この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護)

日本航空123便墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本航空123便墜落事故
Japan Airlines Flight 123
Japan Airlines JA8119.jpg
事故機のJA8119(1984年撮影)
事故の概要
日付 1985年8月12日 (1985-08-12)
概要 圧力隔壁の破損及び垂直尾翼の脱落による操縦機能の喪失
現場 日本の旗 日本群馬県多野郡上野村高天原山の山中(御巣鷹の尾根
北緯36度00分05秒 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度 / 36.00139; 138.69389座標: 北緯36度00分05秒 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度 / 36.00139; 138.69389
乗客数 509
乗員数 15
負傷者数
(死者除く)
4
死者数 520
生存者数 4
機種 ボーイング747SR-46[注釈 1]
運用者 日本の旗 日本航空
機体記号 JA8119
出発地 日本の旗 東京国際空港(羽田空港)
目的地 日本の旗 大阪国際空港(伊丹空港)
テンプレートを表示

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年昭和60年)8月12日午後7時頃、東京国際空港(羽田空港)発、大阪国際空港(伊丹空港)行、日本航空の定期便JAL123便が、群馬県 上野村高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)へ墜落した航空事故である。単独機の事故としては世界史上最悪の事故(2020年5月現在)。

概要

日本航空123便墜落事故の位置(日本内)
伊丹空港
伊丹空港
羽田空港
羽田空港
日本航空123便墜落事故
JA8119型機墜落地点 Red X.svg 墜落地点
Blue pog.svg 羽田空港 Green pog.svg 伊丹空港

飛行中に機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムも全喪失、操縦不能に陥り迷走飛行の末、午後6時56分30秒群馬県 多野郡 上野村高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称:御巣鷹の尾根)に墜落した。

乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人であった。単独機の航空事故の死亡者数として2020年令和2年)4月時点で世界最多である[1][注釈 2]

夕方のラッシュ時お盆帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故[2]』『日航ジャンボ機墜落事故[3]』と呼ばれることもある。

1987年(昭和62年)6月19日運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切修理による破損が事故原因と推定されている。

事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、運輸安全委員会は報告書公表から24年後の2011年平成23年)7月29日、報告書の解説書を公表した[4]

事故機に関する情報

123便に使用されたボーイング747SR-46型機(機体記号:JA8119、製造番号:20783)は1974年(昭和49年)1月30日に製造され、1985年(昭和60年)8月19日付登録抹消された。総飛行時間は25,030時間18分で、総飛行回数は18,835回であった[報告書 1]

しりもち事故

1978年(昭和53年)6月2日、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路面に接触させた事故である。修理後から本事故までの飛行時間は16,195時間59分で、飛行回数は12,319回であった[報告書 1]

事故前の不具合

1985年(昭和60年)2月から本事故までの間、JA8119は客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。うち20件はグアム便(大阪-グアム)で発生したが、客室後部のコートルームに客室サービス用品を置いていたためとして、コートルーム棚下への搭載禁止徹底により不具合は解消した[注釈 3]。しかしながら、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている[報告書 2][別添 1]

運航乗務員

機長の高濱雅己(たかはままさみ)は49歳で、海上自衛隊から富士航空・日本国内航空を経て1966年(昭和41年)12月1日にJALに入社した。総飛行時間は12,423時間41分で、そのうち4,842時間22分がB747型機の飛行である。運航部門指導教官でYS-11B727DC-8の運行資格を保有していた。当日最初のフライトで、副操縦士席で佐々木副操縦士の指導や無線交信などを担当していた[報告書 3]

副操縦士の佐々木祐(ささきゆたか)は39歳で、1970年(昭和45年)4月18日にJALに入社した。総飛行時間は3,963時間34分で、2,665時間30分がB747型機の飛行である。DC-8の運行資格を保有し機長としても乗務していた。当日は別の機に乗務してからJA8119に乗り換え、訓練のため機長席に座り、操縦とクルーへの指示を担当していた[報告書 3]

航空機関士の福田博(ふくだひろし)は46歳で、1957年(昭和32年)4月1日にJALに入社した。総飛行時間は9,831時間3分で、3,846時間31分がB747型機の飛行である。エンジニア部門教官で、DC-6、B727、DC-8の運行資格を保有する。当日は羽田-福岡線で363、366便でJA8119に乗務していた[報告書 3]

通常操縦席は機長が進行方向左席、副操縦士は右席に着席するが、当日は副操縦士の機長昇格訓練を実施していたことから着席位置が逆であった[報告書 4]

客室乗務員

チーフパーサーの波多野純(はたのじゅん)は39歳で、1969年(昭和44年)10月18日JALに入社した。総飛行時間は10,225時間33分であった。他に11人の女性客室乗務員が乗務していた[報告書 3]

事故の経過

123便の飛行経過、記載されているのは上から順に各地点での時刻、飛行高度、対気速度
墜落地点(詳細地図)

飛行計画

JAL123便として羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだのち、伊豆大島から西に巡航、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった。

使用された JA8119の当日の運航予定は、

  • 503、504便で羽田 - 千歳線1往復
  • 363、366便で羽田 - 福岡線1往復
  • 123、130便で羽田 - 伊丹線1往復

5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。

搭乗にはボーディング・ブリッジを使用せず、地上からタラップで昇った。

18時04分、乗客乗員524人を乗せたJA8119はJAL123便として定刻より4分遅れで羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に滑走路15L(旧C滑走路)から離陸した。

緊急事態発生

操縦室音声記録装置 (CVR)には18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残されていた[別添 2][注釈 4]。2014年、オリジナルに近い音声テープで元同僚パイロット協力のもと解析した結果、不明だった部分のうち16箇所が明らかになった。

はじめに残っていた音声は操縦席と客室乗務員とのやり取りだった[注釈 5]

18時24分35秒頃、相模湾上空を巡航高度24,000フィート (7,300 m)へ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで衝撃音[注釈 6]が発生、続いて機長が「まずい、なんか爆発したぞ」と発言。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。

25分、機長は「スコーク77」を発信し東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。

この時機体は、垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流出し、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不能になった[注釈 7]

27分、異常発生からわずか3分足らずで航空機関士が「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」とコールアウトした[注釈 8]

機長らは異常発生直後から墜落まで、操縦不能になった理由を把握できていない模様であった。油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みていた[報告書 5]

同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動ダッチロールが生じ、ピッチングヨーイングローリングを繰り返した。DFDRには機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きが記録されていた。

31分40秒、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と酸素マスク着用を提案[注釈 9]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。

37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。

40分、航空機関士の提案で、バックアップシステムを用いてランディング・ギア降ろした[注釈 10]。機体は富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000フィート (6,700 m)から6,000フィート (1,800 m)へと降下[注釈 11]。その後、羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。機体はロール軸の振幅が縮小して多少安定した。

山岳地帯を迷走

46分、機長「これはだめかも分からんね」と発言。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していく。47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000フィート (1,800 m)前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

49分、機首が39度に上がり、速度は108ノット (200 km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。終わった。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(エンジン出力全開)、マックパワー、マックパワー」などと指示していた。

50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と激励の発言。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」に対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。機長が「パワーでピッチはコントロールしないとだめ」と指示。エンジン推力により高度を変化させる操縦を始めたと思われるが、左右の出力差で方向を変えた形跡は見当たらなかった[報告書 6]。速度が頻繁に変化し不安定な飛行が続いたため、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。

51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され[注釈 12]、53分頃から機体が安定し始めた。

54分、クルーは現在地を見失い[注釈 13]、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル (40 km)西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180ノット (330 km/h)まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。

55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ10(10度下がっている)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

55分12秒、フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との声に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000フィート (3,000 m)を切っていた。

56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と指示し続けた。

墜落

墜落したJA8119型機の残骸

クルーの必死の努力も空しく機体は降下し続け、56分14秒に対地接近警報装置 (GPWS)が作動。17秒頃にはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、56分23秒に右主翼と機体後部が尾根の樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h)以上に達していた[報告書 7][付録 1]

接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に70度傾いた。56分26秒には右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落、56分28秒には機体後部が分離した。機体は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、18時56分30秒に高天原山の斜面にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。CVRには23秒と26秒頃に衝撃音が記録されていたが、23秒の衝撃音の直前には“PULL UP (上昇せよ)”との警告音とともに、機長の「もうダメだ」もしくは「あーダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた。報告書では機長の発言は判読不能とされていた。

墜落時の衝撃[注釈 14]によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。一方、56分28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。

地上との交信

123便と東京航空交通管制部(所在地:所沢市 コールサイン:東京コントロール 以下、東京ACC)、東京進入管制所(所在地:羽田空港 コールサイン:東京アプローチ 以下、東京APC)、横田基地(コールサイン:YOKOTA APPROACH CONTROL 以下、横田管制)などとの交信は以下の通りであった[報告書 4][別添 2]

  • 18時24分47秒:JAL123便が緊急救難信号スコーク77 (7700)」の無線信号を発信、信号は東京ACCに受信された。
  • 25分21秒:123便機長がトラブル発生の連絡とともに、羽田空港への帰還と22,000フィート (6,700 m)への降下を無線で要求、東京ACCはこれを了承。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は、右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田空港は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
  • 27分2秒:東京ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、東京ACCはJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
  • 28分31秒:東京ACCは123便に真東に向かうよう指示するが、機長は「But Now Uncontrol(操縦不能)」と応答。東京ACCは、このとき初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。管制室のスピーカーがONにされ、123便とのやり取りが管制室全体に共有される[6]
  • 31分2秒:東京ACCからの降下が可能かの問いに対し、123便は降下中と回答。東京ACCは羽田空港より近く、旋回の必要も最低限で済む愛知県小牧市名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田に戻ることを希望する。航空機と地上との無線交信は英語で行われているが、管制部は123便の機長の負担を考え、母語である日本語の使用を許可。以後123便とは、ほとんど日本語で交信された。
  • 33分頃:JALはカンパニーラジオ(日本航空の社内無線)で123便に交信を求める。
  • 35分33秒:123便からR5のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので、後ほど呼び出すまで無線を聴取するよう求められ、JALは了承した。
  • 40分44秒:東京ACCが、123便と他機との交信を分けるため専用の無線交信周波数を割り当て、123便に周波数変更を求めたが、応答はなかった[注釈 15]
  • 41分54秒:逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めた。だが一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。
  • 45分36秒:航空無線を傍受していた横田基地が123便の支援に乗り出し、英語で123便にアメリカ空軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「Japan Air 123、Uncontrollable(JAL123便、操縦不能)」と応答した。東京ACCが「羽田にコンタクトしますか(東京APCと交信するか)」と123便に尋ねるが、123便は「このままでお願いします」と応答した。
  • 47分10秒:123便は千葉県木更津市レーダーサイトに誘導するよう求め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と尋ねるが、123便は「アンコントローラブル(操縦不能)」と応答した。東京ACCの管制官は123便との交信中に「ああっ」という叫び声を聞いたとされる[6]
  • 49分:JALがカンパニーラジオで3分間呼び出しを行ったが、応答はなかった。
  • 53分30秒:東京ACCが123便に交信を求めるが、123便は「アンコントロール(操縦不能)」と応答。横田管制は「横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っている」と通知。53分45秒、東京ACCが「周波数119.7に変えてください」と、東京APCの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
  • 54分25秒:123便は東京APCに現在地を尋ね、「羽田から55マイル (89 km)北西で、熊谷市から25マイル (40 km)西」と知らされた。
  • 55分5秒:東京APCから123便に対し、「日本語にて申し上げます」と前置きした上で「羽田と横田が緊急着陸準備を行っており、いつでも最優先で着陸できる」と知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と応答、これが123便と地上との最後の交信となった。その直後に東京APCが「インテンション (intention)聞かせてください」と、123便に今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も東京APCと横田管制が123便に対して呼び出しを行ったが、応答はないままだった。
  • 57分:横田管制は123便に「貴機は横田の北西35マイル (56 km)地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京ACCも123便に横田基地に周波数を変更するよう求めたが、既に123便は御巣鷹の尾根に墜落していた。

客室の状況

操縦室音声記録装置 (CVR)や生存者の非番女性客室乗務員の証言によれば、客室内は次のような状況だった[別添 2][7]

客室では衝撃音が響いた直後、各座席に酸素マスクが下り、プリレコーデッド・アナウンス[注釈 16]が流れた[別添 2]。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクとシートベルトの着用と、タバコを消す非常時の対応を行った[注釈 17]

18時26分54秒、チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示した[別添 2]

生存者によれば、「『パーン』という音と同時に白い霧のようなものが出たが、酸素マスクを着けて前を見たときには霧は既に無かった。数秒で消えた。爆発音発生直後の機内の乗客はパニックした様子は無く、まだ何とかなるんじゃないか、という雰囲気だった」という[7]

酸素が切れた頃から、機体の揺れが大きくなり、客室乗務員も立っていられないほどになった[7]。18時47分以降は、緊急着陸(水)に備え救命胴衣着用が指示された[報告書 8][注釈 18]。その後、乗客は不時着時の衝撃に備え、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢(不時着時の姿勢)をとった[7]

客室乗務員は乗客に対し機内アナウンスで、「幼児連れの親に子供の抱き方の指示」「身の回りの確認」「予告無しで着陸する場合もある」「地上と交信できている」等と案内していた[別添 2]。事故現場からは殉職した客室乗務員が書いた「不時着後の乗客への指示を列挙したメモ」も見つかった[8]

乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた[9][10]。これらの遺書は、事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。航空事故の多くは異常発生から数分程で墜落に至ることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から32分間飛び続けることができたため、遺書を書く余裕があったと言える。

また、事故現場からはコンパクトカメラも見つかり、事故発生時の機内の様子を撮影していたことがわかった。写真は警察が刑事事件の証拠資料として保存していたが、公訴時効成立後遺族に返還され、遺族が公開した[11][12]

事故発生からちょうど29年にあたる2014年(平成26年)8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で、生存した女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)が当時の状況を手記にしたため紹介されている。その中にあった新たな証言によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。

捜索・救難活動

百里基地からF-4ファントム緊急発進

航空自衛隊F-4戦闘機

18時28分頃、千葉県愛宕山航空自衛隊 中部航空警戒管制団第44警戒群(通称「峯岡山レーダーサイト」)でも、123便の緊急事態を表す「スコーク7700」を受信した。ただちに直属部隊である中部航空方面隊に報告され、航空救難で中心的な役割を果たす航空自衛隊の中央救難調整所 (RCC:Rescue Coordination Centre) が活動を開始した。

18時56分、123便が峯岡山レーダーサイトから消えたため、当直司令は墜落したと判断して中部航空方面隊司令部にスクランブル待機中のF-4EJファントムによる緊急発進を提案、19時01分、提案を了承した基地司令官の指示で、百里基地よりF-4戦闘機が発進した。

東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部 (Tokyo RCC)を開設し、123便の羽田への緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)し、東京救難調整本部は、防衛庁警察庁消防庁海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった[報告書 9]

一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた[別添 2]

上空から火災を確認

米軍C-130輸送機

19時15分頃、付近を航行していた米空軍C-130 輸送機が横田基地の指令で付近を捜索、現場付近の山中に大きな火災を発見した。C-130は墜落現場上空を旋回し、横田 TACAN(タカン)方位305度・距離34マイル (55 km)を航空自衛隊中央救難調整所に通報した。

19時21分頃、F-4戦闘機2機も墜落現場の火災を発見し、上空位置の横田TACAN方位300度・距離32マイル (51 km)を通報した[報告書 9][13]

「横田TACAN」とは、横田基地に設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などの電波を受信し、航空機が現在の方位と距離を機上搭載の距離測定装置で計測し計器に表示させる航法援助施設である。これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられていたが、この当時はまだGPSが実用化されておらず、正確な位置の計測は難しかった[注釈 19]

航空自衛隊救難隊の出動

航空自衛隊救難隊KV-107

19時54分、災害派遣要請がないまま発進した航空自衛隊百里基地救難隊KV-107ヘリコプターは、20時42分に現場上空に到着した。降下地点を探したが炎が激しく降下地点を特定することができず、パラシュート降下も今のように制御ができなかったため、いずれも二次災害の危険が高かったことから、救助活動に入れなかったという[15]

地上捜索と位置情報の混乱

各航空機の測位結果
航空機による墜落場所の特定図

地上からは、群馬長野埼玉の各県警が墜落現場の捜索にあたった。上空から米軍や航空自衛隊が山中の炎を確認していたが、墜落現場一帯は江戸時代は鷹狩のため一般の入山が禁じられていたとされる場所で、1963年(昭和38年)営林署が唐松の植林を行った以外は人の立ち入りの無い原生林であった。それに加え、レーダーやTACANの測位位置の誤差、事故当日は月齢25.1の闇夜であり、地上捜索による墜落現場の特定も困難を極めた[16][17]

20時21分、長野県警臼田警察署(現・佐久署南佐久庁舎)のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報[18]。21時39分、埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見し[19]、長野県警は12日深夜、墜落現場は群馬県側の山中であると発表した[注釈 20]

しかし、氏名不詳の110番通報「長野県北相木村ぶどう峠付近に墜落した」や、日本航空広報が12日22時に発表した「長野県南佐久郡御座山北斜面(墜落現場から北西10km)」、運輸省はレーダー消失地点の「北緯36度02分、東経138度41分(墜落現場から北約3.7 km)」の他に「御座山北斜面」など情報が錯綜し、複数の位置情報で地上の捜索は混乱した[20]

その結果、消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊など、地上からの捜索は13日の朝まで現場に到達することはできなかった。

解説書では、TACANの測位は乗務員の土地勘などでも精度が変わると指摘し、12日夜から13日朝までの各航空機の測位結果を表と地図で示した[解説 1]

海上では、事故当初ドアが壊れたとの情報があり、乗客が機外に吸い出された可能性も考えられたことから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った[報告書 9][21]

早朝からの事故機確認と救難活動

13日午前4時30分、航空自衛隊救難隊による墜落機体の再確認が行われ、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって、次々と墜落現場の状況が確認された。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した[22]。現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。

13日午前8時30分、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下、地上からは午前9時に陸上自衛隊第13普通科連隊が現地に到着するとともに第一空挺団(指揮官:岡部俊哉(第35代陸上幕僚長))員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された[23]

生存者の救出

墜落事故現場の状況
事故機の残骸

13日午前10時45分、長野県警の機動隊員が[注釈 21]スゲノ沢第3支流で尾根を300m滑り落ちた機体後部の残骸の中から生存者を発見した。生存者は4人で、発見の順番に非番の客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生であった[24]

最初に発見された非番の客室乗務員は、残骸に挟まれて胸から上が左にくの字になり、右手だけを出して手を振っていた。二番目の主婦は、客室乗務員の残骸を取り除いているうちに、数メートル上方に空洞があり、そこから見つかった。三番目の女子小学生の娘は、母親のすぐそばで下半身を残骸に挟まれて仰向けになっていた。四番目の女子中学生は、客室乗務員から沢寄り2メートルほどの場所から逆立ちしているような状態で見つかった[24]

救出された4人とも重傷を負っており、垂直差110メートル、水平差220メートル、平均斜度30度の急坂を、急ごしらえの担架でヘリコプターで引き上げ可能な尾根の上まで担ぎ上げられた。4人はホイスト降下していた前橋赤十字病院の医師と看護師から尾根で応急手当を受けた後、陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送し、4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて群馬県藤岡市内の病院に運ばれた。生存者発見からヘリの引き上げまで2時間を要した[報告書 9][25][26]

報告書によれば、4名の生存者以外は即死もしくは、それに近い状況だったとしているが[報告書 10][報告書 11]、生存者の12歳の女子中学生によれば、目が覚めたとき父と妹は生きていたという[27]。また、非番の客室乗務員によれば、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っており、救出が早ければ、さらに多くの人命が救えたのではないかという意見もある[28]

遺体収容、搬出作業

尾根に激突した機体前部の乗客乗員は、機体の破壊とともに尾根に投げ出され死亡し、五体あった遺体もあったが、多くの遺体は全身挫滅、全身挫折、内臓破裂による臓器脱出、全身の表皮剥脱など激しく損壊していた。また火災により焼損した遺体も多かった。

一方、尾根への激突を免れた機体後部は衝撃も少なく火災にも巻き込まれなかったため、スゲノ沢で発見された遺体は見た目には生存(気絶)しているのか死亡しているのか区別できないほど、ほぼ完全な状態で発見された。ここから4名の生存者が発見された事もあり、谷間に駆け付けた自衛隊員、警察官、上野村消防団員は慎重を期して一人ひとりの体を揺さぶったりを取るなどして生死を確認したが、4名の生存者以外はすでに全員が死亡していた。

群馬県警は遺体の収容先を当初予定していた上野村から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市で行うこととした。遺体搬出は陸路では無理と判断され、陸上自衛隊によるヘリポートを造成して14日から搬出作業を開始することとなった[報告書 12][29][30]

13日夜、空挺団派遣隊はヘリポート作りに着手した。尾根の南東の急斜面を掘削した。岩山のため作業は難航したものの夜半に目途が経ち、仮眠をとってから朝方作業を再開し、14日午前7時頃までにはHU-1Hが運用できるヘリポートが完成した。スゲノ沢からヘリポートまでの搬出路もつくった[31]

ただ、空挺団が作ったヘリポートだけでは輸送力が足りず、大型ヘリによる輸送を行える第2ヘリポートを作ることとなった。15日午前7時、第12師団施設大隊が建設を開始した。場所は第1ヘリポートから離れた尾根の先端の切り立った場所が選ばれた。大型ヘリが離発着するため荷重計算を慎重に行い、資材は切り出した唐松250本を使用して骨組みとし、その上から土のうを積んだ。16日15時、完成した[32]

検視、身元確認作業

「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑(藤岡公民館)

遺体の検視兼安置所は旧藤岡市民体育館とし、藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎を関係者の待機場所とした。藤岡市側のヘリコプター発着場所は、藤岡市立藤岡第一小学校・校庭とし、そこからパトカーや白バイの先導により霊柩車が藤岡市民体育館まで運んだ。

14日午前9時頃から、遺体の搬入が始まった。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部および東京歯科大学教授陣・法医学者・法歯学者・歯科医師看護婦日本赤十字社関係者などが、身元確認作業に従事した。

機体後部の遺体は着衣や所持品も損傷がほとんどなかったため遺体の識別・確認もスムーズに進んだが、激しく損傷した機体前部の遺体は腐敗の進行も早く、当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。

最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要した。最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に、墜落現場に近い群馬県上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。検視に利用された藤岡市市民体育館は、遺体の腐敗臭が抜けず取り壊された[注釈 22]

三国山脈(みくにさんみゃく)茂来山(もらいさん)御座山(おぐらさん)高天原山(たかまがはらやま)甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)小川山(おがわやま)金峰山(きんぷさん)秩父山地(ちちぶさんち)野辺山駅(のべやまえき)野辺山高原(のべやまこうげん)金ヶ岳(かながたけ)富士山(ふじさん)横岳(よこだけ)Okuchichibu Mountains from Mt.Yokodake 01-4.jpg
画像の詳細
八ヶ岳横岳より見た秩父山地と墜落地点

捜索・救難活動における問題点

自衛隊への派遣要請はなぜ遅れたのか

東京空港事務所長から航空自衛隊への災害派遣要請は、航空自衛隊からの再三の要請督促を受けた後の20時33分に行われた。19時01分の百里基地F4戦闘機緊急発進や、19時54分の百里救難隊による最初の救難捜索機 MU-2S の出動や救難ヘリ KV-107 の出動はいずれも要請前であった。

航空自衛隊への災害派遣要請が事故機の遭難から約1時間40分後と遅れて出された背景には、運輸省東京航空局東京空港事務所の「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」という幹部指示や、運輸省から「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)に電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜があったとされる[33]

また、陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が19時30分ごろから出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。陸上自衛隊への派遣要請は21時30分と遅れた理由は、陸上自衛隊に対しては航空自衛隊への要請が済んでいたため、要請の必要性を知らなかったためとされる[34]

自衛隊車両に通行料請求

事故直後、自衛隊の部隊が非常呼集発令で出動し、高速道路で移動したところ料金所で通行料を請求され、作業服で出動したため財布を携行しておらず、隊員が少しずつ金を出し合って支払ったという[35] [36]

事故前より災害派遣時は証明書の発行により無料通行できることとなっていたが省庁間で調整を行い、1986(昭和61年)年9月1日、防衛庁陸上幕僚監部は自衛隊車両は災害派遣時には車両への表示でも無料で通行できる通達を出した[37]

放射性物質の問題

事故機には、貨物として医療用ラジオアイソトープ放射性同位体)92個積載されていた。これらは8月14日から16日の間に64.8%が回収された[報告書 13]

また、機体には振動を防ぐおもりとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐ現場へ入らずに別命があるまで待機するよう指示されたという[38]

元アメリカ空軍中尉の手記

UH-1H

元アメリカ空軍中尉マイケル・アントヌッチの手記が1995年8月20日付「The Sacramento Bee」に掲載され[39]、8月27日「Pacific Stars and Stripes」に転載された[40][41]。この手記に基づいて日本メディアは自衛隊が米軍の支援を断ったとして、自衛隊批判を展開した[42][注釈 23]

手記によれば、C-130の乗員だったアントヌッチは、沖縄から横田基地への帰還途中、横田管制からの要請により日航機のレーダー消失地点に向かった。現場山中で火災を発見し横田管制に報告した。横田管制より厚木基地からアメリカ海兵隊〔ママ〕のヘリ (UH-1)が向かっていると聞き、20時50分までにヘリのライトを視認できた。21時05分、海兵隊からC-130に煙と炎がひどくてとても着陸できないと連絡があった。少し移動して乗員2人を降ろす予定だった。海兵隊からC-130に対し司令部に連絡するよう依頼され、アントヌッチが連絡したところ、将校より中止を命じられ帰投を開始した。帰投準備中の21時20分、最初の日本の飛行機が現れた。C-130の乗員は横田に到着後、第861戦術飛行隊の副司令より123便関係のことについて箝口令をかれたという[44]。Pacific Stars and Stripsが在日米軍 (USFJ)に取材したところ、記録がないとのことであった[45]

これに対し、元防衛庁航空幕僚監部広報室長佐藤守は、座間のUH-1が現場に向かったのは事実だが、空自が救助を開始するということになり方向転換したのであって、UH-1の搭乗員がまさに御巣鷹の尾根に降りようとしていたのではない。また、「(米軍からあったのは)現地からけが人を運ぶためのヘリコプターと医療班提供の申し出であって、米軍が当日横田や座間に保有したヘリにはホイスト(吊り上げ機構)や大型サーチライトは装備されておらず、航空機材も空自が保有していないような“特殊なヘリ”ではなかったのである」と反論している[46][47][48][注釈 24]

