旧皇族

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旧皇族(伏見宮系皇族)
Japanese Imperial families in Kyoto Imperial Palace.png
民族 大和民族
出身地 日本の旗 日本 京都府
平安京
現居住地
家祖 伏見宮栄仁親王
北朝第3代崇光天皇第一皇子
著名な人物 東久邇宮稔彦王
内閣総理大臣
親族 現在の皇室
支流

など

(※印:1947年より前に廃絶)
伝統 皇位継承権者の予備血統
Imperial Seal of Japan.svg
臣籍降下し華族となった者も含めて、多数の男系子孫がいる

旧皇族(きゅうこうぞく)とは、1947年5月3日日本国憲法施行と同日に施行された皇室典範(現行)の規定により、同年10月14日臣籍降下した11宮家51名の元皇族の総称。これらの人々を指し元皇族、その家を指し旧宮家ともいう。また、この臣籍降下以降「皇籍離脱」の語が用いられる(臣籍降下の項を参照)。

この皇籍離脱者の子孫も含めた総称で用いられることもある[注釈 1]

概要[編集]

伏見宮邦家親王崇光天皇の男系14世子孫)をとする皇族中の家系であり、「伏見宮系皇族」ともされる。明治時代に、明治天皇の男子で成人したのが大正天皇ただ一人であったことも背景に、邦家親王の王子たちを当主とする複数の宮家が創設された。1889年(明治22年)2月11日制定の皇室典範(いわゆる旧皇室典範)には、臣籍降下の規定が無く、永世皇族制が確立された。しかし、1907年(明治40年)の皇室典範増補で臣籍降下が容認され、また、皇籍復帰が禁じられた。1920年(大正9年)制定の内規で、臣籍降下がさらに推進された。

明治、大正、昭和前期にかけ、宮廷文化の一端を担い、また皇族軍人や名代としての慰問を通じて臣民と身近に接した。特に1913年(大正2年)以降は、全ての宮家が邦家親王の子孫で構成されていた

1947年(昭和22年)5月の日本国憲法・皇室典範(現行)施行後、同年10月14日、邦家親王の子孫である11宮家51名が臣籍降下した。以後も、構成員それぞれの社会的活動の他、大正天皇を祖とする現在の皇室を巡り、菊栄親睦会を通じての交流や、「お妃候補」でたびたび話題となる(いずれも後述)。特に、天皇男系子孫であるため、近年の後継者不足による[[皇位継承問題]における解決策の一である「旧皇族の皇籍復帰」に関連して話題となることが多い。

歴史[編集]

昭和天皇と旧宮家の面々

「旧皇族」の興り[編集]

南北朝時代以降、皇位継承権者を確保する目的で、伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮世襲親王家が立てられ、いずれも男系で宮号が継承されてきた。宝永7年(1710年)に閑院宮が創立されて以降は、皇位を継承する皇統とあわせて5本の血統が、互いの継承者を融通しつつ存続した。それぞれの宮号の継承者は、その時々の天皇または上皇猶子となることにより、擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたのである。これらの皇統および宮号を継ぐ者以外は、その多くは仏門に入った。

明治維新と前後して、伏見宮家の第19代貞敬親王および第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、新たな宮号を下賜され、あるいは継嗣のいない宮家を相続した。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして、2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。

しかし、明治天皇の男子で成人したのが大正天皇ただ一人で、さらに幕末から大正にかけて、閑院宮家桂宮家有栖川宮家が相次いで断絶していた。また西欧にならい、一夫一妻制の確立も必要だった。そこで、安定的な皇位継承を果たすべく、新たな世襲親王家を伏見宮の血統に求めたことにより、維新期に立てた宮号は世襲されることになり、さらに明治天皇の皇女と婚姻した久邇宮家の王が新たに宮号(竹田宮家朝香宮家東久邇宮家)を与えられて宮家を興した。

「旧皇族」の「最も近い共通祖先」(MRCA)は伏見宮邦家親王のみである(一夫多妻制)。また、現在の皇室と旧皇族間における男系の「最も近い共通祖先」は、3代当主貞成親王庭田幸子庭田家出身)である。貞成親王第一男子の彦仁王が、男子を儲けないまま崩御した称光天皇の後を受けて皇位を継承(第102代後花園天皇)、第二男子の貞常親王(後花園天皇の弟)が4代伏見宮を継承し、皇統および宮号がそれぞれの子孫に継承されて現在に至っている。

女系を含めた場合、現在の皇室と旧皇族間の「最も近い共通祖先」は江戸時代の第112代霊元天皇敬法門院(霊元天皇の側室:典侍)となる。霊元天皇第四皇子の朝仁親王(第113代東山天皇)が現在の皇室の祖先となり、東山天皇の同腹の妹である福子内親王が第14代伏見宮である邦永親王との間に貞建親王を儲け、これが邦家親王にはじまる「旧皇族」の祖となった。

崇光天皇~伏見宮・閑院宮に至る系図[編集]

崇光天皇
 
(1)栄仁親王
 
(2)治仁王
 
 
後花園天皇
 
後土御門天皇
 
後柏原天皇
 
後奈良天皇
 
正親町天皇
 
A
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)貞成親王
(後崇光院)
 
