている[108]
  • 第2次世界大戦終戦から1951年6月11日までの間に連合国による軍事裁判によって死刑執行されたA級戦犯(7人)やBC級戦犯(約1,000名)は含まれていない。また、死刑執行者の中には、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮や台湾出身者の軍人軍属も含まれている[109]。処刑方法は、約3分の2が絞首刑、残りは銃殺刑であり、中国においては市中引き回しの上、死刑執行させされている。そして、BC級戦犯の軍事裁判において、捕虜虐待等の実態の誇張や反論の機会が与えられないまま、虚偽の一方的な証言のみによって、事実審理も行わず死刑判決が下った例が多くあると指摘されている[110]

昭和時代中後期・平成時代[編集]

  • 収容数は、年末の確定死刑囚の収容者数である。
現行刑事訴訟法施行以後[111]

確定数
執行数
[21][112]
収容数
備考
1949年(昭和24年) 79 33 81 死刑判決確定数が戦後最多であった
1950年(昭和25年) 25 31 73
1951年(昭和26年) 32 24 81
1952年(昭和27年) 41 18 92 サンフランシスコ平和条約締結による政令恩赦で12人が無期懲役に減刑
1953年(昭和28年) 25 24 93
1954年(昭和29年) 21 30 80
1955年(昭和30年) 14 32 62
1956年(昭和31年) 24 11 75
1957年(昭和32年) 27 39 62
1958年(昭和33年) 21 7 76
1959年(昭和34年) 12 30 57
1960年(昭和35年) 33 39 51
1961年(昭和36年) 24 6 69
1962年(昭和37年) 13 26 56
1963年(昭和38年) 17 12 61
1964年(昭和39年) 9 0 70 この年は近世日本で初めて死刑執行が行われなかった。(賀屋興宣法相が元A級戦犯で実際に死刑執行を目撃した為)
1965年(昭和40年) 7 4 72
1966年(昭和41年) 13 4 81
1967年(昭和42年) 14 23 71 田中伊三次法相が新聞記者の前で一度に署名
1968年(昭和43年) 11 0 82 赤間文三法相が署名を拒否したため執行なし
1969年(昭和44年) 10 18 71
1970年(昭和45年) 14 26 58
1971年(昭和46年) 7 17 48
1972年(昭和47年) 7 7 47
1973年(昭和48年) 5 3 49
1974年(昭和49年) 2 4 46 獄死1人
1975年(昭和50年) 3 17 29 福岡事件の死刑囚2人のうち、1人に恩赦無期減刑、1人に死刑執行。他に自殺2人
1976年(昭和51年) 1 12 18
1977年(昭和52年) 3 4 16 自殺1人
1978年(昭和53年) 4 3 17
1979年(昭和54年) 4 1 20
1980年(昭和55年) 7 1 26
1981年(昭和56年) 3 1 28
1982年(昭和57年) 1 1 28
1983年(昭和58年) 1 1 27 再審無罪1人
1984年(昭和59年) 3 1 27 再審無罪2人
1985年(昭和60年) 2 3 26
1986年(昭和61年) 0 2 24
1987年(昭和62年) 8 2 29 5月に平沢貞通が病死
1988年(昭和63年) 11 2 38
1989年(平成元年) 5 1 40 再審無罪1名、獄死1名
1990年(平成2年) 6 0 46 この後、3年に及ぶ死刑執行モラトリアム
1991年(平成3年) 5 0 51
1992年(平成4年) 5 0 56
1993年(平成5年) 7 7 56 法務大臣後藤田正晴により死刑執行が再開される
1994年(平成6年) 3 2 57
1995年(平成7年) 3 6 54
1996年(平成8年) 3 6 52
1997年(平成9年) 4 4 51 刑法が片仮名漢字の歴史的仮名遣表記の文語体から、現代仮名遣い口語体に改訂される(刑法の抜本的な改訂ではない)
1998年(平成10年) 7 6 52
1999年(平成11年) 4 5 50 自殺1名
2000年(平成12年) 6 3 52
2001年(平成13年) 5 2 56
2002年(平成14年) 3 2 57
2003年(平成15年) 2 1 56 12月18日に政府が「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」を策定し、刑罰の厳罰化を推進することになった。獄死2名
2004年(平成16年) 15 2 68 獄死1名
2005年(平成17年) 11 1 78
2006年(平成18年) 20 4 94
2007年(平成19年) 23 9 107 第二次世界大戦以後、未執行死刑囚が最多となった。獄死1名
2008年(平成20年) 10 15 100 2月と12月に死刑囚各1名が病死
2009年(平成21年) 18 7 107 1月、5月、9月、10月に死刑囚各1名が病死
2010年(平成22年) 8 2 111 1月、4月に死刑囚各1名が病死
2011年(平成23年) 24 0 132 平成期最多の死刑確定数。また19年ぶりに執行無。1月に死刑囚2名、2月に永田洋子が病死
2012年(平成24年) 10 7 135
2013年(平成25年) 6 8 130 6月、8月、11月に死刑囚各1名が病死
2014年(平成26年) 6 3 128 4月、5月、6月に死刑囚各1名、7月に死刑囚2名が病死
2015年(平成27年) 3 3 127 10月に奥西勝が病死
2016年(平成28年) 6 3 128 1月、2月に死刑囚各1名が病死
2017年(平成29年) 3 4 123 3月、5月、6月、9月に死刑囚各1名が病死
2018年(平成30年) 2 15 109 オウム真理教事件に関連した麻原以下関係者の刑死
2019年(令和元年) 4 3 113
2020年(令和2年) 2 0 110 1月に死刑囚1人が自殺 2月、10月、12月に死刑囚各1人が病死 9年ぶりに執行無。