元航空自衛隊中部航空方面隊司令官松永貞昭は、「米軍の日本側に対する申し出は、『一般的な支援提供が可能な状態にあり、医療班を集合させ、ヘリコプター1機を待機させている』という連絡が、20時30分頃、入間の指揮所にあっただけ。日本側は『まだ探索中であったために、そのまま待機してください』とお願いしました……これが経過の全容です」と応えている[49]

また、元群馬県警本部長河村一男は、そもそも民間航空機遭難の際、米軍に対して救難要請をするのは救難調整本部 (RCC)が行うと決められており、防衛庁自衛隊は(派遣を要請するのも断るのも)その立場にないこと、アントヌッチの手記ではC-130が現場上空に滞在した2時間、日本の航空機を全く見なかったとしているが、19時21分にF-4、20時42分にはKV-107が、21時06分には朝日新聞社ヘリコプターが現場上空に到着していると指摘している。河村は、米軍のヘリの派遣や撤収の動きがRCCの要請によるものでないため、在日米軍は対外的に明らかにしたくないのではないか、と推測している[43]

事故調査

航空事故調査委員会(委員長:事故発生時の八田桂三は病気のため途中で退任、後任は武田峻[50][51])は、事故発生後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカNTSBからジョージ・サイドレン、ロン・シュリードらが参加した[報告書 14][52][注釈 25]

生存者の供述

8月12日20時過ぎから、事故調事務局は夏休みで直ぐに出られない二人を除く調査官全員に臨時招集をかけた。夜に開かれた第204回航空事故調査委員会で、本事故の調査官16名を指名した。墜落現場が長野か群馬で錯綜する中、防衛庁から出向の調査官の計らいで入間基地からヘリコプターで現地に入れるように手配してもらい、どこに調査官を派遣するか図上演習を行ったが「もっと場所がはっきりしてからの方が良い」との結論になり、結局朝まで東京で待機することとなった[53]

13日5時、東京を出発した調査団は8時過ぎ入間基地からヘリコプターで現場上空を確認した後、上野村の上野小学校校庭に着陸し調査活動を開始した。13日15時過ぎ、調査官は収容先の病院で生存者である非番の女性客室乗務員に事情聴取を行った。彼女は「ボーンという音がして急減圧が起き、耳が少し痛くなりました。ドアは飛ばなかったけれど、後ろの天井が落ちました」と供述した。夜に録音を聞いたベテラン調査官の中から圧力隔壁の破損を考え始めた者が出始めたという。13日は昼から運輸大臣が視察に来ることになり準備に追われ、往復5時間かかる事故現場に行くことは断念した[54]

ブラックボックスの捜索

14日5時、調査団は標高1,565メートルの御巣鷹の尾根に向けて登山を開始した。4キロメートル近く斜面を登り、2時間以上かけて漸くスゲノ沢第三支流の水平尾翼の残骸に到着した[55]

この日の事故調査団の最重要課題は、デジタル式飛行記録装置 (DFDR)と、操縦室音声記録装置 (CVR)、所謂ブラックボックスを探し出すことだった。また同時に、水平尾翼の昇降舵を確認する必要があった。昇降舵にウエイトバランスとして劣化ウランが取り付けられている為で[注釈 26]、調査官は昇降舵の残骸に装備分の数が揃っているか慎重に確かめた[55]

14時09分、残骸の約1メートル下からCVRが、20分後ほぼ同じ場所でDFDRも見つかった。DFDRとCVRはその日のうちに山からヘリコプターで下ろされ、パトカーで東京に送られた[55]

相模湾で機体尾部が見つかる

回収された事故機の尾翼の一部

8月13日18時10分、相模湾公試中の護衛艦まつゆきが機体尾部の一部を発見、19時までに回収した[注釈 27][報告書 15][57]

8月14日に来日したNTSB調査団は15日、相模湾で回収された破片を視察した。調査団は、リベット孔から油圧作動油が吹き出したような跡や、アルミ合金製の外板が外側に異常なほど膨らんでいたことに注目した。これらの状況は、垂直尾翼に高圧の空気が流れ込み、破裂させたことを示していた[58]

高圧の空気を生み出す最も高い可能性が、圧力隔壁の破損によって客室内の与圧空気が垂直尾翼に流れ込んだことだと考えられた。ただ、この時点では圧力隔壁の修理ミスは見つかっておらず、仮説の域を出ていなかった[58]

15日夜、NTSB調査団は日本側に「BS2200[注釈 28]から後ろの部分をきちんと保存し、よく調べて欲しい」「隔壁や後部トイレ付近にコロージョン(腐食)がないか、硝煙反応の有無も調べて欲しい」と伝えた[58]

修理ミス発見

8月16日、NTSB調査団は初めて現場入りしたものの、未だ遺体収容活動が行われている状態で、圧力隔壁の調査はできずに終了した。その後台風が接近して悪天候が続き、NTSB調査団が現地入りするのは22日まで延期されることになった[58][注釈 29]

8月22日、NTSB調査団は2回目の現地調査を行った。後部圧力隔壁に絞った調査で、実物大の隔壁図面を広げて調べているうちに、修理された隔壁の一部に一列しかリベットが効いていない箇所があることを発見した[60][注釈 30]。米国調査団のひとり、アメリカ連邦航空局 (FAA)技術アドバイザーのトム・スイフトは、修理ミスから金属疲労破壊が発生したと推定した[61]

8月24日、3回目の調査に入ったNTSB調査団は、隔壁破断面のレプリカを採取した[注釈 31]。ワシントンのNTSB本部にレプリカを送って検査したところ、ストライエーションと呼ばれる金属疲労痕が見つかった[61][注釈 32]

8月29日、スイフトは八田委員長に「しりもち事故の修理ミスによって接続強度が大幅に下がり、理論計算上は修理後約1万4千回の飛行で圧力隔壁が破壊する可能性がある。」とレポートを示した[62]

日本の調査団は9月5、7、10日の3日間、NTSB調査団とともに修理ミスや金属疲労痕の調査を行った[63]

ボーイングが修理ミスを認める

9月6日、ボーイングによる修理ミスが米国側の調査で判明し、それが原因で圧力隔壁が壊れたとニューヨークタイムスが伝えた[64][65][注釈 33]

ボーイングは同日声明を発表し、「1978年のしりもち事故の修理で、隔壁継ぎ目全体の17%に不備があった」ことを認めた[67][68]

海底捜索

1985年(昭和60年)11月1日から11月20日まで海上保安庁の測量船「海洋」と、海洋科学技術センターの海中作業実験船「かいよう」による残骸の海底捜索を行った。捜索にはサイドスキャンソナーと呼ばれる音波探知機と曳航式の深海カメラが使われた。先ず「海洋」が水深200メートルより浅い海域を、「かいよう」は水深200メートル以上の海域を捜索した。捜索で17の不自然物体を発見したが、残骸は発見できなかった[69]

残骸を発見できずに終了したことに対し、徹底捜索すべきとの声が多くあがった。事故調側は、残骸は多く回収できた方が良いのは間違いないが、補助動力装置取り付け場所付近やダクトには焦げた跡や補助動力装置の部品が刺さっているなど爆発の痕跡は無く、費用対効果の面からも再調査の必要性は低いとした[70][注釈 34]

1986年(昭和61年)4月25日に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会で公述した組合関係者は、第一現場は相模湾上空だったことを理由に徹底的な海底捜索を求めた[71]

迷走中も破片を落としていた

1985年12月ごろより、東京都西多摩郡奥多摩町日原など相模湾と墜落現場以外の場所でも機体の破片が発見された。また、奥多摩町で一般人が撮影した写真によって、JAL123便が「垂直尾翼の大部分を失った状態」で飛行していたことが明らかとなった[報告書 16]

コンピュータ解析と破壊実験

圧力隔壁や垂直尾翼の破壊過程を検証するため、コンピュータ解析と模型実験を柱に行うこととした。事故調内部からも「せめて、圧力隔壁だけでも実物大の破壊実験をやらなければ、世間を納得させられないのではないか」という意見もあったが、事故から2年以内に報告書を公表できないこと、費用対効果に見合わないことなどから断念された[72]

コンピュータ解析は有限要素法により強度計算を行うこととし、「Nastran[注釈 35]」を使用した。三菱重工名古屋航空機製作所のコンピュータを借り、詳細な設計データはNTSBを通じてボーイングに提供を要請した。ボーイングは協力的でほとんどのデータを提供したが、その数は1万枚にも及んだ[72]

圧力隔壁の有限要素法による強度計算は、圧力隔壁に格子点をつけ、格子点を囲った区画(メッシュ)ごとに材料特性、強度などのデータを入力していく。客室の空気圧が上昇すると機体がわずかに膨らみ、圧力隔壁もゆがみが発生するため、機体部分も有限要素法にかけて計算を行った。メッシュを細かくすれば精度が上がるが、作業量も増えるため格子点の設定は試行錯誤したという[73]

コンピュータ解析は、圧力隔壁の他、垂直尾翼、APU防火壁付近についても行った。その結果、圧力隔壁から漏れ出た高圧の空気が垂直尾翼に瞬時に充満し、垂直尾翼の背骨にあたる「トルクボックス」の外板が剥がれたのが垂直尾翼の破壊の始まりだったことが判明した[74][付録 2][付録 3][付録 4]

「トルクボックス」(正しくはアフト・トルクボックス)とは垂直尾翼の構造物で、四角く細長い筒である。尾翼はボックス・ビーム構造 (box beam structure)で作られていて、桁 (spar)、小骨 (rib)、縦通材 (stringer)、外板 (skin)で構成される。尾翼は小骨が積み重なって、縦通材で外板を包み、桁でつなぐトルクボックスを構成することで翼に加わる捩れを分担する[75]

1986(昭和61年)6月25日、航空宇宙研究所調布飛行場分室において、コンピュータ解析結果の検証のため、トルクボックスを対象とした破壊実験を行った。破壊実験には事故調の調査官の他、立会人としてアメリカ連邦航空局の駐在官らも参加した[74]

実験は、トルクボックスを最上端と真ん中からやや下に当たる部分の二つを用意し、3台のコンプレッサーで空気を送り込むことにより行われた。最初にリベットが飛び始めたのは最上部のトルクボックスで、内圧を3.88psiまで上げた時だった。4.5psiまで上げるとコンプレッサーで空気を送れなくなるほど破壊された。下部のトルクボックスは内圧が5.5psiになるまで破壊が始まらないことが実験で確認された[74]

一方、コンピュータ解析でAPU防火壁付近は2.2psi程度で破壊が始まることがわかったが、するとAPUの脱落した部分から空気が漏れて、垂直尾翼を破壊する4.5psi以上の内圧が残されていたのかとの疑問が出てくる。この問題は、空気力学の専門家が機体全体の空気の流れを解析することにより検証することとした。機体を8つに区分けし、圧力隔壁の破壊の開口部により、空気の流れがどのように変化するかを計算した。計算の結果、圧力隔壁の開口部の大きさにより、圧力隔壁破壊後0.04~0.09秒後でAPU防火壁が壊れ始め、垂直尾翼が壊れ始めるのはその0.2秒後と判明した。事故機は圧力隔壁が壊れてからわずか0.3秒ほどで、APU、垂直尾翼が次々と破壊されていったことがわかった[76][付録 5]

この計算結果は、デジタルフライトデータレコーダー(DFDR)では異常発生時、機体が11トンの力で前方に押し出された後、下に押し下げられているが、計算により導き出された破壊順序と極めてよく一致した[77]

生還可能性の検証

事故直後より123便が右ではなく左旋回を選択して海へ着水していれば生還者をもっと増やすことが出来たのではないか、という議論があった。事故機は羽田に戻る意向を示しながら墜落してしまったが、生還することは可能であったかどうか全日空が所有するシミュレータを使って、1986年(昭和61年)3月4日から8回に渡って検証した[78]

シミュレータには123便の事故のような異常事態はプログラムされておらず、ボーイングから空力関係のデータを取り寄せ、全日空や三菱重工などの技術者の助けを借り、プログラムを変更した。操縦は全日空と運輸省航空局から、いずれも経験豊富な教官クラスの機長、副操縦士、航空機関士を4チーム選抜した[78]

本試験の前に予備試験として、クルーには異常の内容を知らせず、突然操縦舵のいずれかを操作不能にして何が起きたかを答えさせた。エレベータ(昇降舵)については、どのチームも1分以内に異常に気づいたが、エルロン(補助翼)では遅いチームで4分以上、ラダー(方向舵)になると何が起きたか分からないチームもあった[78][注釈 36]

実際の生還可能性の試験は、自動操縦装置とエンジン出力自動制御装置の故障という一番軽いものから、事故機で起こった全操縦舵故障という一番過酷なものまで5種類用意した。故障の内容を一切知らせず試験させたところ、いずれのチームも利かない操縦桿を必死に操作し続け、墜落させていった[78]

その後、最適な機体制御方法を学んだ後にシミュレーションを繰り返した1チームは、対気速度200ノット (370 km/h)以下で着水させるところまで機体を制御できるようになった[注釈 37]。ダッチロールはエンジン出力調整で緩和し、高度1,100フィート (340 m)に下がるころにフラップを操作する。フゴイド運動は内側エンジンの出力操作やウィングギア(翼脚)を下げることによって抑えた[78]