 
(4)貞常親王
 
(5)邦高親王
 
(6)貞敦親王
 
(7)邦輔親王
 
(8)貞康親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(9)邦房親王
 
B
 
 

A
 
誠仁親王
 
後陽成天皇
 
後水尾天皇
 
霊元天皇
 
東山天皇
 
中御門天皇
 
C
 
 
 
 
 
 
 
 
 
B
 
(10)貞清親王
 
(11)邦尚親王
 
 
福子内親王
 
 
(閑院宮1)直仁親王
 
D
 
 
 
 
 
 
 
 
(12)邦道親王
 
 
 
 
 
(15)貞建親王
 
E
 
 
 
 
 
 
 
 
(13)貞致親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(14)邦永親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

C
 
桜町天皇
 
桃園天皇
 
後桃園天皇
 
 
 
 
 
 
(17)貞行親王
 
D
 
(閑院宮2)典仁親王
 
(閑院宮3)美仁親王
 
(閑院宮4)孝仁親王
 
(閑院宮5)愛仁親王
 
 
 
 
 
 
 
光格天皇
 
仁孝天皇
 
孝明天皇
 
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
(16)邦忠親王
 
 
E
 
 
(18)邦頼親王
 
(19)貞敬親王
 
伏見宮邦家親王
 
 
 

永世皇族制と旧皇族[編集]

1889年(明治22年)2月11日制定の皇室典範(いわゆる旧皇室典範)には臣籍降下の規定が無く、永世皇族制を原則としていた。しかし、1907年(明治40年)の皇室典範増補で早くも例外が設けられ、臣籍降下が可能となった。しかし、その後、王の臣籍降下は北白川宮輝久王(小松輝久侯爵)の1例のみにとどまった。

1913年(大正2年)、有栖川宮威仁親王が薨去して有栖川宮家が断絶したため、宮家は全て伏見宮邦家親王の子孫のみ(本項に述べる「旧皇族」の親族のみ)で構成されるようになった。また、皇室典範制定以降、1901年(明治34年)生まれの迪宮裕仁親王ら4人の皇男子が誕生していた。

1920年(大正9年)5月19日に制定された内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、臣籍降下の推進はさらに徹底されることになった。この準則は、皇玄孫以降の子孫たちが順次臣籍降下してゆく基準を具体的に定めるものであった。 同準則第1条には

  • 皇玄孫ノ子孫タル王明治40年2月11日勅定ノ皇室典範増補第1条及ヒ皇族身位令第25条ノ規定ニヨリ情願ヲ為ササルトキハ長子孫ノ系統4世以内ヲ除クノ外勅旨ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列ス
    • (註:皇玄孫の子孫たる王、明治40年2月11日勅定の皇室典範増補第1条及び皇族身位令第25条の規定により請願を為さざるときは、長子孫の4世以内を除くの他、勅旨に依り家名を賜い華族に列す)

とあった。すなわち皇玄孫(=4世王)以降、系統四世(=5~8世)以内の長子孫以外は、賜姓降下(臣籍降下)させられることが明記された。ただし、附則により、制定時現在の宮家の構成員については「邦家親王の子を1世」として起算することとされた。

むろん、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とするこのような規定には異論もあり、裁定にあたって準則の諮詢を受けた枢密院での審議でも、一律・機械的に適用するのではなく個別の事情に応じて判断する旨の説明がなされている。枢密院はこれを受けて満場一致で準則を可決した。ついで諮詢を受けた1920年(大正9年)5月15日の皇族会議では、久邇宮邦彦王らから反発の声が挙がった。そこで宮内省側は、皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わず、議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させ、5月19日に大正天皇の裁定によって成立することとなった。

準則が制定されてから1946年(昭和21年)に廃止されるまでの26年間に、12名の皇族の臣籍降下があった。いずれも皇室典範増補第1条に基づく「情願による賜姓降下」であり、準則の適用を受けて降下させられた事例はひとつもない。しかし、情願をしなくとも降下させられる上、皇室典範により養子制度は認められていないことから、不名誉を避けるためには「自らの意思」として情願をせざるを得ない状況に置かれていた。準則の規定に反して例外がつくられたケースはひとつもない。

明治~昭和前期の活動[編集]

皇族男子は、陸・海軍の軍人として軍務に服することが義務付けられた。中でも、北白川宮能久親王乙未戦争北白川宮永久王日中戦争で、それぞれ出征中に殉職し靖国神社に祀られている。

明治宮殿の完成した1888年(明治21年)頃より、宮中正餐において銀製の菓子入れ「ボンボニエール[注釈 2]が配られるようになった[2]。皇室及び宮家の慶事の折に引き出物として発展し、宮廷文化の象徴となった[3]

大正~昭和期には、即位礼をはじめとした儀礼が可視化されて国民の目に触れた[4]。こうした中で、皇族男子は軍人として勤務し、皇族女子や宮妃は皇后の名代として慰問を行うことで「臣民」の前に現れた[5]

皇籍離脱へ[編集]

