明極楚俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
明極楚俊
1262年 - 1336年
諡号 仏日燄慧禅師
生地 明州(寧波
没地 京都
宗派 臨済宗(燄慧派)
寺院 建長寺南禅寺建仁寺広巌寺[1]
虎巌浄伏
著作 明極和尚語録

明極楚俊(みんきそしゅん、弘長2年(1262年) - 建武3年9月27日1336年9月28日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、から日本へ渡来した禅僧。明極は法諱が楚俊。俗姓は黄。仏日燄慧(えんね)禅師。

人物・来歴[編集]

元での禅名[編集]

南宋時代の景定3年(1262年)、明州慶元府昌国で生まれる。1273年、12歳の時に霊巌寺の竹牕喜を拝して剃髪受具(出家)。育王山の横川如珙に参じて悟りを得る。その後、霊隠寺の虎巌浄伏の門に移って侍香として仕え、虎巌の法を嗣ぐ。また天童寺に赴いて止泓道鑑に侍して蔵鑰となり、その後金陵(南京)の奉聖寺に出世。瑞巌寺・普慈寺の両寺に歴住した後、婺州双林寺主となるなど、すでに元の禅宗界において高名な存在であった。径山(きんざん)の前堂首座(しゅそ)として居していた天暦2年(1329年、日本では嘉暦4年)、日本の大友貞宗からの使節に招請され渡日を受諾。竺仙梵僊を伴い、天岸慧広・物外可什・雪村友梅と同船して5月に博多へ入港した。このときすでに68歳であった。

来日後[編集]

元徳2年(1330年)、鎌倉幕府に招かれて関東へ下向する途中、京都後醍醐天皇に拝謁して法問を受け、仏日燄(焔)慧禅師の号を賜る。同年2月、得宗北条高時の要請で建長寺住持となり、竺仙が前堂首座としてこれを支えた。この頃、元弘の変で流謫した後醍醐天皇の復位を予言したという。変後、はたして復位した後醍醐天皇に招かれて元弘3年(1333年)上京、南禅寺第十三世として迎えられる。翌建武元年(1334年)には南禅寺は京都五山の第一とされた。同年、建仁寺に移り、第二十四世となる。また摂津広巌寺[1]を開山。同3年(1336年)、建仁寺方丈にて入寂。享年75。遺偈に「七十五年 一條生鐵 大地粉碎 虚空迸裂」。著書に『明極和尚語録』があり、法嗣に懶牛希融、草堂得芳らがおり、明極派もしくは燄慧派と称される。

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b wikipedia広巌寺の項に”一方で『大清和尚語録』には、当寺は楠木正成戦死の翌年に赤松範資が建立し、その子光範が落成したとある”との異説があることを付記しておく。楠木正成戦死の翌年は、1337年であり入寂後になる。詳しくはwikipedia広巌寺の項参照。

関連項目[編集]