■最適操作の手順
  1. 直ちに全エンジンをアイドルに絞る
  2. 対気速度はほぼ一定のまま降下を開始
  3. 必要ならば内側エンジンのみを用いてフゴイドを抑制
  4. なるべく左右のエンジンの出力に差が生じないようにする
  5. フゴイド減衰を強めるため、ウィングギアのみ下げる
  6. 遅くとも1,000フィート (300 m)までに着水形態を作り上げるため、早めにオルタネートでFLP(フラップ)操作
  7. 低高度では頭上げモーメントを作るため外側 FLPを10ユニット、内側 FLPを20~25ユニットに
  8. クルーはスロットル、FLPの操作のみに全力をそそぐ
— 事故調査報告書に基づき[付録 6]杉江弘が作成[80]

報告書では、「接水時の対気速度を200ノット (370 km/h)以下に下げることは不可能と考えられる。沈下率・姿勢等も大きくばらつくため、生還可能性はほとんど期待できない」と結論づけ、建議で「異常な事態における乗組員の対応能力を高めるための方策を検討すること」と示した[付録 7][78]

疲労亀裂の発見確率

しりもち事故の修理ミスによる圧力隔壁の疲労亀裂破壊が事故原因であることが明らかとなったが、事故機は修理後「C整備[注釈 38]」を7度受けていた。C整備には後部胴体内から圧力隔壁を目視点検する項目が含まれており、事故の直近では1984年(昭和59年)11月20日から12月5日まで行われていた。そこで、整備員がどの程度の確率で疲労亀裂を発見出来るかを算出した[81]

ボーイング747の整備方式は「コンディション・モニタリング方式」と呼ばれるもので、運行されている同一機種の故障データを監視しながら対策をとるものであった。この整備方式を設計面での土台となったものが、「フェイルセーフ設計」であり、不具合が発生しても多重防護により他の部分に不具合が及ばない設計がなされていた。圧力隔壁も複数の区画で破壊が及ばないように設計されていたが、本事故は「マルチサイトクラック」と呼ばれる複数の区画で破壊が起こっており、設計思想にも及ぶ重大な問題となっていた[82]

亀裂の発見確率こそ整備方式を決める前提となるものだが、ボーイング747のどの機種も単一の亀裂しか想定しておらず、マルチサイトクラックを想定していなかった。そこで事故調査では単一亀裂の発見確率から、マルチサイトクラックの発見確率を導くこととした[83]

目視点検による一つの疲労亀裂の発見確率は、次の式により算出された。

  •  :可視亀裂長さ
  •  :最小発見可能亀裂長さ
  • ,  :係数

一番激しかった亀裂は三か所でリベット孔を繋ぐまで進行していたと推定され、その長さは1センチメートル程度、発見確率は米空軍の技術資料などから10パーセントと計算された[84]

また、多数の疲労亀裂のうちの一つを発見する確率は、次の式により算出された。

  •  :多くのの掛算

計算の結果、亀裂の発見確率は「14~60パーセント」と幅の大きい玉虫色の結論となった。ただしこの研究により目視点検で亀裂を発見するデータが無いことが判明し、建議で「目視点検による亀裂の発見に関し検討すること」を示した[付録 8][84]

事故原因

1987年昭和62年)6月15日事故調査報告書は第286回事故調査委員会で議決され、本事故の原因は次のように結論された。

本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。

飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。

疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される[報告書 17][注釈 39]

勧告および建議

1987年(昭和62年)6月19日、事故調査委員会は事故調査報告書の公表とともに、運輸大臣に対し本事故における次の勧告および建議を行った。

勧告

  1. 航空事故による損傷の復旧修理等において、航空機の主要構造部材の変更等大規模な修理が当該航空機の製造工場以外の場所で実施される場合には、修理を行う者に対して、修理作業の計画及び作業管理を、状況に応じ特に慎重に行うよう、指導の徹底を図ること。
  2. 航空事故による損傷の復旧修理等において、航空機の主要構造部材の変更等大規模な修理が行われた場合には、航空機の使用者に対して、必要に応じ、その部位について特別の点検項目を設け継続監視するよう、指導の徹底を図ること。
  3. 今回の事故では、後部圧力隔壁の損壊により流出した与圧空気によって、尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が連鎖的に発生したが、このような事態の再発防止を図るため、大型機の後部圧力隔壁等の与圧構造部位の損壊後における周辺構造・機能システム等のフェール・セーフ性に関する規定を、耐空性基準に追加することについて検討すること[85]

建議

  1. 緊急又は異常な事態における乗組員の対応能力を高めるための方策を検討すること。
    特殊な緊急又は異常な事態あるいは同時に複数の緊急又は異常な事態が生じる場合においては、今回のJA8119の事故におけるように、乗組員が事態の内容を十分には把握できず、また、どのように対応するかの判断を下すのが困難なことが考えられる。
    このような場合における乗組員の対応能力を高めるための方策について、検討する必要がある。
  2. 航空機の整備技術の向上に資するため、目視点検による亀裂の発見に関し検討すること。
    航空機の構造に生じた亀裂の発見は、目視点検により行われる場合が多いが、目視点検によってどの程度の亀裂を発見できるかについては、現在十分な資料がない状況である。
    我が国で運航している輸送機について、目視点検による亀裂の発見に関する資料の収集・分析を行い、航空機の整備技術の向上に資する必要がある[86]

事故調査をめぐる疑問点

事故調査報告書の示す事故原因を巡って、遺族や一般から多くの疑問や異説が示されてきた。特に遺族からの疑問を8・12連絡会(遺族会)がまとめて、2010年(平成22年)10月に運輸安全委員会に提出したことがきっかけとして解説書をつくることとなった。運輸安全委員会と本江彰、小林忍らが解説を作成し、8・12連絡会が遺族の意見をまとめるなどやり取りを重ね、2011年(平成23年)7月公表されたものである[4][87]

「急減圧」は本当にあったのか

報告書では、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が一気に流れ出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定している。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆している[付録 9]

これに対し、事故機は事故直後から18分間高度20,000フィート (6,100 m)以上を維持し、操縦室では酸素マスクを使用した形跡がなかった。生存者によると、急減圧時に発生する室温の低下や強風が発生しなかったと証言していることから、事故機に急減圧はなかったとし、圧力隔壁の破壊が垂直尾翼を破壊した説は破綻をしているとの主張がある[88]

この主張に対し解説書は、2009年(平成21年)7月13日に急減圧事故を起こしたアメリカのサウスウエスト航空2294便英語版の事例を示し、搭乗していた非番の機長2名の証言を紹介、

私は、すぐに急減圧を知覚したが、耳の苦痛がほとんどないのに驚いた。……ハリウッド映画と違い、何も飛ばされず、誰も穴に吸い込まれることはなかった。座席に置かれた書類もそのままだった。客室がやや冷え、薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した[解説 3]

という。実際に急減圧が発生した際の123便機内の状況は、

  • 客席で発生した風は、最大でも10m/s程度[注釈 40]で7秒間ほどであった[解説 4]
  • 断熱膨張によって室温がマイナス40度まで下がっても、エアコンによって室温は3分程度で回復する[注釈 41]。また、客室内の内壁などは冷えていないため、さほど気温が下がったとは感じられないと考えられる。

よって、急減圧を感じなかったのではないか、としている[解説 5]

運航乗務員が酸素マスクを使用しなかったのは、事故機に生じた程度の減圧に対処するよりも操縦操作を優先したと考えられる、としている[解説 6]

さらに、

  • 機内で霧が発生した、という生存者の証言があること。
  • 現場で発見された水平尾翼の内側から、圧力隔壁内側にあった断熱材の破片が大量に発見されたこと。
  • 垂直尾翼の外側で見つかった多くの黒い筋状の跡が油圧作動油と同じ成分であったこと。

の証拠が急減圧と圧力隔壁破壊があったことを証明している、とした[解説 4]

フラッター現象や自衛隊標的機が事故原因との主張に対して

DFDR拡大図(一部)
(18:24′31″~18:24′51″)

報告書の「圧力隔壁破壊が垂直尾翼の破壊をもたらした」とする結論に対して、「機体構造の不良によるフラッター(異常振動)による垂直尾翼の損壊等が事故の原因ではないか」という主張[89] や、「自衛隊が所有する標的機が衝突して墜落した」という主張[90][91][92] がある。

これらの主張に対し報告書や解説書では、フラッター現象は機体強度が弱い場合に発生するが、ボーイング747は構造・機能が正常な場合はもとより、油圧が低下した場合も発生しないことが開発時に実施された試験で確認されている、としている[報告書 18][解説 7]

また、自衛隊の標的機が衝突したという主張に対しては、根拠になった尾翼の残骸付近の赤い物体は、主翼の一部であることが確認されており[93]、機体残骸に火薬や爆発物等の残留物は検出されず[報告書 19]垂直尾翼の破壊が内部から外部に向かっていること、油圧作動油が垂直尾翼から噴き出している現象を説明できないのではないか、としている[解説 7]

報告書は緊急事態発生時(18時24分31秒~51秒)のデジタルフライトデータレコーダー(DFDR)をグラフ化しているが[付録 10]、元日本航空機長杉江弘は次のように解説している。

自衛隊の標的機が垂直尾翼に衝突したとすれば、機首は標的機の飛んできた方向に振れるはずである。しかし、機首方位 (HDG)は約5秒間微動だにせず、10秒後もほぼ250度を維持していた。横方向加速度 (LATG)は最大でも0.1Gにも達しておらず、垂直尾翼に横から力が加わったとは到底考えられない[注釈 42]。前後方向加速度 (LNGG)が検出されているのは、補助動力装置(APU)が破壊され噴出した空気の反作用と考えるのが自然であるとした[94]

ボイスレコーダー音声の流出と調査資料の廃棄

2000年(平成12年)7月ごろには、事故機の操縦室音声記録装置 (CVR)を再録したカセットテープマスメディアに流出した。8月にテレビ各局で相次いで放送され、墜落事故から15年を経て一般人が墜落直前のコックピットの様子を初めて知ることとなった[注釈 43]

2000年(平成12年)8月、事故調査委員会は保管期間の切れた一部の事故調査資料を、すでに廃棄していたことが毎日新聞により報道された。再調査を求める遺族や航空関係者からは、運輸省の対応を批判する声が上がった[95][注釈 44]

刑事事件捜査

1985年(昭和60年)9月、群馬県警察は50人態勢の捜査本部を設置し、捜査を開始した。

県警捜査員はボーイングの修理担当者から直接事情を聴くため渡米したが、ボーイング側は事情聴取に応じなかった[注釈 45]

1988年(昭和63年)12月1日、県警はボーイングの修理担当者を特定できないまま、ボーイング4人、日本航空12人、運輸省4人の計20人を業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検した。

1989年平成元年)11月23日、検察は全員を嫌疑不十分として不起訴処分とし、捜査本部は解散した。

2016年(平成28年)8月、アメリカ合衆国司法省はボーイングに対し、日本の検察の捜査に協力するよう促していたことが分かった。当時、主任検事を務めたリンダ・キャンドラー弁護士がメディアの取材に対し初めて証言し、「アメリカ政府が、中核産業のボーイングを擁護したとの見方も根強いが、これを明確に否定した」と共同通信が伝えた[96][97]

乗客

国籍別の乗客乗員数[報告書 20]
国籍 乗客 乗員
日本の旗 日本 488 15 503
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 6 0 6
香港の旗 イギリス領香港 4 0 4
インドの旗 インド 3 0 3
大韓民国の旗 韓国 3 0 3
イタリアの旗 イタリア 2 0 2
中華人民共和国の旗 中国 1 0 1
西ドイツの旗 西ドイツ 1 0 1
イギリスの旗 イギリス 1 0 1
合計 509 15 524
123便の座席表。桃色が生存者の座席。機内はほぼ満席であったが、乗り遅れなどで僅かに空席があった。

事故が発生した日は夏休み中で「お盆の入り」の前日であったため、日本航空や全日本空輸東亜国内航空の各便はビジネス客や帰省客の他、当時開催されていたつくば科学万博東京ディズニーランドの観光客などで、ほぼ満席の状態だった。休暇中の全日空社員も自社便が利用できず、数名が当便に搭乗していた[98]

著名人

搭乗を回避していた著名人

追悼施設

昇魂之碑(墜落現場)

墜落現場となった「御巣鷹の尾根」には「昇魂之碑」(慰霊碑)が建立されている。また、身元不明の遺骨は御巣鷹の尾根より10キロメートル離れた「慰霊の園」に埋葬されている。

事故後

航空輸送量の減少

本事故が起きた1985年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した。これに対し新幹線旅客は、輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し、同9.8%増となった[107]

事故後のJAL

経営改革

事故当時、JALはそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する世論からの批判を受けて、日本国政府主導により、抜本的な体制の刷新が行われた[108]

1985年(昭和60年)12月、当時カネボウの会長だった伊藤淳二がJAL副会長に就任(後に会長へ昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題親方日の丸体質の解決に取り組むとともに、「絶対安全の確立」を新たな経営方針の一つとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた[109]

欠番

羽田 - 伊丹線往路「JAL123便 (JL123)」という便名は、1985年(昭和60年)9月1日のダイヤ以降に欠番となったが、後にこの便名と対となる復路「JAL122便 (JL122)」も欠番となった。