これらの宮家が皇籍を離脱することになったきっかけは、1945年(昭和20年)の敗戦である。敗戦直後に短期間首相をつとめた東久邇宮稔彦王は、辞任した直後に自らの臣籍降下を昭和天皇に願い出ており、さらにそのことをマスコミにも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、宮内省があわてて否定の声明を出す一幕もあった。また、賀陽宮恒憲王も天皇に同様の申し入れをしている。

より直接的な原因は、GHQの指令により皇室財産国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことである。皇室の活動にかかる予算は基本的に政府の一般会計から支出されていたが、その額は明治43年度(1910年度)に450万円で固定され、昭和22年まで変更されなかった。その間、財政規模の拡大にともなう差額は山林有価証券農地などの皇室独自の財源からまかなわれており、終戦前後の皇室の財政規模は約2500万円と、予算の大部分を占めるまでになっていた。これらの独自の財源が国庫に帰属したことにより、皇室はその活動費の大半を失ったのである。

当然、この動きに対し昭和天皇や一部の皇族から激しい抵抗があり、香淳皇后の実家である久邇宮家や昭和天皇の第一皇女成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮家などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も出た。しかし最終的には、昭和天皇の実弟である秩父高松三笠の3宮家(直宮家)のみを残し、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。

万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい[6] — 昭和22年、加藤進宮内次長の言葉

1947年(昭和22年)1月16日皇室典範(現行)が公布、同年5月3日日本国憲法と同日に施行された。そして、同年10月14日、皇室典範の規定に基づいて11宮家51名の皇籍離脱が行われた。これは、

  • 第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」
  • 第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」

及び

  • 第14条「その意思により」
  • 第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」

によって、形式上、離脱する皇族それぞれの自発的な意思によるものとして行なわれた。

皇籍離脱後の旧皇族[編集]

民間人としての動静[編集]

「旧皇族」の人々は、皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗り、民間人としての生活を始めた。旧皇族は世間の注目を避けて静かに生活してきた者がほとんどだった。1950年(昭和25年)には、久邇通子、伏見章子、北白川肇子の3名が光文社の少女誌『少女』1月号中「元女王さまの座談会」で質素な近況を話している。

財産税の賦課を受けてほとんどの者が資産の多くを失い、経済的な困窮に苦しんだ者もいる。一方、自らの努力やその人脈・婚姻により社会的・経済的に高い地位を維持する者(家)もある。なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。

神道関係者では、北白川房子(明治天皇第七皇女)は女性初の神宮祭主に就任し、以後、神宮祭主は皇籍を離れた皇女が務めることが慣例となった。また、久邇邦昭北白川道久伊勢神宮大宮司を務めている。

竹田恒治のように外交官として公的な要職に就いた者もいる。さらに旧皇族の子孫として、竹田恒和はオリンピック選手(のちJOC会長)として、竹田恒泰は著作や講演・テレビ出演等により、積極的に活動をしている者もいる(詳細は後述→#著名な活動がある者)。

一方、久邇朝融(香淳皇后の兄)は1947年(昭和22年)に時事新報による皇后の単独会見記事の捏造に関与し、皇后が自ら取材を否定する事態となった[7]。また元首相の東久邇稔彦は住居地を巡って、1962年(昭和37年)6月27日に国を相手に所有権確認の訴訟を行い、このことは国会でも取り上げられた[8]

「お妃候補」[編集]

1952年(昭和27年)に明仁親王(当時、のち第125代天皇、現上皇)が立太子を迎えて以降、1950年代には旧皇族の複数の少女たちが「お妃候補」であるとしてマスコミ取材を受けた[9]。うち北白川肇子は最有力者として、特に世間の注目を受けている(本人の項目を参照)。

東宮侍従だった黒木従達によれば、実際に先例及び旧皇室典範に倣い、旧皇族(11宮家)及び五摂家から「お妃候補」を選定しようとしたが、血縁の近さや、遺伝性の病気の有無等がネックになり、結局誰も候補者が残らなかった[10]。また黒木は、有力な候補者だった「元皇族令嬢」は近縁であることを理由に、早期に候補者から外していたとしている[11]

昭和末期、浩宮徳仁親王(当時、現今上天皇)が成年を迎えた1980年代以降、同様に「お妃候補」を巡る報道が過熱した。この時も、旧皇族の末裔にあたる女性たちが名指しで報じられていた[12]

皇室との関わり[編集]

皇籍を離脱した後も「皇室の親戚」という立場には変わりがなく(後述)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。

東久邇家は、昭和天皇香淳皇后の第一皇女照宮成子内親王の婚家であり、成子の長男信彦王(誕生当時)は天皇皇后の初孫であった。「東久邇家の孫」たちとは、成子が1961年(昭和36年)に早世して以降も天皇・皇后の外孫として親交があった。1963年(昭和38年)3月9日の皇后の還暦祝いでは成子の三男眞彦と浩宮徳仁親王の従兄弟同士で出し物を披露[13]したり、同年夏[14]や1966年(昭和41年)夏[15]には「東久邇家の孫」たちが那須御用邸に招かれている。

北白川祥子北白川宮永久王妃)は、靖国神社奉賛会会長を務めて同神社の復興に尽力した後、1969年(昭和44年)から30年余りに渡って宮内庁女官長(のち皇太后宮女官長)として香淳皇后に仕えた。祥子は常陸宮妃華子の叔母、かつ、実兄の徳川義寛も侍従であり、皇室と深い関係を維持し続けた。