グラフ[編集]

1949年以降の死刑確定数、死刑執行数、死刑囚収容数を示す。情報源は本項の表による。

日本の死刑囚の事例[編集]

生き返った死刑囚
1872年石鉄県(現在の愛媛県)の久万山騒動に参加し、役所に放火した田中藤作(当時31歳)が絞首刑執行後に蘇生した事例があった。彼は「既に死刑が執行されており、再度執行する法的根拠がない」として、放免と原籍編入を指示された。原因は当時の処刑器具「絞柱」に構造欠陥があったため確実に絶命させられなかったためといわれている。ほかにも同時期に2人がおなじように蘇生したとされるが、こちらについての伝承は明らかではない。
執行されなかった死刑囚
1945年8月9日アメリカ軍が行った長崎市への原子爆弾投下では、爆心地近くに戦時中の規定で九州地区唯一の処刑場に指定されていた長崎刑務所浦上刑務支所があったため、死刑囚2名(4名とする書籍もある)も含む刑務所にいた全員が一瞬にして死亡した。
戦後在日米軍によって処刑された少年死刑囚
上坂冬子著『巣鴨プリズン13号鉄扉』によれば、ほかの戦争犯罪人と同じように、18歳の少年が死刑になった事実があるという。それによれば1945年12月19日に、北海道札幌市にあった進駐軍宿舎に盗みに入った少年がアメリカ兵を殺害したために、アメリカ軍軍事法廷で、わずか2日の審理で1946年1月23日に死刑が確定、5月17日に巣鴨拘置所絞首刑になった。
過去に長期収監されていた死刑囚
平沢貞通死刑囚は、1955年4月7日最高裁上告棄却で死刑確定後、歴代法務大臣が死刑執行命令書へ署名しなかったために執行されないまま、1987年5月10日に獄中で95歳で病死した。確定死刑囚の確定後収監期間32年0ヶ月(逮捕後通算38年9ヶ月)は当時の世界最長であり、ギネス世界記録にも世界記録として認定された。ただしこの記録はすでにマルヨ無線事件の死刑囚が死刑確定後収監期間49年4ヶ月(2020年3月末時点)と超えている。
福岡事件のうち、実行犯とされた死刑囚は1947年逮捕され死刑確定後の1975年に恩赦により無期懲役に減刑された。この時点で28年収監されていたが、仮出所したのが1989年であり、釈放された元死刑囚の逮捕後収監期間としては最長の42年7ヶ月の記録を持っていた。
現在、長期収監されている死刑囚
冤罪と主張される死刑囚の執行は避けられる傾向にある。これは執行された後で仮に無罪の証拠が発見された場合、もはや回復不能であることが理由である。実際に名張毒ぶどう酒事件では1972年に死刑確定後、冤罪の可能性が指摘されていることから執行は行われていない。同様に川端町事件の死刑囚も1970年に確定しているが執行されていない。
一方、飯塚事件の死刑囚は冤罪疑惑があったにも関わらず、2006年の死刑確定から約2年後の2008年に執行された。