テレビ番組の終了

事故をきっかけとしてJALが協賛していたテレビ番組『アップダウンクイズ』(毎日放送制作、ロート製薬提供)が3週間放送休止になり[注釈 48]、JALの協賛が終了、ほどなくして番組自体も終了した。事故の前までは、番組開始前のカウキャッチャーとして19時の時報とともにJALグループのCMジャルパックなど)が流れ、その後にロート製薬のオープニングキャッチに入っていたが、放送再開後には時報直後にロートのオープニングが流れるようになった。

これとは別に毎日放送では、1985年7月下旬から平日帯の17時台に、JALが舞台かつ撮影の全面協力・スポンサーだった『スチュワーデス物語』の再放送が行われていたが、再放送途中に当事故が発生したため、事故翌日(8月13日)に放送予定だった最終回を残して放送打ち切りとなった。

747SRの退役

スペースシャトル輸送機
(N911NA、元JA8117)

747SRは、JALがローンチカスタマーであったが、事故を受けて同型機は747-400Dの導入に合わせ、1988年から1994年にかけて全て売却された。

事故機JA8119と同時期に導入されたJA8117は、アメリカ航空宇宙局 (NASA)が、同時期に発生したスペースシャトルチャレンジャー」の爆発事故を受けて、シャトル輸送機の改造ベースとして購入。N911NAとして、1990年より2012年2月8日の退役まで活躍した。NASAは受領の際、機体の整備技術に敬意を表し、JALの整備部に表彰状を贈っている[110]

JA8118は、ボーイング金属疲労試験機として買い戻した。現在、2階建部分の胴体の一部を輪切りにし、ブリティッシュ・エアウェイズ塗装に塗り直され、ロンドン英国国立科学産業博物館で展示されている。

安全啓発センターの設置

2006年平成18年)4月24日東京国際空港整備地区に『日本航空安全啓発センター』が開設された[111]

事故機の残骸は、警察や検察庁の事故検証のあと、同社の新東京国際空港にある格納庫内に保存されていた。破棄が検討されたこともあったが、8・12連絡会がJALに請願した結果、保存されることとなった。

事故前のJAL社内を知らない社員が9割以上になったことを受け、2012年(平成24年)以降は風化防止のため、JALグループの全社員35,000人に対し、同センターの見学を義務化している。2013年(平成25年)9月30日に一旦閉館後、同年12月10日より、新整備地区にあるJALメインテナンスセンター1内に移転、リニューアルオープンした。JAL社員・関連会社向けの研修施設であるが、一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。

遺族会

本事故の犠牲者の遺族は、1985年(昭和60年)12月に遺族会「8・12連絡会」を結成した[112]。連絡会は、事故原因の究明や航空安全の推進について、JALやボーイングなどの事故関係者や、社会全般に訴えることを活動目的の一つとしており、会の内部に技術部会を置いて、航空安全に関する独自の研究活動を行った。

この技術部会は、後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や、墜落時の衝撃を和らげる座席の開発提言などの活動を続け、2009年(平成21年)3月には、国際的な航空安全に貢献したとして、全米航空惨事被災者同盟 (NADA)の最高賞「航空安全賞」を受賞した[113]

スポーツ界への影響

プロ野球界では、阪神タイガース社長の中埜肇が当事故で犠牲になったことを受けて、阪神のみならず、他のほとんどのプロ野球球団がJALとの契約を打ち切り、旅客機で移動する場合は全日本空輸を利用するようになった。その場合でも、複数の旅客便に分散して搭乗したり、国内移動の場合は、極力新幹線などの鉄道を利用するようになった。

報道

時事通信
19時13分「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」と、ニュース速報を配信した[114][115][116]
NHK
NHK総合テレビジョンは19時26分、19時の定時ニュースの終了直前に短く第一報を伝えた。19時30分から『NHK特集 人間のこえ 日米独ソ兵士たちの遺稿』が始まるが、番組中にニュース速報があり、「羽田発大阪行き日航機 レーダーから消える 日航機には乗客497人が乗っている 運輸省に入った連絡では日航機から 緊急事態が起きたとつたえてきた」(原文)という内容が放送された。その後、19時50分に同番組を打ち切り、報道特別番組を終夜放送した。キャスターは木村太郎ら。
翌13日にも朝から通常番組を休止し、臨時ニュースを継続した。事故関連ニュースはラジオ第2放送でも続けられた。
日本テレビ (NNN)
19時30分ごろ、『大きなお世話だ!』の冒頭にてニュース速報(テロップ)で第一報を伝えたのち、20時からの『ザ・トップテン』の放送中にアナウンサーの小林完吾が随時最新情報を伝えた。20時55分からの『NNNニューススポット』、22時からの『やす・きよのスター爆笑Q&A』を休止して『NNN報道スペシャル』で続報を伝え、23時の『NNNきょうの出来事』以降、事故関連ニュースを終夜放送した。
翌13日朝にも『ルンルンあさ6生情報』以降、特別編成で夕方まで詳報した。
テレビ朝日 (ANN)
19時30分ごろ、『月曜スペシャル90』の冒頭にてニュース速報(テロップ)で第一報を伝えたあと、番組を中断して『ANNニュース速報』をニュースデスクから伝えた。20時55分の定時ニュースに続き、21時からの『月曜ワイド劇場』を休止して『ANN報道特別番組』を放送した。23時から『ANNニュースファイナル』を30分拡大し、以降終夜放送で詳報した。
翌13日にも『おはようテレビ朝日』以降、『モーニングショー』などで報道特番、もしくは準ずる態勢で夕方まで詳報した。
TBS (JNN)
19時30分ごろ、『クイズ100人に聞きました』放送中にニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。20時54分からの『JNNフラッシュニュース』は21時30分まで延長し、21時32分から『月曜ロードショー』での映画『東京裁判』の放送中にもテロップ速報を随時挿入した。
映画終了後、翌13日0時02分から『JNNニュースデスク』は内容を変更し、1時30分まで延長。以後6時30分まで関連ニュースを終夜放送で伝え、6時30分からの『JNNおはようニュース&スポーツ』以降も、報道特番またはそれに準ずる態勢で夕方まで詳報した。
フジテレビ (FNN)
19時30分すぎ、『月曜ドラマランド』開始直後のニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。その後21時台の『夜はタマたマ男だけ!!』まではテロップ速報のみで対応したが、22時からの『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』を休止して『FNN報道特別番組』を開始し、その後はCM全面カットで約10時間詳報した。
13日6時30分『FNNモーニングワイド』以降、報道特番またはそれに準ずる態勢で詳報した。
13日11時30分『FNNニュースレポート11:30』で、墜落現場に到着した中継スタッフから生存者発見の一報を受け、生存者救出映像を、御巣鷹の尾根現場から唯一生放送し、独占スクープとなった[117]
正午からの『笑っていいとも!』は、森田一義と報道センターとの掛け合いで、12時3分ごろから12時30分すぎに一時中断し、生存者救出の生放送を中継した[注釈 49]。また、『ライオンのいただきます』以降の番組を休止して、夕方まで報道特番もしくは準ずる態勢で詳報した。
毎日放送(MBS テレビラジオ
当日22時からのラジオ番組『MBSヤングタウン』は内容のほとんどを関連ニュースに変更し、ニュース以外は音楽を流した[注釈 50]。テレビではキー局TBSとほぼ同一内容の特番体制で詳報した。
ニッポン放送NRN・AMラジオ)
通常放送の生番組(『ヤングパラダイス』など)の中で随時速報した。
13日午前1時からの『中島みゆきのオールナイトニッポン』は休止となり、その日の2部を担当していたアナウンサーの上柳昌彦が午前5時までの4時間、全国ネットで詳報した。
新聞各紙
墜落地点を特定できないまま朝刊の印刷時間となったため、新聞各紙の見出しは「長野・群馬県境」と曖昧なものとなった[118][119]
上毛新聞
地元群馬県の上毛新聞社は、8月14日に御巣鷹の尾根に墜落した事故機を、世界で初めてカラー写真で一面トップ掲載した。
写真週刊誌
最初に現場へ到着したカメラマンは、『FLASH』(光文社)が専属契約をしていた大学生アルバイトだった。カメラマンらの撮影した、木の枝にぶら下がった乗客の遺体を含む現場写真の多くが、『FOCUS』(新潮社、休刊)や『Emma』(文藝春秋、休刊)、『FRIDAY』(講談社)などの写真週刊誌に無修正で掲載された。
テレビCM
日本航空全日空などの各航空会社のCMの自粛および、全てのCMが自粛され、公共広告機構(現・ACジャパン)のCMに差し替えられた。

報道機関の問題行動

多くの取材陣が事故現場や遺体安置所に殺到し、救助活動を妨害する様々な問題行動を起こした。

墜落現場での取材活動
御巣鷹の尾根での取材活動の際、現場の中に入り込んで動き回ったため、飛散していた乗客の遺体を足で踏みつけていた[59]
遭難記者の続出
河村一男によると、8月13日18時10分、全国紙の前橋支局長が「昨夜から山に入った支局員が帰ってこない。捜索してもらえないか」と地上捜索を依頼してきたり、長戸沢の奥の尾根に迷い込んだ地方テレビ局や写真週刊誌などの記者数名が、軽装登山の挙げ句「動けなくなったのでヘリで助けて欲しい」と救助を依頼、不足しているヘリを割いて長野県警が救助にあたったという[120]
遺体検視所の覗き見
一部の記者は藤岡市市民体育館の窓枠を登ったり、近くのNTTの鉄塔から望遠レンズで中を盗み撮りしようとしたため、体育館の暗幕を締めざるを得なかったという。よって体育館内の温度は40度にもなり、検視活動がより過酷なものとなった[121]

事故を題材にした作品など

テレビ番組

日本放送協会
NHK総合テレビジョン
NHK特集『墜落~日航機事故調査報告~』
1985年12月15日放送。
NHKスペシャル『思いをつづった文集-あの日を忘れないで-日航機事故 20年目の遺族』
2005年8月12日放送。
土曜ドラマクライマーズ・ハイ
2005年12月10日・17日放送。2006年9月30日・10月7日再放送。2010年12月には日本映画専門チャンネルにて映画版とあわせて放送された[122]
特報首都圏『問い続けた30年 日航機事故の遺児たち』
2015年7月24日放送。
NHKスペシャル『日航ジャンボ機事故 空白の16時間 “墜落の夜”30年目の真実』
2015年8月1日放送。行政機関が保有している墜落事故に関する情報を『情報公開制度』を利用し、なぜ墜落場所の特定が混乱したのか、事故報告書で不明とされた部分を、NHKの独自取材をもとに検証・構成した。遺族の1人である吉田由美子の母親が登場し、墜落地点特定までの長野県南佐久郡川上村での目撃証言や、墜落場所とされた御座山に関する情報錯綜を検証した[123][124]
NHK BSプレミアム
アナザーストーリーズ 運命の分岐点『日航機墜落事故 命の重さと向き合った人々』
2015年8月12日放送。事故当時に日本赤十字社看護婦で救護に携わった人物、事故機の現場写真を掲載した上毛新聞社のカメラマン、遺族と元警察官に、初めてテレビカメラの前に立った人達が登場した[125]
日本テレビ
NNNドキュメント『ドキュメント05.「あの夏…御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年」』
2005年8月15日(14日深夜)放送。
NNNドキュメント『ドキュメント.「夏空の墓標 あの日、御巣鷹の尾根で」』
2014年9月1日(8月31日深夜)放送。2014年の夏、航空業界を目指す東洋大学の大学生たちが、御巣鷹の尾根への登山を試みた。一方で高齢で慰霊登山を断念する遺族もいる。彼らの姿を通して事故を振り返る。
ザ!世界仰天ニュース『若いカップルを引き裂いたJAL123便~日航機事故で引き裂かれた純愛~』
2015年12月2日放送。当時佐渡ヶ嶽部屋所属の三段目大相撲力士の琴天旭博且がこの事故で交際していた女性を失う悲劇について描かれた[126]
TBS
『ボイスレコーダー-残された声の記録-ジャンボ機墜落20年目の真実』
2005年8月12日放送。高濱機長夫人や原因究明に奔走する先輩機長・藤田日出男から見た視点を中心に、事故発生からボイスレコーダー公開に至るまでの経緯について描かれた。
『8.12日航ジャンボ機墜落事故 30年の真相』
2015年8月12日放送。TBSが独自に取材した生存者や親族の証言などをもとに、再現ドラマとドキュメンタリーの2部構成で送った。
テレビ東京
坂本九没後20年ドラマスペシャル『上を向いて歩こう 坂本九物語
2005年8月21日放送。
フジテレビ
ザ・ノンフィクション『15年目の検証』
2000年11月19日放送。ノースダコタ大学航空学科での実験を通じた急減圧発生への疑問、カナダ・セレリス社のデジタル音声分析による公式報告書への疑問(記載されたボイスレコーダの「オールエンジン」というフレーズが実は「ボディギア」ではないかと分析)を放映し、さらに事故調査委員会の委員の中にボーイング747の操縦経験者が一人もいなかったことを指摘した。
金曜エンタテイメント特別企画『8・12日航機墜落事故 20年目の誓い~天国にいるわが子へ~』
2005年8月12日放送。2007年12月15日一部地域で再放送。甲子園での高校野球観戦をするため、1人で搭乗し死亡したある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には、東京航空管制部での対応や生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている[127]
8.12日航機墜落30回目の夏 生存者が明かす"32分間の闘い"~ボイスレコーダーの"新たな声"
2014年8月12日放送。よりオリジナルに近いボイスレコーダーの音声を、最新のデジタルリマスター機器で解析し、事故原因の再検証、また聞き取れず報告書で不明とされていた部分を元同僚パイロットとともに解説。そのほか、墜落時刻直前から墜落時刻の黙祷に合わせて現場から須田哲夫(事故直後も現場を取材)が生中継、さらに「事故を語るのはこれが最後」と言う生存者の証言に基づく再現ドラマも放送された[128]
ザ・ノンフィクション『今だから話せる妻の本音~日航機墜落事故から30年~』
2015年8月9日放送。
直撃!シンソウ坂上SP 日航機墜落事故33年目の真相
2018年8月16日放送。番組が4組の遺族に独自取材を行い、33年を経て初めて明かされる壮絶な人生をドラマ化。また、坂上忍が初めて遺族の1人で小学生の息子を失った8・12連絡会・事務局長の美谷島邦子と御巣鷹の尾根に登った[129]
WOWOW
ドラマWスペシャル『尾根のかなたに~父と息子の日航機墜落事故~』
2012年10月7日・14日放送。門田隆将の同名小説をドラマ化[130]
連続ドラマW沈まぬ太陽
2016年5月8日9月25日放送。同名小説のテレビドラマ化。
ナショナルジオグラフィックチャンネル
メーデー!:航空機事故の真実と真相 シーズン3第3話 「OUT OF CONTROL」(邦題「御巣鷹の尾根」)』
客室乗務員とのやり取りや、酸素マスク着用の必要性を伝える航空機関士の呼びかけに、機長がしばらく応答せずマスクもつけなかったことから、可能性の一つとして急減圧のために操縦士らに低酸素症による一時的な判断力の低下が起こったかもしれないと、クルーが低酸素症でぼうっとしている様子が演じられる。
この番組では、シーズン5から日本語吹き替えを実施しているが、シーズン3のこの放送回のみ先行して吹き替えを実施して放送している。
衝撃の瞬間 シーズン6第5話 「TERRIFIED OVER TOKYO」(邦題「日本航空123便墜落事故」)』
本内容は「事故を検証」する観点で作成されたため、上記「メーデー!」とは内容が異なった。また、この放送では、本便に搭乗し死亡した坂本九の妻である柏木由紀子のインタビューも放送された。
『衝撃の瞬間 特別編「小さなミス」』
『日曜大惨事ファイル 衝撃の瞬間6「日本航空123便墜落事故」』
ディスカバリーチャンネル
エアクラッシュ2 点検の不備』
上記「ナショジオ」の「メーデー!…」とは、操縦席等機内の再現VTRの内容が若干異なっている。

