日本中国友好協会

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日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい)は、中華人民共和国中国)との友好交流の促進を目的として1950年に設立された日本団体である。通称日中友好協会(にっちゅうゆうこうきょうかい)。組織の運営方針を巡る対立から1966年に2つの集団へと分裂し、それ以降は下記の2団体が同協会を名乗りながら併存している。

1. 組織分裂の際に当時の拠点である善隣学生会館に留まり続けた集団。
日本共産党を支持する一派で、東京都台東区浅草橋五丁目に本部を置く。組織分裂時に使用していた機関紙の紙名(日中友好新聞)・団体のシンボルマークを引き続き使用している。
2. 組織分裂の際に当時の拠点である善隣学生会館から退去していった集団。
中国共産党文化大革命を支持していた一派で、東京都千代田区神田錦町一丁目に本部を置く。分裂後の一時期に「日中友好協会(正統)」を名乗り、2012年公益社団法人となった。機関紙「日本と中国」を発行。
組織分裂の経緯を踏まえ、本項では便宜的に前者を日中友好協会(「日中友好新聞」)、後者を日中友好協会(「日本と中国」)とそれぞれ記載する。

創立から組織分裂までの経緯[編集]

日本中国友好協会は日中関係団体の中で最も古い歴史を有しており、中華人民共和国建国直後の1949年10月に準備会を発足、1950年2月に会報『日本と中国』を創刊の上、同年10月1日に創立大会を開催して正式に発足した[1]。そのため分裂した2団体はいずれも「1950年10月1日に創立」としている。

日本と中華人民共和国との間に国交が無い中[2]、協会は善隣学生会館に拠点を置きながら中国残留日本人の帰国実現、戦時中に日本へ強制連行された上で死亡した中国人の遺骨送還、その他経済的・文化的な諸活動を通じて交流活動と日中国交正常化運動を行ってきた[3]

だが、中華人民共和国で1966年5月から文化大革命(文革)が本格的に始まると、文革に対する評価を巡って中国共産党日本共産党の関係が悪化し(詳細は日中共産党の関係参照)、協会内部でも中国共産党と文革を支持するグループ(便宜上の「日本と中国」)と日本共産党を支持するグループ(便宜上の「日中友好新聞」)とで対立が激化した。人数は「日本と中国」が多数であったものの、最終的に「日本と中国」が善隣学生会館の拠点から出ていく形で組織が分裂し、「日中友好新聞」と「日本と中国」が別個に「日本中国友好協会」を運営する状態に至った。

日本中国友好協会(「日中友好新聞」)[編集]

概要[編集]

機関紙『日中友好新聞』を発行する日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい)は、1966年以来中国政府から分派「ニセ日中」と名指しされた団体である。『日中友好新聞』は、組織分裂当時の名称をそのまま踏襲している。

1966年2月~3月に日本共産党の宮本顕治書記長が中国を訪問して、ベトナム戦争の統一戦線を形成しようと提案したが、ソ連の評価について、中国側と意見が食い違い、毛沢東主席との会談が決裂して、共同声明を発表できないまま帰国した。これは、日中共産党の路線対立につながり、日本共産党でも中国に近い党員らの除名や、中国関係の文献の取り扱いの排除などにつながった。日本共産党はこの対立を日中友好運動に持ち込み、日中友好諸団体の中での対立に発展した。日中友好団体のまとめ役であった日中友好協会にもこの対立が激化し、日本共産党の政策に同意できない役員や会員が、1966年10月25日別に日中友好協会(正統)本部を立ちあげて、日中友好協会は分裂した。

善隣学生会館は旧「満州国」が「満州国」からの留学生寮として建設した会館だったが、日中友好のための事業に使用される会館として運営されていた。日中友好協会(正統)本部が別の事務所を立ちあげたのちも、日本共産党に従う日中友好協会は、日中友好諸団体の中で党派的な対立を継続し、善隣学生会館の事務所などの施設をその 対立のために使用したので、会館内の中国人学生寮の寮生が反発し、壁新聞で事務所の退去を求めた。

このような経過で、両者の対立が深まっていったが、1967年2月28日に、日本共産党は組織動員して会館を包囲し、3月2日に、ヘルメットとこん棒などで武装した民主青年同盟の部隊を動員して、中国人の寮生とその支援者を殴打して、7人に重傷を負わせた(善隣学生会館事件)。この事件の時に、日本共産党の当時の最高指導者の数名が、会館の付近に構えて、指揮をとっていた。この事件に対し、日本共産党は、自分たちが被害者であるという宣伝を行い、現在に至っている。

1967年3月11日に、会館の管理賢者である財団法人善隣学生会館に退去を求める訴訟を提起した。日中友好協会は多数の部外者を事務所に常駐させて、善隣学生会館内の中国人留学生寮である後楽寮の寮生やその支援者と対峙していたが、1970年7月15日に和解し、それまでの賃料の支払いを免除され、立ち退き料と示談金として、財団法人から210万円を受け取って、事務所を引き払った。

1950年設立当初のマークをそのまま使用している。1998年の日中両共産党の合意を受け1999年に中国との関係を修復した。 結成当時は中国との国交がなかったので草の根民間外交としてきりえ講座、中国語講座などが主な活動内容であった。組織分裂後は中国政府から攻撃もされ、国交正常化後は「ニセ日中」と相手にされない時期が長く続いたが、国交がない当時からの活動を踏襲して中国政府からも日本政府からも独立した立場を保つことができた。