1974年に発生したピアノ騒音殺人事件の死刑囚は1977年に死刑判決が確定したが、2017年12月末現在死刑が執行されていない。これは犯行動機(近隣騒音)に同情した全国の騒音被害者たちが助命嘆願運動を繰り広げたほか、控訴審で行われた精神鑑定責任能力なしの判断が出され、無期懲役に減軽される可能性があったにもかかわらず、死刑囚が「刑務所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由で控訴を取り下げた事情がある。現在彼は精神異常が亢進しているといわれており、今後も死刑執行が行われない可能性があり、冤罪を指摘されず再審請求を提出していないにもかかわらず、前述の平沢の確定死刑囚としての年数を更新した。
確定後、最も執行までの収監期間が長かった死刑囚
1975年に発生した秋山兄弟事件は、兄弟2人が犯した事件であったが、裁判では相手が主犯であると擦り合った。裁判所は弟を主犯と認定し死刑に、兄を無期懲役とした。死刑が確定したのは1987年であったが、執行されたのは2006年であった。そのため、判決確定後19年5ヶ月で死刑が執行され、その待機期間としては戦後最長であった。また執行時の年齢が77歳であったが、記録が残る中では日本国憲法下で最高齢の記録である。
日本の女性死刑囚
現代の日本における死刑囚の大半は男性である。そのため女性死刑囚は少なく、第二次世界大戦後に死刑判決が確定した女性死刑囚は16人である。戦後初めて女性に対し死刑判決が確定したのは、1949年に発生した菅野村強盗殺人・放火事件の女性に対するものであったが、彼女は精神異常と結核のため恩赦されている。戦後初めて死刑が執行されたのは1960年に発生したホテル日本閣殺人事件の主犯(確定は3番目)に対するもので、1970年に執行された。また同じ年には女性連続毒殺魔事件で確定した59歳の女性(確定は2番目)も執行されている。また1997年に夕張保険金殺人事件の主犯の妻が執行されている。そのため11人のうち3人が執行され、1人が恩赦、2007年に1人が獄死している。2017年現在6人が収監中であるが、そのうち2004年11月に確定した女性は当時77歳であり、高齢による衰弱が激しく死刑が執行される可能性は低いといわれていたが、2011年1月に病死した、その後同年10月に大牟田4人殺害事件の犯人の死刑が確定し7人となった。しかし2012年に福島悪魔払い殺人事件の主犯の死刑が執行され女性の死刑執行は4番目になった。しかし2016年久留米看護師連続保険金殺人事件の主犯の死刑が執行され女性の死刑執行は5番目になった。これにより2017年現在死刑が未執行の女性死刑囚は再び6人に戻った。

備考[編集]

死刑囚の時効[編集]

2010年(平成22年)4月27日に公布・施行された改正刑法により、死刑確定者の時効は廃止されている。

刑法第32条に「時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する」とあり、死刑については30年と規定されており、30年執行されなければ時効が成立するかのような誤解があるが、刑法第34条に「死刑、懲役、禁錮及び拘留の時効は、刑の言渡しを受けた者をその執行のために拘束することによって中断する」と時効が中断することが定められているため、拘置所等に身柄が拘束されている場合は刑が時効消滅しない。