小説

沈まぬ太陽
山崎豊子原作。1995年 - 1999年に週刊新潮で連載。2001年に単行本化。当時の日本航空をモデルとして、社内からの視点で描いたフィクションの作品。2009年に映画化。2016年にテレビドラマ化。
クライマーズ・ハイ
横山秀夫原作。2003年1月、『別冊文藝春秋』に掲載。当事故の報道における地元の上毛新聞社の苦悩を描いた作品。2005年にテレビドラマ化、2008年に映画化。

映画

『御巣鷹山』
渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ全国で上映会。2006年公開。
クライマーズ・ハイ』 - 同名小説の映画化。
2008年7月公開。2012年8月には衛星劇場で放送、2015年第28回東京国際映画祭原田眞人の世界」で劇場再上映され、2016年8月12日夜には日本映画専門チャンネルでそれぞれ放送された。
沈まぬ太陽』 - 同名小説の映画化。
2009年10月公開[注釈 51]

写真集

『4/524』
小平尚典作。1991年。事故現場で撮影したカメラマンによるフォト・ドキュメント。日米同時に刊行された[131]

漫画

『御巣鷹山の暑い夏』
小林源文作。自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画で雑誌『PX MAGAZINE』に掲載。『ストライク アンド タクティカル マガジン』2007年11月号にp. 36のセルフリメイクで再掲載。2010年4月単行本化[132]

演劇

『赤い鳥逃げた…』
劇団離風霊船1986年に初演。1988年、1989年、1995年、2005年に再演。物語は、事故の生存者と同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。またラストでは生存者の1人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。タイトルは、本事故とほぼ同時期にヒットしていた中森明菜の楽曲である「ミ・アモーレ」の異名同曲異歌詞である「赤い鳥逃げた」と当時日本航空の旅客機に描かれていた「鶴丸」に掛けている。
『8・12(はってんいちに)』
劇団裏長屋マンションズ」の座長である赤塚真人が、同事故で親友を失った事実を基に書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され、2008年「8・12 ~絆~」として再演される。物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山への慰霊登山を実施しているという。
『8・12~白球~(はってんいちにはっきゅう)』
劇団裏長屋マンションズ」が、事故から30年を期して2015年初演。同事故で親友を失った座長・赤塚真人が原作、原案。当時、夏の甲子園に出場を果たした息子と、その応援のために123便に搭乗して遭難した元プロ野球選手でもある父親の実話をモチーフに描いた、『8・12』シリーズの新編。来世へと旅立った父親が、自分の年齢になった息子に会うために、現世に舞い戻るというストーリーである。
CVR チャーリー・ビクター・ロミオ
実際に発生した航空事故のCVRを再現した舞台演劇作品。そのうちのひとつが本事故。1999年アメリカ合衆国で初演。日本では燐光群によって2002年に初演。
『操縦不能 UNCONTROLLABLE』
2010年初演。由木事務所。
『ナイス・エイジ』
2000年初演。演劇ユニットナイロン100℃による上演。

音楽

「RAMP IN」「SONG FOR YOU」
1985年11月発売のアルバム『T's BALLAD』に収録された角松敏生の楽曲。歌詞カードには「RAMP IN」が“Dedicated to the stewardesses of JAL 123(JAL123便に乗務していた客室乗務員に捧げる)”、「SONG FOR YOU」が“Dedicated to the souls of the passsengers of JAL 123(JAL123便の乗客の魂に捧げる)”とそれぞれ記載された。また「RAMP IN」は1993年発売のベスト・アルバム『1981-1987』に完全リテイクで再収録。ライナーノーツには改めて“'85年に起きた航空機事故の乗員乗客に捧げた”と記載された。
「Last Flight」
角松敏生の楽曲。2003年発売のシングル「君のためにできること」のカップリング曲として発表。その後アルバム『Summer 4 Rhythm』に収録。

類似事故・事件

パンアメリカン航空845便離陸衝突事故
ボーイング7471971年。ボーイング747世界初の事故。離陸時に主脚を進入灯に接触させ、4本の油圧配管のうち床下を走る3本を破断したものの緊急着陸に成功した。内田幹樹は著書の中で、この事故後に適切な設計変更がされていれば123便の油圧喪失は防げたのではないかと語っている。
英国欧州航空706便墜落事故
ビッカース ヴァンガード、1971年。圧力隔壁の設計ミスに起因する空中分解。
トルコ航空DC-10パリ墜落事故
DC-10、1974年。機体の欠陥により、上昇中に貨物室ドアが脱落し急減圧が発生。油圧系統を完全に喪失して操縦不能に陥り墜落。123便の事故が発生するまで、単独機航空事故として世界最大の死亡事故だった[注釈 52]。なお、2年前に発生したアメリカン航空96便貨物ドア破損事故で既に欠陥は発覚しており、この際にメーカーが対応していれば当事故は防げたはずだった。
1975年アメリカ空軍C-5サイゴン事故
C-51975年。整備不良のため与圧で扉が外れ操縦系統を損傷し墜落。
タイ航空機爆発事件
エアバスA300-6001986年。後部化粧室内で乗客が不法に持ち込んだ手榴弾の安全ピンを誤って抜き、爆発。圧力隔壁を損傷したため、急減圧が発生し3系統中2系統の油圧を喪失。緊急着陸には成功し、死者はなかった。
ユナイテッド航空232便不時着事故
DC-10、1989年。本事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究していたパイロットが非番で搭乗していたため、着地は不完全であったものの緊急着陸に成功。
フィリピン航空434便爆破事件
ボーイング747、1994年。テロリストが爆弾を持ち込み座席下で爆発。床に穴が開き方向舵の操作が困難になった。左右のエンジン出力のコントロールにより緊急着陸に成功。
アメリカン航空587便墜落事故
エアバスA300-600R2001年。離陸直後、方向舵の過剰操作により垂直尾翼が脱落して墜落。
チャイナエアライン611便空中分解事故
ボーイング747、2002年。123便同様以前に尻もち事故を起こした機体であり、その修理が不適切であったために与圧に耐えきれず空中分解した。
ノースウェスト航空85便緊急着陸事故
ボーイング747-4002002年。巡航中に下部方向舵が左に傾いて動かなくなり機体制御が困難に陥る。操縦桿と左右のエンジン出力のコントロールにより緊急着陸に成功。
DHL貨物便撃墜事件
エアバスA3002003年。テロリストが貨物機を狙撃したことにより油圧系統を全損するも、左右エンジンの出力調整で緊急着陸に成功。死傷者なし。
ナショナル・エアラインズ102便墜落事故
ボーイング747-400貨物機、2013年。離陸直後、積み込んだ軍用車が荷崩れを起こして圧力隔壁を突き破り、油圧系統の一部と昇降舵の油圧ジャッキを破壊。操縦不能に陥り墜落。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 「46」は日本航空に割り当てられたボーイングのカスタマーコード
  2. ^ 複数機の航空事故では、583人が死亡したテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故が最多である。
  3. ^ そもそもコートルーム棚下への積載はボーイングによる禁止事項であり、化粧室ドアの不具合はJA8119以外の機でも数件、グアム便だけで発生していた。
  4. ^ 当時のCVRは30分の1/4インチ・エンドレステープであったが、30分を超える録音が残っているのは、テープに余分があったためである[5]
  5. ^ シートベルト着用サイン点灯中に、乗客が「トイレに行きたい」と申し出たと考えられる。
  6. ^ 報告書には「ドーン」という爆発音が一度で表されているが、音は「ガコン」に近い音が連続して3度記録されている。
  7. ^ エンジンと電気系統は無事だった。
  8. ^ 事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。
  9. ^ 酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はなかった。
  10. ^ 油圧が使えない場合、ギアの自重を利用してギアを降ろすことができる。
  11. ^ 横田基地まで24kmの距離だった。
  12. ^ 電動は油圧システムに比べて応答が遅いため、機体のバランスを崩しやすい。
  13. ^ ラジオ磁気指示計 (RMI)のVOR受信アンテナは垂直尾翼の頂上付近に埋め込まれており、垂直尾翼が破壊された際に回線が切断されたと推測されている。
  14. ^ 機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされる。
  15. ^ CVRには41分頃、機長の「あたま(機首)下げろ、そんなのどうでもいい」という発言が記録されている。
  16. ^ Pre-Recorded Announcement。自動放送される乗客への指示アナウンス。与圧異常時は自動でマスクを落とし、「ただ今、緊急降下中、マスクを付けて下さい。ベルトを付けて下さい。タバコは消してください。ただ今、緊急降下中です」という放送が流れる。
  17. ^ 当時は客室内で喫煙が可能だった。
  18. ^ 救命胴衣は脱出の妨げとなるため、客室内では膨らませないことになっているが、一部の乗客は客室内で膨らませてしまい、他の乗客もそれにつられて膨らましてしまったため、客室乗務員らが「膨らませないで」と叫んでいたという[7]
  19. ^ そもそも航空機には「○○山から○○メートル」というような正確な位置情報はほとんど必要がなく、TACANの計測は誤差がつきものだったという[14]
  20. ^ 実際の墜落現場も三国峠から北西に2.9kmの群馬県側であった。
  21. ^ 河村一男は「救難活動はチームワークであって個人のスタンドプレーは必要ない」との方針のもと、第一発見者の所属や個人を敢えて特定せず、「期せずして皆で発見」としたという。自衛隊指揮官も「ヒーローは作らず」という考えで同じ気概であったという[24]
  22. ^ 跡地は藤岡公民館となり敷地内には「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑が建てられた。
  23. ^ 1995年9月25日付のテレビ朝日「ニュースステーション」特集「ジャンボ機墜落事故 幻の御巣鷹山救出劇・日米同時取材で関係者が明らかにした新事実とは……」で在日米軍最高幹部が「自衛隊が米軍の救難を断った」と取材に答えたと報じた[43]
  24. ^ 「いわれなき批判に反論する」は、1985年9月16日「月曜評論」(自衛隊内週刊紙)で掲載後、1985年9月26日「朝雲」(自衛隊内新聞)に転載された論説。
  25. ^ アメリカ側は事故当初、テロ事件の可能性が高いと考えジョージ・サイドレンを派遣したが、爆発物等の痕跡が見つからなかったこと、また日本の調査団との関係が悪化したためサイドレンに変えてロン・シュリードを派遣したという[52]
  26. ^ 昇降舵(エレベータ)や方向舵(ラダー)などは蝶番式に固定されている箇所を軸にして動く構造になっていて、舵の反対側に付けられている重しがウエイトバランスである。飛行中の風圧でバタつくのを防ぎ、動きが滑らかになる[56]
  27. ^ 「まつゆき」は、石川島播磨重工業東京第1工場で1984年(昭和59年)10月25日進水し、1986年(昭和61年)3月19日の就役前だった。
  28. ^ BS(ボディステーション)とは機体の胴体位置を示す番号。2200は機体最後部R5とL5ドアよりやや前の位置にあたる。
  29. ^ 国際機関の事故調査マニュアルでは、生存者有無の確認が終わった後は、証拠保全のために遺体を動かさないように定められている[59]
  30. ^ 22日の調査終了後、NTSB調査官から日本の調査官に「隔壁の中継ぎ板の一部が短い。リベット付近をよく調べた方がいい」と知らされ、図も書いて示してもらった。その後、日本の調査官は図を見ながら問題とされる箇所を調べたが、塗料で覆われていたり修理工程を知らないこともあって、長らく判別できなかったという[61]
  31. ^ 顕微鏡で観察する際、対象物が大きくステージに載せられない場合は樹脂で複製して観察する手法をとる。
  32. ^ 米国調査団はその後数回、現場に入っては疲労痕があると思われる圧力隔壁の破断面のレプリカを採取し、米軍のヘリで東京へ運んだ後、当日中に航空便でワシントンのNTSB本部に送っていた。疲労痕がうまく写らないこともあり、NTSB本部からレプリカ採取のやり直し指示もあったという[61]
  33. ^ 1985年8月27日、日本の事故調査委員会による中間報告では修理ミスについて触れられておらず、ボーイング747の構造自体には何ら問題無いことを周知するため、NTSB委員長ジム・バーネットがロン・シュリードにリークするよう指示。シュリードからニューヨークタイムズの記者にリークしたという[66]
  34. ^ 事故調査委員会の年間予算は1984年度(昭和59年)2,700万円であり、事故後政府の予備費から2億2,400万円が追加計上されたが、限られた予算の中で原因究明のための試験や研究が山積しており、世間の批判に応えて優先度の低い課題に調査費をかけられない事情があった[70]
  35. ^ NASAがスペースシャトル設計のために開発したソフトウェア。
  36. ^ B747では飛行方向を変えるのに普段はエルロンを使い、ラダーは使わないという[79]
  37. ^ 海水面に安全に着水するには、対気速度200ノット (370 km/h)以下でないと着水時の衝撃で機体が大破する可能性が高い。
  38. ^ JALでは、ボーイング747に於いてT、A、B、C、Hの4種類の整備を設定しており、C整備は飛行時間3,000時間毎に実施していた。
  39. ^ 事故調査報告書では、不確かなことは書かないという方針により、以下のように記載している。
    (1) 断定できる場合…「認められる」
    (2) 断定できないが、ほぼ間違いない場合…「推定される」
    (3) 可能性が高い場合…「考えられる」
    (4) 可能性がある場合…「可能性が考えられる」「可能性があると考えられる」
    本事故の原因について、「推定される」を使用しているため、「断定できないが、ほぼ間違いない」場合にあたる[解説 2]
  40. ^ 時速36kmで走るバイクの風を身体で受けた程度。
  41. ^ 当該機のエアコンは高度24,000フィートの気圧では、3分程度で機内の空気と同じ量の空気を供給する能力がある。
  42. ^ 通常の飛行でもエルロンやラダーで旋回を入れただけで、1.0程度のGは検出されるという。
  43. ^ 国際民間航空条約第13付属書により、事故調査資料は関係者以外には公開されないと定められている。
  44. ^ 藤田日出男の元に、CVRの音声テープや調査官のメモ等の資料が提供されたという。
  45. ^ アメリカでは、航空宇宙産業において刑事事件(責任)は追及せず事故原因を探求した方が安全性が向上し、結果として多数の幸福に繋がるという考えによる。
  46. ^ 当時の司会のうつみ宮土理が夏休み休暇中のため、代役を務めた。
  47. ^ 同行していた坂本のマネージャーの小宮勝廣(マナセプロダクションマネージャー)も犠牲になった。
  48. ^ 休止期間中はプロ野球中継に差し替えられた。
  49. ^ 13日の『いいとも!』は『テレフォンショッキング』のみの放送となった。
  50. ^ 番組出演の明石家さんまは当便に搭乗予定だったが、前述の通り搭乗をキャンセルし難を逃れた。
  51. ^ 本事故で父親を失ったダイアナ湯川が演奏する曲が背景音楽として使われている。
  52. ^ 2018年現在でも、ニューデリー空中衝突事故に次いで4番目に大きい航空機事故である。