久邇朝融(香淳皇后の兄)や、東久邇成子東久邇盛厚夫妻の比翼塚[16]など、一部の旧皇族は豊島岡墓地に葬られている。

旧皇族の構成[編集]

宮家一覧[編集]

宮家 読み 創始年 初代当主 初代の続柄 初代の
世数[注釈 3]
離脱時
の当主
備考
伏見 ふしみ 1456年[注釈 4] 栄仁親王 崇光天皇第1皇子 1世 博明王 世襲親王家
嫡流断絶見込
閑院宮 かんいん 1718年 直仁親王 東山天皇第6皇子 1世 春仁王 世襲親王家
断絶
山階宮 やましな 1864年 晃親王 伏見宮邦家親王第1王子 15世 武彦王 嫡流断絶
北白川宮 きたしらかわ 1870年[注釈 5] 智成親王 伏見宮邦家親王第13王子 15世 道久王 男系断絶
梨本宮 なしもと 1871年[注釈 6] 守脩親王 伏見宮貞敬親王第9王子 14世 守正王 男系断絶
久邇宮 くに 1875年 朝彦親王 伏見宮邦家親王第4王子 15世 朝融王
賀陽宮 かや 1892年 邦憲王 久邇宮朝彦親王第2王子 16世 恒憲王 嫡流断絶
東伏見宮 ひがしふしみ 1903年 依仁親王 伏見宮邦家親王第17王子 15世 [注釈 7] 断絶
竹田宮 たけだ 1906年 恒久王 北白川宮能久親王第1王子[注釈 8] 16世 恒徳王
朝香宮 あさか 1906年 鳩彦王 久邇宮朝彦親王第8王子 16世 鳩彦王
東久邇宮 ひがしくに 1906年 稔彦王 久邇宮朝彦親王第9王子 16世 稔彦王

旧皇族の系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93代天皇
後伏見天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北朝初代天皇
光厳天皇
 
北朝2代天皇
光明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北朝3代天皇
崇光天皇
 
北朝4代天皇
後光厳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伏見宮
栄仁親王
 
北朝5代天皇
後円融天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伏見宮
治仁王
 
伏見宮
貞成親王
 
100代天皇
後小松天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
101代天皇
称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102代天皇
後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伏見宮
貞常親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔現皇室〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伏見宮
邦家親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山階宮
晃親王
 
 
 
 
 
久邇宮
朝彦親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北白川宮
能久親王
 
伏見宮
貞愛親王
 
閑院宮
載仁親王
 
東伏見宮
依仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山階宮
菊麿王
 
賀陽宮
邦憲王
 
久邇宮
邦彦王
 
梨本宮
守正王
 
朝香宮
鳩彦王
 
東久邇宮
稔彦王
 
竹田宮
恒久王
 
北白川宮
成久王
 
伏見宮
博恭王
 
閑院宮
春仁王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山階宮
武彦王
 
賀陽宮
恒憲王
 
久邇宮
朝融王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹田宮
恒徳王
 
北白川宮
永久王
 
伏見宮
博義王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北白川宮
道久王
 
伏見宮
博明王
註:曙色背景は皇籍離脱時の当主。東伏見宮家は依仁親王はすでに薨去しており、未亡人の周子妃が当主。

皇室典範増補による臣籍降下の規定のうち、当てはまる皇族が準則の廃止まで一人も存在しなかったため、「皇玄孫の系統四世(=5~8世)以内の長子孫以外」の降下の例はない[注釈 9]

1947年(昭和22年)に臣籍降下した51名の一覧[編集]

