日野邦光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
日野邦光
Kobayashi Kokei - Kumawakamaru - Google Art Project.jpg
阿新丸。日本画・小林古径1883年 - 1957年
時代 南北朝時代
生誕 元応2年(1320年
死没 正平18年/貞治2年(1363年)?
改名 阿新丸(幼名)→邦光
官位 従三位権中納言南朝)、正三位
主君 後醍醐天皇後村上天皇
氏族 藤原北家真夏日野家
父母 父:日野資朝
兄弟 朝光、邦光、慈俊、北畠顕家
資茂
テンプレートを表示

日野 邦光(ひの くにみつ)は、南北朝時代公卿藤原北家真夏日野家権中納言日野資朝の子。官位従三位権中納言南朝)、正三位南朝に仕えた。幼名阿新丸(くまわかまる)といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討の逸話によって古来著名である。

経歴[編集]

日野邦光、本朝廿四考(1842年 - 1843年)

元亨4年(1324年後醍醐天皇の倒幕計画に参画した父・資朝が北条氏に捕らわれ、佐渡国に配流された(正中の変)。その直後から一家は仁和寺の近辺に隠棲していたが、元弘2年/正慶2年(1332年)、阿新丸(邦光)は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代・本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎(入道の甥という)を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという。

建武政権下では後醍醐天皇に仕え、延元元年/建武3年(1336年)3月に派遣された石清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権佐邦光」と見える。延元4年/暦応2年(1339年石見国国司として新田義氏と共に同国へ下向。翌興国元年/暦応3年(1340年)8月豊田城で守護上野頼兼率いる北軍を一旦退けたが、10月その反撃に遭って敗れ、次いで稲積城に立て籠ったものの、興国2年/暦応4年(1341年)2月再び頼兼に攻められて落城した。

その後は石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奉者となったが、正平5年/観応元年(1350年)10月宇治惟時の帰参を促すべく、勅使として九州へ下向。正平7年/文和元年(1352年肥後国に在国し、惟時に対する帰参の条件として、征西将軍懐良親王の吹挙と菊池武光の請文を約束した。正平9年/文和3年(1354年)6月までに権中納言に任じられ[1]、正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊細川清氏らと京都に乱入し、2代将軍足利義詮近江国へ一時駆逐したが、以後は史料上の所見がない。『南朝公卿補任』によれば、正平18年/貞治2年(1363年)薨去した。

明治時代修身教育においては、忠孝二つながら全うした人物として大いに喧伝され、大正4年(1915年11月10日正三位追贈されている。

脚注[編集]

  1. ^ 『名和文書』正平9年6月18日付後村上天皇口宣案に「上卿日野中納言」と見える。

出典[編集]

  • 三浦龍昭 「南北朝期無年号文書に関する一考察 ―日野邦光の九州下向に関して」(『征西将軍府の研究』 青史出版、2009年、ISBN 9784921145378)

関連項目[編集]