事故調査報告書 出典

事故調査報告書

  1. ^ a b 報告書 1987, pp. 17–19 (2.7 航空機に関する情報)
  2. ^ 報告書 1987, pp. 101–104 (3.2.2 昭和53年大阪国際空港における事故による損壊の修理作業並びにその後の事故機の運航および整備点検について)
  3. ^ a b c d 報告書 1987, pp. 14–17 (2.6 乗組員に関する情報)
  4. ^ a b 報告書 1987, pp. 6–8 (2.1 飛行の経過)
  5. ^ 報告書 1987, p. 114 (3.2.7 異常事態における運行乗務員の対応)
  6. ^ 報告書 1987, pp. 117–118 (3.2.7.5 その他の対応)
  7. ^ 報告書 1987, pp. 77–83 (3.1.7 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について(関係資料付録6))
  8. ^ 報告書 1987, p. 24 (2.12 客室乗務員の対応に関する情報)
  9. ^ a b c d 報告書 1987, pp. 25–28 (2.14 人の生存、死亡又は負傷に関係ある捜索、救難及び避難に関する情報)
  10. ^ 報告書 1987, pp. 24–25 (2.13 医学に関する情報)
  11. ^ 報告書 1987, pp. 121–122 (3.2.10 乗員・乗客の死傷についての解析)
  12. ^ 報告書 1987, pp. 8–9 (2.3 墜落現場の状況)
  13. ^ 報告書 1987, pp. 63–64 (2.16.8 放射性物質に関する調査)
  14. ^ 報告書 1987, p. 3 (1.2 航空事故調査の概要)
  15. ^ 報告書 1987, pp. 13–14 (2.4.4 海底浮遊残骸の揚収等)
  16. ^ 報告書 1987, p. 14 (2.4.5 飛行経路下(陸地)から回収された残骸)
  17. ^ 報告書 1987, p. 128 (4.2 原因)
  18. ^ 報告書 1987, pp. 70–71 (3.1.2.5 フラッタ及びダイバージェンスに関する検討)
  19. ^ 報告書 1987, p. 63 (2.16.7 爆発物等に関する調査)
  20. ^ 報告書 1987, p. 8 (2.2 人の死亡、行方不明および負傷)

事故調査報告書 別添

  1. ^ 報告書 1987, pp. 257–258 (別添3.2.2 S位置化粧室不具合の調査)
  2. ^ a b c d e f g 報告書 1987, pp. 309–343 (別添6 CVR記録)

事故調査報告書 (付録)

  1. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 95–130 (付録6 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について)
  2. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 3–21 (付録1 後部圧力隔壁破壊の解析のための試験研究)
  3. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 23–46 (付録2 垂直尾翼破壊の解析のための試験研究)
  4. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 47–52 (付録3 APU防火壁付近の強度解析)
  5. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 53–85 (付録4 後部圧力隔壁からの与圧空気の流出の数値計算による検討)
  6. ^ 報告書(付録) 1987, p. 145 (付録7 付表-6 緊急着水のための最適操作)
  7. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 131–156 (付録7 事故機の飛行シミュレーション試験)
  8. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 207–213 (付録12 目視点検による亀裂の発見について)
  9. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 73–74 (付録4 付図-4 (b)客室、コクピット温度変化)
  10. ^ 報告書(付録) 1987, pp. 91–92 (付録5 付図-1 DFDR拡大図)

事故調査報告書についての解説

  1. ^ 解説 2011, pp. 18–20 (9. 捜索救難)
  2. ^ 解説 2011, p. 26 (11.その他)
  3. ^ 解説 2011, pp. 2–3 (2.最近の急減圧の事例)
  4. ^ a b 解説 2011, pp. 5–9 (4.風の強さについての説明)
  5. ^ 解説 2011, pp. 9–11 (5.温度の説明)
  6. ^ 解説 2011, pp. 11–14 (6.低酸素症とパイロットが酸素マスクを着けなかった理由)
  7. ^ a b 解説 2011, p. 16 (8.その他の要因が関与した可能性について)