宮家 読み 身位 年齢 備考
伏見宮 博明 ひろあき 2/ 16 1/第26代当主
博義王第1男子。
朝子 ときこ 4/王妃 46 博義王妃。
光子 みつこ 女王 19 博義王第1女子。
章子 あやこ 女王 14 博義王第2女子。
閑院宮 春仁 はるひと 2/ 46 1/第7代当主
載仁親王第2男子。
直子 なおこ 4/王妃 40 春仁王妃。
山階宮 武彦 たけひこ 2/ 50 1/第3代当主
菊麿王第1男子。
北白川宮 道久 みちひさ 2/ 11 1/第5代当主
永久王第1男子。
房子 ふさこ 3/内親王
王妃
58 3代当主の成久王妃。
明治天皇第7皇女。
祥子 さちこ 4/王妃 32 4代当主の永久王妃。
肇子 はつこ 女王 9 永久王第1女子。
梨本宮 守正 もりまさ 2/ 74 1/第2代当主
久邇宮朝彦親王第4男子。
伊都子 いつこ 4/王妃 66 守正王妃。
久邇宮 朝融 あさあきら 2/ 47 1/第3代当主
邦彦王第1男子。
俔子 ちかこ 4/王妃 69 邦彦王妃。
静子 しずこ 4/王妃 64 多嘉王妃。
朝子 あさこ 女王 21 朝融王第2女子。
邦昭 くにあき 2/ 19 朝融王第1男子。
通子 みちこ 女王 15 朝融王第3女子。
英子 ひでこ 女王 11 朝融王第4女子。
朝建 あさたけ 2/ 8 朝融王第2男子。
典子 のりこ 女王 7 朝融王第5女子。
朝宏 あさひろ 2/ 4 朝融王第3男子。
賀陽宮 恒憲 つねのり 2/ 48 1/第2代当主。
邦憲王第1王子。
敏子 としこ 4/王妃 45 恒憲王の妃
邦寿 くになが 2/ 26 恒憲王第1男子
治憲 はるのり 2/ 22 恒憲王第2男子。
章憲 あきのり 2/ 19 恒憲王第3男子。
文憲 ふみのり 2/ 17 恒憲王第4男子。
宗憲 むねのり 2/ 16 恒憲王第5男子。
健憲 たけのり 2/ 6 恒憲王第6男子。
東伏見宮 周子 かねこ 4/王妃 72 初代当主依仁親王妃。
竹田宮 恒徳 つねよし 2/ 39 1/第2代当主
恒久王第1男子。
光子 みつこ 4/王妃 33 恒徳王妃。
恒正 つねただ 2/ 8 恒徳王第1男子。
恒治 つねはる 2/ 4 恒徳王第2男子。
素子 もとこ 女王 6 恒徳王第1女子。
紀子 のりこ 女王 5 恒徳王第2女子。
朝香宮 鳩彦 やすひこ 2/ 61 1/初代当主
久邇宮朝彦親王第8男子。
孚彦 たかひこ 2/ 36 鳩彦王第1男子。
千賀子 ちかこ 4/王妃 27 孚彦王妃。
富久子 ふくこ 女王 7 孚彦王第1女子。
誠彦 ともひこ 2/ 5 孚彦王第1男子。
美仍子 みのこ 女王 3 孚彦王第2女子。
東久邇宮 稔彦 なるひこ 2/ 61 1/初代当主
久邇宮朝彦親王第9男子。
聡子 としこ 3/内親王
王妃
52 稔彦王妃。
明治天皇第9皇女。
盛厚 もりひろ 2/ 32 稔彦王第1男子
成子 しげこ 3/内親王
王妃
23 盛厚王妃。
昭和天皇第1皇女。
信彦 のぶひこ 2/ 3 盛厚王第1男子。
文子 ふみこ 女王 2 盛厚王第1女子。
俊彦 としひこ 2/ 19 稔彦王第4男子。

臣籍降下時点における皇位継承順位[編集]

大正天皇をとする
伏見宮邦家親王をとする

[19] [20] [21] [22]


降下後の旧皇族の男系男子[編集]

伏見宮[編集]

  • 現当主は離脱時のまま第26代目の伏見博明(博明王) 。 (1932-01-26) 1932年1月26日(89歳)。
    • 博明の子3人は全員女子であり、将来的に嫡流断絶の見込み。ただし、叔父華頂博信(1926年(大正15年)に皇籍離脱)に息子がある。

山階宮(嫡流断絶)[編集]

  • 皇籍離脱時の当主:武彦王の死去により1987年(昭和62年)、嫡流では断絶。
  • 武彦王の弟は山階芳麿筑波藤麿鹿島萩麿葛城茂麿の4人がいるが、1929年(昭和4年)までに全員が臣籍降下している。
    • 藤麿には3人、茂麿には2人男子がいて孫の宏彦(1971年生)がいる。
  • 山階芳麿の養子山階芳正(浅野侯爵家より養子入り)が同家の祭祀を継承している。

久邇宮[編集]

  • 現直系当主は第4代当主の久邇邦昭(邦昭王)。 (1929-03-25) 1929年3月25日(92歳)生。
    • 邦昭には息子が2人(朝尊 1959年生・邦晴 1961年生)いる。
  • 邦昭以外の皇籍離脱時の第3代当主久邇宮朝融王の男系子孫は次の通り
    • 次男朝建王には一男がある。なお、長女は近衞忠大三笠宮崇仁親王の外孫)夫人。
    • 三男朝宏王には男子なし[23]。朝宏によれば、邦昭兄弟の孫の世代では、男子は2018年時点で就園前の幼児(2010年代生)が1人だけだという[23]

賀陽宮[編集]

  • 皇籍離脱時の当主:恒憲王の死後、長男:邦寿王1986年(昭和61年)に死去し、嫡流では断絶。
  • 邦寿以外の恒憲王の男系子孫は次の通り

梨本宮(男系断絶)[編集]

  • 皇籍離脱時の当主:守正王の死去によって男系は断絶した。未亡人伊都子元妃は、当初は孫の広橋儀光(次女規子女王の子)を、次いで甥の龍田徳彦多嘉王静子妃の第三王子、1943年(昭和18年)に臣籍降下)を養子とした。徳彦の死後は血縁関係にない神林隆夫が養子となって梨本家を継いでいる。
  • 徳彦と離婚した妻久邇正子との男子に徳久(1946-2011)がおり、その子には吉光(1980年生)がいる。
  • なお、守正王・伊都子妃の長女で、李王垠に嫁した方子女王は1989年(平成元年)に逝去し、その子李玖も子の無いまま2005年(平成17年)に死去した。

朝香宮[編集]