帝銀事件の元死刑囚が死刑判決確定後30年経過した際に「時効の成立」を主張したが、身柄が拘束されて時効が中断していたために認められなかった。なお、拘置所から脱獄して30年以上、逃亡生活を送れば時効が成立するものとされていた。ただし、死刑囚の脱獄は実際に何件か起きているが、30年後の時効完成まで確実に逃亡出来た者は現在まで1人もいない[113]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 読売新聞1913年12月26日の紙面によれば、傷害致死で死刑を宣告され控訴中の女性(当時21歳)が妊娠していることが発覚し、出産するまで公判中止になった記事がある。
  2. ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 27-33頁
  3. ^ 別冊宝島『死刑囚最後の1時間』より
  4. ^ 佐久間哲、「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」、自由国民社、2005年、102頁
  5. ^ 坂本敏夫『東京拘置所のすべて』日本文芸社
  6. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」宝島社 2007年
  7. ^ 坂本敏夫『東京拘置所のすべて』日本文芸社
  8. ^ 『逃走容疑で受刑者再逮捕=「20年も入りたくなかった」―山形県警』時事通信2013年4月17日21時12分配信
  9. ^ 村野薫『日本の死刑』 柘植書房新社、1990年
  10. ^ “オウム死刑囚7人の移送完了 法務省「共犯分離が目的」”. 共同通信 (共同通信社). (2018年3月15日). オリジナルの2018年3月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180315131539/https://this.kiji.is/346901239646405729 2018年3月15日閲覧。 
  11. ^ “麻原彰晃死刑囚ら7人死刑執行 早川・井上・新実・土谷・中川・遠藤死刑囚”. 産経新聞. (2018年7月6日). https://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060006-n1.html 2018年8月4日閲覧。 
  12. ^ “オウム全死刑囚の刑執行【オウム死刑囚の刑執行 速報中】”. 共同通信社. (2018年7月26日). https://this.kiji.is/395004923966309473 2018年8月4日閲覧。  [リンク切れ]
  13. ^ 「オウム死刑囚13人、分散収容を検討、法務省、昨年末に。」『日本経済新聞』2012年10月07日付朝刊
  14. ^ 『死刑廃止国際条約の批准を求める フォーラム90』 vol.147 p8
  15. ^ 日本における被死刑執行者の一覧 1996年12月20日
  16. ^ 「新潮45」編集部『凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)』新潮社、2009年
  17. ^ 「オウム3死刑囚の証人採用 心情への影響、警備の混乱…懸念多く」 『産経新聞』 2013年3月30日
  18. ^ 「死刑囚が刑務所内で病死 マニラ保険金殺人」日本経済新聞』 2016年1月23日
  19. ^ 「死刑囚が収容中に糖尿病で失明 拘置所側が適切な処置を怠ったとして提訴 400万の解決金で国と和解」 『読売新聞』 2009年5月28日
  20. ^ 平松義郎 『近世刑事訴訟法の研究』 創文社、1960年1月1日、1056-1069頁。doi:10.11501/3033456ISBN 4423740117。 NCID BN02799356 
  21. ^ a b c d 法務省 (1968-11) (JDEG). 昭和43年版犯罪白書>第三編 犯罪と犯罪者処遇の一〇〇年>第三編 統計表>III-7表 死刑執行人員(明治6~昭和42年) (Report). http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/9/nfm/n_9_3_1_1_0_0.html#H003007H 2020年10月18日閲覧。. 
  22. ^ 1872年(明治5年)以前の一般刑法犯死刑執行数は昭和43年版犯罪白書にはない。
  23. ^ a b c 陸軍省 (1937). 第49回陸軍省統計年報 VI 刑罰 48.軍法会議別処刑人員(総数) (Report). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446689/82 2020年10月23日閲覧。. 
  24. ^ 1883年(明治16年)以前の旧日本陸軍死刑執行数は第49回陸軍省統計年報にはない。
  25. ^ a b 村野 薫 (1990-12-01), 日本の死刑, 柘植書房新社, pp. 206-207, ISBN 978-4806802983, NCID BN05675848 
  26. ^ 衆議院調査局法務調査室 (2008-06). 死刑制度に関する資料 (Report). pp. 8. https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2611479/www.shugiin.go.jp/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/houmu_200806_shikeiseido.pdf/%24File/houmu_200806_shikeiseido.pdf 2020年10月27日閲覧。. 
  27. ^ a b 櫻井 悟史 (2009-03-31). “斬首を伴う「死刑執行人」の配置に関する考察 -公事方御定書から旧刑法にいたるまで” (日本語). Core Ethics : コア・エシックス (立命館大学大学院先端総合学術研究科) 5: 171-180. doi:10.34382/00005419. ISSN 1880-0467. NAID 110007077223. http://www.arsvi.com/2000/0903ss.htm 2020年10月24日閲覧。. 