1998年、日中両国共産党の和解により、日本中国友好協会 (「日中友好新聞」)も中国と関係を回復し、中国国際交流協会及び中国日本友好協会と友好関係を持っている。駐日中国大使館は、双方の友好協会が大会を開催する際、それぞれ代表者を派遣し来賓として祝辞を述べている。

団体データ[編集]

  • 設立:1950年10月
  • 会長:大村新一郎
  • 本部所在地:東京都台東区浅草橋5-2-3 鈴和ビル5階
  • 会費:900円/月
  • 機関紙:日中友好新聞(タブロイド判4ページ、毎月3回(5日、15日、25日)発行、購読料1ヶ月400円)
  • 地方組織の表記方法は「日本中国友好協会+地域名『連合会・支部』」となる。
  • 中国国際交流協会及び中国日本友好協会と友好関係を持っている。
  • 革新都政をつくる会に東京都連合会が参加する。

日本中国友好協会(「日本と中国」)[編集]

概要[編集]

公益社団法人日本中国友好協会
団体種類 公益社団法人
設立 1950年10月1日 -
所在地 日本の旗 日本
東京都千代田区神田錦町一丁目4番地
日中友好会館6階
法人番号 8010005018657 ウィキデータを編集
主要人物 代表理事会長 丹羽宇一郎
活動内容 日中共同声明と日中平和友好条約の掲げる精神を遵守し、日本国と中華人民共和国両国民の相互理解と相互信頼を深め、友好関係を増進し、もって日本とアジアおよび世界の平和と発展に寄与することを目的とする。
会員数 62(都道府県日中友好協会(42)、学識経験者(20))
ウェブサイト 公益社団法人 日本中国友好協会
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日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい、「日本と中国」)は、東京都千代田区に本部を置く公益社団法人である。略称は日中友好協会(にっちゅうゆうこうきょうかい)。所謂日中友好7団体[4]の一翼を構成しており、日中友好を目的とした団体としては全ての都道府県に加盟協会を有する唯一の全国組織である。機関紙は『日本と中国』。ただし、1966年6月11日付の491号から同年11月21日付の号までは『日中友好新聞』と改題していた。

分裂脱退した当日の協会理事の参加者の数は非主流派の方が多数であったが、主流派に秘密にかねてから用意してあった別の事務所に移る準備を整え、集団で会議を中座し出て行った事件の経過があるので「日中脱走派」と「日中友好新聞」側に呼ばれた。現在では「社団日中」として区別している。

文化大革命の評価をめぐって(中国側の文革の対外路線への波及として「世界革命」を標榜し[要出典]、あるいは「4つの敵」の一つとして日本共産党指導部の打倒を公然と打ち出した路線の中で文革評価をめぐる”踏み絵”を用いて日本共産党党員などの中国絶対化に距離を置くメンバーを組織排除し、日中貿易を文革政府の”朱印”を持つ勢力に独占させ、友好商社方式で対日工作資金を持ち込み、中国いいなりの工作機関と議会ロビーを育成する大方針があったとされる)

当時の機関紙には中国直輸入の文革の立場から軍事革命を賛美する文書が多数掲載された。一時はその中でも分裂騒ぎがあり、さらに「黒田日中」(機関紙『日中友好』)と「宮崎日中」(機関紙『日本と中国』)の二派に分裂し機関紙をそれぞれ発行し、相互に暴力行為を働いて相互に機関紙で非難しあっているがこれは関係修復して再合同。 なお、根拠は無かったが、連合赤軍などにかかわりのあった人物も出入りしていたと言う噂まで広まった。

この日中友好協会(「日本と中国」)HPの「協会のあゆみ」という項目には、1967年6月の「黒田寿男氏、日中友好協会第2代会長に就任」から、1971年3月の「第31回世界卓球選手権大会、中国チーム参加・ピンポン外交」までの間の文革を奉じて組織分裂した当時の記述が未だにない。(ただし『日本と中国』縮刷版第5巻の「あとがき」には言及がある。)

1978年5月の第22回全国大会にて、これまで用いてきた「(正統)」の名称を外し、もとの日中友好協会の名に改めた。

21世紀に入ると、文革当時の幹部・活動家は年齢の関係で組織からほとんどいなくなった。また、文革終結後の中国が改革開放政策によって毛沢東時代から姿勢を変化させ、市井の民間人ではなく、企業経営者や自由民主党議員などの保守系親中派の会員も多くなったことから、現在の会活動や機関誌の論調からは左翼色が大幅に薄らいでいる。

団体データ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 会長挨拶・協会概要
  2. ^ 1949年以降、中国は中華民国と中華人民共和国の分断国家となった。日本政府1952年日華平和条約締結で中華民国を国家承認する一方、漢賊不両立中国語版の原則を掲げる台湾国民政府との兼ね合いから1972年日中国交正常化まで中華人民共和国を国家承認しなかった。
  3. ^ 協会の歩み
  4. ^ 他の6団体は、日中友好議員連盟日中経済協会日中協会日本国際貿易促進協会日本中国文化交流協会日中友好会館である。

関連項目[編集]