東久邇宮[編集]

  • 初代稔彦王の妃は、明治天皇第九皇女の泰宮聡子内親王。二代目当主盛厚王の妃は、昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王。三代目当主は信彦王
  • 現当主は信彦王の長男:東久邇征彦(1973年4月3日生)である。征彦は昭和天皇の初曾孫であり、今上天皇の従甥(従兄の子)となる。征彦には長男と次男(前者は2010年生、後者は2014年生)がいる。
  • 稔彦・聡子夫妻の子(征彦の大叔父)は次の通り
    • 彰常王は1940年(昭和15年)5月に臣籍降下し、二男がある。
    • 俊彦王ブラジルに帰化し、その子らもブラジル人である。
  • 盛厚・成子夫妻の子(征彦の叔父)は次の通り
    • 東久邇眞彦には、2人の男子があり(照彦 1979年5月11日生・睦彦 1980年11月13日生)、そのうち照彦には男子がいる(2004年生)。
    • 壬生基博壬生家に養子に行き、基成(1979年9月22日生)・基敦(1982年5月8日生)の二男がいる。基成と基敦にはそれぞれ男児がいる(前者は2008年生、後者は2010年生)。

北白川宮(男系断絶)[編集]

竹田宮[編集]

閑院宮(男系断絶)[編集]

  • 皇籍離脱時の当主、閑院宮春仁王直子妃と1966年(昭和41年)に子の無いまま離婚。春仁王の死去により1988年(昭和63年)断絶。

東伏見宮(男系断絶)[編集]

  • 皇籍離脱時に東伏見宮妃周子のみ。周子元妃の死去により1955年(昭和30年)断絶。
  • 久邇宮邦彦王の第三王子、東伏見慈洽が1931年(昭和6年)に臣籍降下をして同家の祭祀を継承している。長男は東伏見韶淑、次男は東伏見慈晃、三男は東伏見睿淑である。慈晃の子に光晋(憲和)(1977年生)が、睿淑の子に禎容(1981年生)がいる。

著名な活動がある者[編集]

旧皇族[編集]

旧皇族の子孫[編集]

旧皇族の親族等[編集]

旧皇族邸[編集]

すべて都心6区に所在している。京都に別邸もある。

朝香宮邸(現:東京都庭園美術館)
京都御苑内、旧閑院宮邸
邸宅 建物 現在 所在地 位置
朝香宮邸 現存 東京都庭園美術館 東京都港区白金台 地図
賀陽宮邸 千鳥ケ淵戦没者墓苑 東京都千代田区三番町 地図
閑院宮邸 [注釈 10] 衆議院議長公邸参議院議長公邸  東京都千代田区永田町 地図
北白川宮邸 グランドプリンスホテル新高輪国際館パミール 東京都港区高輪 地図
久邇宮邸 一部現存[注釈 11] 聖心女子大学構内パレス 東京都渋谷区広尾 地図
竹田宮邸 現存 グランドプリンスホテル貴賓館 東京都港区高輪 地図
梨本宮邸 東京都児童会館 東京都渋谷区渋谷 地図
東久邇宮邸 放火焼失 ホテルパシフィック東京 東京都港区高輪 地図
東伏見宮邸 現存 常陸宮 東京都渋谷区東 地図
伏見宮邸 ホテルニューオータニ 東京都千代田区紀尾井町 地図
山階宮邸 ふじみこどもひろば 東京都千代田区富士見 地図

旧皇族の皇籍復帰をめぐって[編集]

近代以前の朝廷では、皇籍復帰例が複数ある。直近最後の例は清棲家教であり、旧皇族と同じく伏見宮邦家親王の子である。幼少期に臣籍降下し澁谷家教となっていたが、1888年(明治21年) 6月28日に伏見宮家に復帰し、同日付で清棲家教伯爵となった。旧皇室典範では、離脱も復帰も定義されていなかったが、先述の通り1907年(明治40年)の皇室典範増補によって皇籍復帰は禁じられた。現行の皇室典範でも、第11~14条で離脱は定義されているが、復帰は規定されていない(第15条により「皇族以外の者」は婚姻の他、皇族となることができない)。

かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょうか[24]。しかし、適任の方がおられなければ、それはが皇室を不要と判断されるのでしょう。 — 加藤進・宮内次長。11宮家の皇籍離脱についての重臣会議において、「皇統が絶えることになったなら」と懸念する鈴木貫太郎元首相に対して[25]

1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生までの41年間、男子の誕生がなかった。一方、現行の皇室典範の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができないため、近い将来に皇位継承資格者が存在しなくなる皇位継承問題が予想されている。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から男系男子を補充して皇族の数を維持しようという案が提示されている。しかし、その実現には法改正が必要である。具体的な方法については旧皇族男性を現在の皇族の養子とする、旧皇族中の男系男子を未婚の皇族女子と結婚させるなどの案が提示されている。小泉純一郎首相の私的諮問機関皇室典範に関する有識者会議」は旧皇族男性を養子にする案については「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解が出された。