出典

  1. ^ “時事ワード解説『日航機墜落事故』”. 時事通信. (2020年4月4日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2020040400286&g=tha 
  2. ^ 門田隆将 2010.
  3. ^ 朝日新聞社会部 1985.
  4. ^ a b 日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説”. 運輸安全委員会 (2011年7月29日). 2020年3月12日閲覧。
  5. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 145–146.
  6. ^ a b “墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る”. 朝日新聞. (2010年8月10日). http://www.asahi.com/special/playback/TKY201008100270.html 
  7. ^ a b c d e 吉岡忍 1986, pp. 59–70.
  8. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 294–296.
  9. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 286–294.
  10. ^ 飯塚訓 2001, pp. 19–24.
  11. ^ “悲劇の機内生々しく 日航機墜落事故 乗客撮影、遺族が公開”. 読売新聞: p. 1. (1990年10月14日) 
  12. ^ “墜落前の機内、生々しく 日航機惨事の遺族が写真公開”. 朝日新聞: p. 1. (1990年10月14日) 
  13. ^ 朝日新聞社会部 1985, p. 35.
  14. ^ 朝日新聞社会部 1985, p. 79.
  15. ^ 元メディックの実任務出動の記録 アクチャル03.<日航ジャンボ機の墜落・前編>”. 赤城工業株式会社. 2020年3月17日閲覧。
  16. ^ 飯塚訓 1998, pp. 23–29.
  17. ^ 河村一男 2004, p. 113.
  18. ^ 朝日新聞社会部 1985, p. 60.
  19. ^ 朝日新聞社会部 1985, p. 80.
  20. ^ 河村一男 2004, pp. 61–75.
  21. ^ 朝日新聞社会部 1985, p. 226.
  22. ^ 飯塚訓 2001, pp. 116–121.
  23. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 142–145.
  24. ^ a b c 河村一男 2004, pp. 166–173.
  25. ^ 河村一男 2004, pp. 179–185.
  26. ^ 饗場庄一「日航事故・私が見た四人の生存者」『文藝春秋』昭和61年9月号、1986年9月。
  27. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 280–283.
  28. ^ 吉岡忍 1986, pp. 113–119.
  29. ^ 飯塚訓 1998, pp. 29–32, 38.
  30. ^ 河村一男 2004, pp. 152–155.
  31. ^ 河村一男 2004, pp. 193–194.
  32. ^ 飯塚訓 2001, pp. 212–216.
  33. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 36–38.
  34. ^ 朝日新聞社会部 1985, p. 63.
  35. ^ “衆議院 内閣委員会”. 第6号. 第103回国会. (1985-12-10). 291-296. https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110304889X00619851210&current=91. "田中慶秋の質疑" 
  36. ^ “【山本優美子のなでしこアクション(4)】日航機墜落事故から31年 「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たちの苦悩を忘れてはなりません”. 産経新聞. (2016年8月11日). https://www.sankei.com/premium/news/160807/prm1608070004-n1.html 
  37. ^ 災害派遣等のために使用する自衛隊車両の有料道路の無料通行について(通達)”. 防衛省 (2003年3月31日). 2020年3月15日閲覧。
  38. ^ 「悪いニュースの突き当り (3)日航機墜落の御巣鷹山「アイソトープ騒動」」『週刊新潮』8月11日・18日号、1988年8月18日、 38–39。
  39. ^ “A Rescue put on hold Was national honor deadly for Flight 123?”. The Sacramento Bee. (1995年8月20日) 
  40. ^ “1985 air crash botched, ex-airman says”. Pacific Stars And Stripes: p. 1. (1995年8月27日). https://newspaperarchive.com/pacific-stars-and-stripes-aug-27-1995-p-1/ 
  41. ^ “CRASH : Japanese took 12 hours to reach site”. Pacific Stars And Stripes: p. 6. (1995年8月27日). https://newspaperarchive.com/pacific-stars-and-stripes-aug-27-1995-p-6/ 
  42. ^ マイケル・アントヌッチ・ジュニア「米軍パイロット、小誌に重大証言 御巣鷹山日航機事故10年目の真実 生存者を見殺しにした“空白の14時間”」『週刊文春』9月28日号、1995年9月28日、 49–53。
  43. ^ a b 河村一男 2004, pp. 46–50.
  44. ^ 米田憲司『御巣鷹の謎を追う―日航123便事故20年』宝島社、2005年6月23日、105–110。ISBN 9784796646673。
  45. ^ “USFJ has no records on crash”. Pacific Stars And Stripes: p. 7. (1995年8月27日). https://newspaperarchive.com/pacific-stars-and-stripes-aug-27-1995-p-7/ 
  46. ^ 堀越豊裕 2018, pp. 291–294.
  47. ^ 佐藤守 (2007年3月8日). “いわれなき批判に反論する JAL機墜落事故=航空自衛隊の捜索救難活動について”. 2019年12月22日閲覧。
  48. ^ 佐藤守 (2007年3月9日). “いわれなき批判に反論する (2)”. 2019年12月22日閲覧。
  49. ^ 松永貞昭「日航事故・自衛隊批判に応える」『文藝春秋』1995年11月号、1995年11月。
  50. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 76–88.
  51. ^ 堀越豊裕 2018, p. 277.
  52. ^ a b 堀越豊裕 2018, pp. 56–65.
  53. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 28–35.
  54. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 35–42.
  55. ^ a b c 鶴岡・北村 1991, pp. 42–46.
  56. ^ 鶴岡・北村 1991, p. 42.
  57. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 223–226.
  58. ^ a b c d 鶴岡・北村 1991, pp. 48–52.
  59. ^ a b 1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの」『週刊現代』2016年8月14日。
  60. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 61–63.
  61. ^ a b c d 鶴岡・北村 1991, pp. 63–65.
  62. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 65–68.
  63. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 68–69.
  64. ^ Richard Witkin (1985年9月6日). “CLUES ARE FOUND IN JAPAN AIR CRASH”. The New York Times: p. 7. https://www.nytimes.com/1985/09/06/world/clues-are-found-in-japan-air-crash.html 
  65. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 69–75.
  66. ^ 堀越豊裕 2018, pp. 88–92.
  67. ^ “「隔壁リベット一部不貫通」 ボ社 欠陥修理認める 墜落日航機”. 読売新聞(夕刊): p. 1. (1985年9月7日) 
  68. ^ “日航機「しりもち」隔壁修理 接ぎ合わせ不完全 ボ社、手落ち認める”. 朝日新聞(夕刊): p. 1. (1985年9月7日) 
  69. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 107–109.
  70. ^ a b 鶴岡・北村 1991, pp. 127–130.
  71. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 158–162.
  72. ^ a b 鶴岡・北村 1991, pp. 162–165.
  73. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 165–168.
  74. ^ a b c 鶴岡・北村 1991, pp. 168–171.
  75. ^ 加藤寛一郎 1987, pp. 204–207.
  76. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 171–178.
  77. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 175–178.
  78. ^ a b c d e f 鶴岡・北村 1991, pp. 178–183.
  79. ^ 鶴岡・北村 1991, p. 181.
  80. ^ 杉江弘 2017, p. 169.
  81. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 205–208, 213–215.
  82. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 208–211.
  83. ^ 鶴岡・北村 1991, pp. 205–208.
  84. ^ a b 鶴岡・北村 1991, pp. 213–215.
  85. ^ 勧告 1987.
  86. ^ 建議 1987.
  87. ^ 御巣鷹山墜落事故に係る航空機事故調査報告書の解説書が事故から26年目に作られ、公表されたことを受けて (pdf)”. 8・12連絡会. 2020年3月26日閲覧。
  88. ^ 日航123便に急減圧はなかった”. 日本乗員組合連絡会議 (1994年4月). 2019年12月17日閲覧。
  89. ^ 藤田日出男『隠された証言―JAL123便墜落事故』新潮社〈新潮文庫〉、2006年7月28日(原著2003年8月12日)。ISBN 9784101293516。 (原著 ISBN 9784104620012)
  90. ^ 角田四郎『疑惑 JAL123便墜落事故―このままでは520柱は瞑れない』早稲田出版、1993年12月。ISBN 9784898271520。
  91. ^ 池田昌昭『完全犯罪 JAL123便撃墜事件』文芸社、2003年7月。ISBN 9784835562896。
  92. ^ 青山透子『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』河出書房新社、2017年7月17日。ISBN 9784309025940。
  93. ^ 堀越豊裕 2018, pp. 211–213.
  94. ^ 杉江弘 2017, pp. 49–54.
  95. ^ “日航機墜落事故資料を廃棄 1トン『保存期間切れた』--運輸省航空事故調査委員会”. 毎日新聞(大阪夕刊). (2000年8月4日) 
  96. ^ “米元検事初証言、捜査協力促した 日航機墜落事故”. 共同通信. (2016年8月11日). オリジナルの2016年8月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160812055132/http://this.kiji.is/136420796050834934 
  97. ^ 堀越豊裕 2018, pp. 162–173.
  98. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 246–274.
  99. ^ “【日航機墜落事故から28年】 坂本九さんの死とともに~元マネージャーの静かな夏~”. 日本webリポート&ニュース. (2013年8月26日). オリジナルの2014年8月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140826161303/http://www.webreport.jp/9898.html 2017年8月21日閲覧。 
  100. ^ 榊原和子 (2007年7月24日). “由美子へ・取材ノート 第16章 遭難”. 宝塚プレシャス+. オリジナルの2018年5月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180513130730/http://astand.asahi.com/takarazuka/yumiko/TKY200707230634.html 2018年5月13日閲覧。 
  101. ^ a b c “【日航機墜落30年】難を逃れた芸能人たち さんまがIMALUに込めた思い”. 東スポWeb. (2015年8月13日). https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/434609/ 
  102. ^ 榊原和子 (2007年8月14日). “由美子へ・取材ノート 第19章-1 レクイエム 1”. 宝塚プレシャス+. オリジナルの2015年8月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150822112105/http://astand.asahi.com/takarazuka/yumiko/TKY200708130130.html 2017年6月5日閲覧。 
  103. ^ a b 逸見政孝、シャープ元副社長… 日航機「123便」搭乗を回避した当事者たち」『週刊新潮』2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪、2015年8月25日。
  104. ^ 勝谷誠彦『勝谷誠彦の××な日々 vol.6』アスコム、2009年10月31日、88頁。ISBN 9784776205715。
  105. ^ 山田隆夫『ボクに運が巡ってくる55の理由』廣済堂出版、2012年5月25日。ISBN 9784331516355。
  106. ^ “ジャニー列伝(7) 「日航機」搭乗予定が…”. 中日スポーツ. (2019年7月18日). オリジナルの2019年7月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190718010552/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2019071802000220.html 2019年11月29日閲覧。 
  107. ^ 「付属統計表」『昭和61年度 運輸白書』(レポート)、運輸省、1986年。
  108. ^ “人事大幅刷新は首相の強い意向 自身が認める”. 毎日新聞. (1985年10月29日) 
  109. ^ 日本航空乗員組合ニュース (PDF) (2007年10月15日時点のアーカイブ
  110. ^ “JAL、航空機の歴史 (第6回) ジャンボ機の導入と競争の激化で、新しい機内サービスが誕生!”. マイナビニュース. (2013年7月2日). https://news.mynavi.jp/article/jal-6/ 
  111. ^ “JAL、安全啓発センターを開設” (プレスリリース), 日本航空, (2006年4月29日), https://press.jal.co.jp/ja/release/200604/000238.html 
  112. ^ 8・12連絡会の趣旨”. 8・12連絡会. 2019年12月15日閲覧。
  113. ^ “日航機墜落事故 遺族に米の財団が最高賞 空の安全に貢献”. 毎日新聞. (2009年3月11日) 
  114. ^ 安達功 (2016年1月13日). “御巣鷹の真実~日航ジャンボ機墜落事故~”. 時事通信. https://www.jiji.com/jc/v4?id=ostakanoshinjitu201601130002 
  115. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 21–22.
  116. ^ 堀越豊裕 2018, pp. 260–266.
  117. ^ 朝日新聞社会部 1985, pp. 184–187.
  118. ^ “524人乗り日航機墜落 御巣鷹山(群馬・長野県境)付近に”. 読売新聞: p. 1. (1985年8月13日) 
  119. ^ “524人乗り日航機墜落 長野・群馬県境で炎上”. 朝日新聞: p. 1. (1985年8月13日) 
  120. ^ 河村一男 2004, pp. 214–215.
  121. ^ 飯塚訓 1998, pp. 36–39.
  122. ^ 特集ドラマ クライマーズ・ハイ”. NHKアーカイブス. 2020年3月20日閲覧。
  123. ^ NHKスペシャル 日航ジャンボ機事故 空白の16時間”. NHKアーカイブス. 2020年3月20日閲覧。
  124. ^ 日航機墜落30年で新資料”. NHK NewsWeb (2015年8月6日). 2015年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月19日閲覧。
  125. ^ 河瀬大作、片瀬京子 (2015年8月11日). “日航機墜落事故、30年目の初証言”. 日経ビジネス. https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061100029/ 
  126. ^ ザ!世界仰天ニュース『若いカップルを引き裂いたJAL123便』”. 日本テレビ (2015年12月2日). 2019年12月15日閲覧。
  127. ^ 8・12墜落 20年目の誓い”. テレビドラマデータベース. 2020年5月12日閲覧。
  128. ^ 8.12日航機墜落30回目の夏生存者が今明かす“32分間の闘い”~ボイスレコーダーの“新たな声””. フジテレビ (2014年8月12日). 2020年3月19日閲覧。
  129. ^ 直撃!シンソウ坂上2時間SP ~日航123便からのメッセージ・33年目の真相~”. フジテレビ (2018年8月15日). 2020年3月19日閲覧。
  130. ^ 尾根のかなたに”. テレビドラマデータベース. 2020年5月12日閲覧。
  131. ^ 小平尚典『4/524』新潮社、1991年7月。ISBN 9784103816010。
  132. ^ 小林源文『ゲンブンマガジン別冊Vol.1 御巣鷹山の暑い夏』カンプグルッペ・ゲンブン、2010年4月5日。ASIN B003ET1GXO

参考文献

事故調査報告書

勧告、建議

公式記録

  • 『日航123便墜落事故対策の記録』群馬県総務部消防防災課、群馬県、1986年。全国書誌番号:86051691
  • 『救護体験記 : 85・8・12日航機墜落事故現場から』日本赤十字社振興部報道課、日本赤十字社、1986年。全国書誌番号:99015336

航空事故研究、関係者・報道記録

  • 『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』朝日新聞社会部、朝日新聞社〈朝日文庫〉、1990年8月1日(原著1985年12月)。ISBN 9784022606068。(原著 ISBN 9784022554413)
  • 飯塚訓(元群馬県警察高崎警察署身元確認班長)
    • 飯塚訓『新装版 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』講談社〈講談社+α文庫〉、2015年6月23日(原著1998年)。ISBN 9784062816007。(原著 ISBN 9784062092593)
    • 飯塚訓『新装版 墜落現場 遺された人たち 御巣鷹山、日航機123便の真実』講談社〈講談社+α文庫〉、2015年7月23日(原著2001年5月30日)。ISBN 9784062816014。 (原著 ISBN 9784062107464)
  • 加藤寛一郎
    • 加藤寛一郎『壊れた尾翼 日航ジャンボ機墜落の真実』講談社〈講談社+α文庫〉、2004年6月18日(原著1987年)。ISBN 9784062568548。(原著 技報堂出版 ISBN 9784765543378)
    • 加藤寛一郎『爆発JAL123便―航空機事故、複雑怪奇なり』大和書房〈だいわ文庫〉、2006年6月。ISBN 9784479300335。
  • 河村一男(元群馬県警察本部長
    • 河村一男『日航機墜落―123便、捜索の真相』イーストプレス、2004年。ISBN 9784872574487。
    • 河村一男『日航機遺体収容―123便、事故処理の真相』イーストプレス、2005年7月1日。ISBN 9784872575743。
  • 杉江弘(元日本航空機長)
    • 杉江弘『機長の「失敗学」』講談社、2003年4月。ISBN 9784062118002。
    • 杉江弘『JAL123便墜落事故 自衛隊&米軍陰謀説の真相』宝島社、2017年12月8日。ISBN 9784800278456。
  • 鶴岡憲一、北村行孝『悲劇の真相―日航ジャンボ機事故調査の677日』読売新聞社、1991年6月。ISBN 9784643910599。
  • 堀越豊裕『日航機123便墜落 最後の証言』平凡社〈平凡社新書〉、2018年7月13日。ISBN 9784582858853。
  • 山本善明(元日本航空運航本部運航乗員健康管理部長)
    • 山本善明『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか』上、講談社、1999年9月。ISBN 9784062098847。
    • 山本善明『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか』下、講談社、1999年11月。ISBN 9784062099196。
    • 山本善明『日本航空事故処理担当』講談社〈講談社+α新書〉、2001年3月1日。ISBN 9784062720649。
  • 吉岡忍『墜落の夏―日航123便事故全記録』新潮社〈新潮文庫〉、1989年7月27日(原著1986年8月)。ISBN 9784101163116。(原著 ISBN 9784103630012)
  • Hood, Christopher P. (2013-05-07) [2011-09-12]. Dealing with Disaster in Japan: Responses to the Flight JL123 Crash. Routledge. ISBN 9780415705998. https://hoodcp.wordpress.com/book-dealing-with-disaster-in-japan-responses-to-the-flight-jl123-crash/  (hard back ISBN 9780415456623) eBook also available.
  • Hood, Christopher P. (2014-10-15). Osutaka: A Chronicle of Loss In the World's Largest Single Plane Crash. Lulu.com. ISBN 9781291976205. https://hoodcp.wordpress.com/book-osutaka-a-chronicle-of-loss-in-the-worlds-largest-single-plane-crash/  (eBook ISBN 9781291976199)

遺族による記録

  • 門田隆将『風にそよぐ墓標―父と息子の日航機墜落事故』集英社、2010年8月5日。ISBN 9784087805765。
  • 川北宇夫『墜落事故のあと』文藝春秋、1992年2月。ISBN 9784163462103。
  • 美谷島邦子『御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年』新潮社、2010年6月1日。ISBN 9784103254218。

関連項目

政府・関係者

墜落現場

オンライン資料

動画資料

マスメディア