  28. ^ a b c d e f 山本 政雄 (2006-12-22). “旧陸海軍軍法会議法の制定経緯-立法過程から見た同法の本質に関する一考察-” (日本語). 防衛研究所紀要 (防衛庁防衛研究所) 9 (2): 45-68. NAID 40015273064. http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j9_2_3.pdf 2020年10月18日閲覧。. 
  29. ^ a b 明治政府 (1870年). “新律綱領 一巻 名例律上 五刑”. 国立国会図書館デジタルコレクション. doi:10.11501/794317. 2020年10月27日閲覧。
  30. ^ 法務省 (1968-11). 昭和43年版犯罪白書 第三編 犯罪と犯罪者処遇の一〇〇年 第一章 刑事関係基本法令の変遷 一 刑法 (Report). http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/9/nfm/n_9_2_3_1_1_0.html 2020年9月26日閲覧。. 
  31. ^ a b 明治六年政表>司法処刑ノ部>明治六年司法省及ヒ各府県処刑人員(コマ番号12)”. 正院第五科 (1876年). 2019年3月7日閲覧。
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  94. ^ 1938年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は2,197人(内地:769人、満州:343人、中国:1,085人)である。
  95. ^ 海軍省 (1938). 昭和13年度海軍省年報 (13) 司法 16.罪名別受刑者の刑名 (Report). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267653/91 2020年10月23日閲覧。. 
  96. ^ 1939年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は2,923人(内地<台湾朝鮮含む>:954人、満州:493人、中国:1,476人)である。
  97. ^ 海軍省 (1939). 昭和14年度海軍省年報 (13) 司法 16.罪名別受刑者の刑名 (Report). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267657/72 2020年10月23日閲覧。. 
  98. ^ 1940年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は3,119人(内地:1,063人、満州:706人、中国:1,350人)である。
  99. ^ 海軍省 (1940). 昭和15年度海軍省統計年報 (15) 司法 16.罪名別受刑者 (Report). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267647/51 2020年10月23日閲覧。. 
  100. ^ 1941年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は3,304人(内地:1,320人、満州:899人、中国:1,081人、南方:4人)である。
  101. ^ 海軍省 (1941). 昭和16年度海軍省統計年報 (14) 司法 15.罪名別受刑者 (Report). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267655/53 2020年10月23日閲覧。. 
  102. ^ 1942年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は4,868人(内地:1,849人、満州:1,021人、中国:1,245人、南方:753人)である。
  103. ^ 1943年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は4,981人(内地:1,905人、満州:900人、中国:1,320人、南方:856人)である。
  104. ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 11頁
  105. ^ 1944年の1月から11月までに軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は5,586人(内地:2,484人、満州:980人、中国:1,308人、南方:814人)である。
  106. ^ 近藤昭二の『誰も知らない「死刑」の裏側』二見書房 2008年
  107. ^ 「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く陸軍刑法を廃止する等の政令(昭和22年5月17日政令第52号)」被改正法令一覧-国立国会図書館、日本法令索引
  108. ^ 石﨑博亮(制作当時:制作ディレクター) 花井利彦(NHK報道局 社会番組部ディレクター) (2012年8月14日). 戦場の軍法会議~処刑された日本兵~ (ドキュメンタリー). NHK.. http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20120814_2 
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  111. ^ 別冊宝島『死刑囚最後の1時間』の表より一部引用(2007年以降は新聞報道から加算)
  112. ^ 死刑執行数は昭和43年版犯罪白書では、1967年(昭和42年)までである。
  113. ^ 明治時代にあった若干の例外があり、たとえば剣術家連続針金強盗団事件の一味4人が護送中に脱走する広島護送死刑囚脱獄事件を引き起こしているが、3人は殺害もしくは再拘束されたが、明石章吉だけがそのまま消息不明になっており、時効が成立した可能性もあるが、行方知れずであり時効成立まで生存していたかは不明である。

参考文献[編集]