イギリスではイギリス王位継承権を持つものが4000人以上おり、全ての王位継承権保持者の最も近い共通祖先ハノーファー選帝侯妃ゾフィー(1630-1714)夫妻である(1701年王位継承法の要件を満たす唯一の人物がゾフィーであるため)。これは室町時代に現皇室と枝分かれした旧皇族と非常に似通っている。なお女系も含めると現皇族と旧皇族の最も近い共通祖先は霊元天皇(1654-1732)である。ただし立場上の問題から、旧皇族が積極的に皇族身分への復帰を表明することはない。2019年4月30日に放映されたNHKスペシャル「日本人と天皇」の取材班が、旧皇族に対し、皇族に復帰する気持ちの有無を問う質問状を送付したが、全員が回答を拒否した[26]

皇室・旧宮家との近親関係[編集]

皇后[編集]

貞明皇后(九条節子)の親族
  • 賀陽家
賀陽家は恒憲王妃敏子が貞明皇后の姪(貞明皇后の兄九条道実の五女)にあたり、敏子妃は昭和天皇の母方の従妹にあたる。恒憲・敏子夫妻の子は、上皇明仁の又いとこ(はとこ)同士となる。
  • 山階家
山階家は貞明皇后の姉九条範子山階宮菊麿王に嫁し、その子である武彦王らは昭和天皇といとこ同士。1929年(昭和4年)までに、武彦王を除き、男子全員が臣籍降下している。
香淳皇后(良子女王)の実家
  • 久邇家
久邇家は久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王(のちの香淳皇后)を通して現在の皇室と近しい親族関係にある。
久邇宮朝融王の第2王子朝建王の長女は、三笠宮崇仁親王の外孫近衞忠大と結婚している。また、朝融王の長女正子女王は、龍田徳彦(梨本宮守正王の弟多嘉王の子、臣籍降下)に降嫁し、皇籍離脱後の梨本家に養子に入ったが、後に離婚した。

天皇の女婿[編集]

明治天皇の女婿たる家
  • 竹田家・北白川家・朝香家・東久邇家
明治天皇の第六皇女・昌子内親王竹田宮恒久王妃、第七皇女・房子内親王北白川宮成久王妃、第八皇女・允子内親王朝香宮鳩彦王妃、第九皇女・聡子内親王東久邇宮稔彦王妃である。このうち、竹田・朝香・東久邇の各宮家は婚姻に際して新設されている。
各内親王の子孫は、女系で皇室と近しい親族関係にあり、子は昭和天皇といとこ同士、孫は明仁上皇と又いとこ(はとこ)同士となる。
昭和天皇の女婿たる家
  • 東久邇家
東久邇宮稔彦王は明治天皇第九皇女の泰宮聡子内親王と結婚しており、上皇明仁の義理の大叔父に当たると同時に久邇宮家出身の香淳皇后を通して実の大叔父にもあたる。
稔彦王の第一王子の盛厚王は昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王と結婚しており、盛厚王は上皇明仁の従叔父(父母の従弟)であると同時に義兄でもある。盛厚・成子夫妻の子は、男系であると同時に、女系で現在の皇室と非常に近しい親族関係にあり、今上天皇とはいとこ同士である。

[編集]

秩父宮妃勢津子(松平節子)の親族
  • 梨本家
梨本宮守正王の妃伊都子は、秩父宮妃勢津子(伊都子の妹松平信子の長女)の伯母にあたる。
伊都子元妃は龍田徳彦(梨本宮守正王の弟多嘉王の子)と正子(久邇宮朝融王の長女、香淳皇后の姪)夫妻を養子にしたが、夫妻は後に離婚した。
常陸宮妃華子(津軽華子)の親族
  • 北白川家
第4代永久王の妃で、第5代道久王の母祥子徳川義恕男爵の次女)は、常陸宮妃華子の叔母にあたる。道久・肇子兄妹と華子妃はいとこ同士となる。
  • 竹田家
竹田宮妃光子(三条光子)の姉博子は、華子妃の伯父徳川義寛の夫人。

明治天皇皇女・昭和天皇皇女と旧皇族[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇
(1852-1912)
在位
1867-1912
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇
(1879-1926)
在位
1912-1926
竹田宮恒久王
(1882-1919)
 
昌子内親王
(1888-1940)
北白川宮成久王
(1887-1923)
 
房子内親王
(1890-1974)
朝香宮鳩彦王
(1887-1981)
 
允子内親王
(1891-1933)
東久邇宮稔彦王
(1887-1990)
 
聡子内親王
(1896-1978)
昭和天皇
(1901-1989)
在位
1926-1989
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇
(1901-1989)
在位
1926-1989
竹田恒徳
(1909-1992)
永久王
(1910-1940)
朝香孚彦
(1912-1994)
盛厚王
(1916-1969)
 
成子内親王
(1925-1961)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇
明仁

(1933-)
在位
1989-2019
 
竹田恒正
(1940-)
 
 
 
 
 
北白川道久
(1937-2018)
 
 
 
朝香誠彦
(1943-)
東久邇信彦
(1945-2019)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今上天皇
徳仁

(1960-)
在位
2019-
 
 
竹田家
 
 
 
 
(男系断絶)
 
 
 
 
朝香家東久邇家


フィクションにおける旧皇族[編集]

女王蜂横溝正史
1951年(昭和26年、連載当時の現代)の日本を舞台とした推理小説。作中のキーパーソンが連なる架空の旧宮家として「衣笠宮(きぬがさのみや)」が登場する。

参考文献[編集]

  • 編集委員:北條誠酒井美意子、霜山操子『皇女照宮』秋元書房、1973年7月。ASIN B000J9GT2U
  • 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文藝春秋文春文庫〉、1988年3月。ISBN 978-4167472016。
  • 女性自身編集部 編『昭和の母皇太后さま : 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 : 保存版』光文社、2000年7月。ISBN 4334900925。
  • 原武史『皇后考』講談社、2015年2月。ISBN 978-4062193948。
  • 小松大秀監修『明治150年記念 華ひらく皇室文化 −明治宮廷を彩る技と美−』青幻社、2018年4月。ISBN 978-4861526442。
  • 根岸豊明『新天皇 若き日の肖像』新潮社新潮文庫〉、2019年2月1日。ISBN 978-4101004365。
  • 浅見雅男『闘う皇族 ある宮家の三代』角川書店〈角川選書〉、2005年。ISBN 4047033804
  • 加瀬英明『天皇家の戦い』新潮社〈新潮文庫〉、1983年。ISBN 4101309019
  • 広岡裕児『皇族』中央公論新社〈中公文庫〉、2002年。ISBN 4122039606
  • 大蔵省財政史編纂室編『昭和財政史-終戦から講和まで-』第4巻 東洋経済新報社、1977年、144-163頁(第3章 新財政制度の発足 第3節 皇室財政の改革)。
  • 新潮社『週刊新潮』2011年12月15日号

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 竹田恒泰によれば、宮内庁は1947年に皇籍離脱した11宮家51人の王、王妃、女王を「元皇族」、その中で当時宮家の当主だった王を「旧皇族」と定義しているという[1]
  2. ^ ルーツである欧州の「ボンボン入れ」とは全く異なる発展を遂げ、日本の意匠が凝らされ、その工芸技術を国際的に広める役割を担った。
  3. ^ 直系尊属の天皇から数えた数。
  4. ^ 貞常親王が後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された年。
  5. ^ 照高院宮と称したのは1868年。
  6. ^ 梶井宮と称したのは梶井宮。
  7. ^ 当主東伏見宮依仁親王は離脱前の1922年に薨去。
  8. ^ 庶長子
  9. ^ 1947年(昭和22年)当時、すでに宮家の当主であった北白川宮道久王伏見宮博明王並びに各宮家の嗣子である邦昭王・誠彦王・信彦王・恒正王(=附則による4世王)はいずれも幼少であり、その子(=附則による5世王に相当)は父親の臣籍降下(皇籍離脱)後に誕生している。
  10. ^ 東京奠都(1896年)の前に住んでいた屋敷は京都府京都市上京区に復原されている。
  11. ^ 御常御殿。

出典[編集]

  1. ^ ブログ開設しました! 産経新聞朝刊に注目! 竹田恒泰blog 2006年2月1日
  2. ^ 『華ひらく皇室文化』 2018 p.109
  3. ^ 『華ひらく皇室文化』 2018 p.106
  4. ^ 『華ひらく皇室文化』 2018 p.171
  5. ^ 原 2017 p.452-453
  6. ^ 「戦後日本の出発:元宮内次官の証言」『祖国と青年』第71号
  7. ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.397
  8. ^ 参議院内閣委員会”. 第4号. 第43回国会. (1963-02-21). https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104314889X00419630221 
  9. ^ 1951年(昭和26年)7月29日 夕刊読売「皇太子妃候補の令嬢たち」
  10. ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.88-89
  11. ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.89
  12. ^ 根岸 2019 p.153
  13. ^ 昭和の母皇太后さま 2000 p.28
  14. ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.125
  15. ^ 昭和の母皇太后さま 2000 p.28
  16. ^ 皇女照宮 1973 p.270-272
  17. ^ 『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2009 p300
  18. ^ a b c d e f g 皇室典範 (1889年)第3条~第7条。
  19. ^ p. 2-5, "Japanese Royalty" Japan Year Book 1939, Kenkyusha Press, Foreign Association of Japan, Tokyo
  20. ^ Genealogy of the House of Fushimi
  21. ^ Genealogy of the Fushimi-no-miya (jp)
  22. ^ Bix, Herbert P. (2001). Hirohito and the making of modern Japan (Book) (1st Perennial ed.). New York: Perennial. pp. 382–383. ISBN 978-0060931308 
  23. ^ a b c “「圭くん」に代わる「眞子さま」のお相手も? 女性皇族「お相手候補リスト」にある名前”. 週刊新潮. (2018年11月8日号). https://www.dailyshincho.jp/article/2018/11130800/?all=1 2019年8月12日閲覧。 
  24. ^ 朝日新聞 2005年11月19日付朝刊38面
  25. ^ 八木秀次皇室制度に関する有識者ヒアリング (PDF) 」(平成24年7月5日)
  26. ^ 八幡 和郎 (2019年5月1日). “NHKが旧宮家に皇族復帰の希望を書面で回答要求”. アゴラ. 2019年6月2日閲覧。

関連項目[編集]