明石家さんま

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明石家あかしや さんま
Gomaisasa.svg
笑福亭一門定紋である「五枚笹」
本名 杉本すぎもと 高文たかふみ
ニックネーム さんまちゃん
さんちゃん
お笑い怪獣
別名義 笑福亭さんま(旧名)
生年月日 (1955-07-01) 1955年7月1日(64歳)
出身地 日本の旗 日本奈良県奈良市
血液型 B型
身長 172 cm[1]
言語 日本語
方言 関西弁
最終学歴 奈良県立奈良商業高等学校[2]
(現・奈良県立奈良朱雀高等学校
師匠 2代目笑福亭松之助
事務所 吉本興業(マネジメント)
オフィス事務所(個人事務所)
活動時期 1974年 -
同期 島田紳助
オール巨人
桂小枝
現在の代表番組 レギュラー番組
痛快!明石家電視台
踊る!さんま御殿!!
ホンマでっか!?TV
さんまのお笑い向上委員会
ヤングタウン土曜日
ほか
スペシャル番組

さんまのまんま
FNS27時間テレビ
明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー
さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル
さんタク
明石家さんまのコンプレッくすっ杯
明石家さんまの転職DE天職
さんまの東大方程式
さんま&女芸人お泊まり会
ほか
過去の代表番組 オレたちひょうきん族
笑っていいとも!
あっぱれさんま大先生
明石家マンション物語
恋のから騒ぎ
さんまのSUPERからくりTV
ほか
配偶者 大竹しのぶ(1988年 - 1992年)
親族 IMALU(実娘)
受賞歴
  • 1982年 花王名人大賞 新人賞
  • 1982年 日本放送演芸大賞 ホープ賞
  • 1983年 日本放送演芸大賞 奨励賞
  • 1985年 日本放送演芸大賞 優秀賞
  • 1985年 花王名人大賞 大衆賞
  • 1986年 ゴールデン・アロー賞 芸能賞
  • 1986年 日本放送演芸大賞 特別賞
  • 1987年 日本放送演芸大賞 大賞
  • 1999年 ギネス世界記録
    (日本で最も露出の多いテレビスター)
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明石家 さんま(あかしや さんま、1955年〈昭和30年〉7月1日 - )は、日本お笑いタレント吉本興業所属。本名は杉本 高文(すぎもと たかふみ)で、番組企画・構成等では本名名義でクレジットされることもある。和歌山県串本町出身で、奈良県奈良市育ち[2]

元々は落語家を志して2代目笑福亭松之助の弟子となり、高座名・笑福亭さんまとしてデビューするが、師匠の推薦でタレントに転向し、屋号を明石家に変えた。1970年代後半から現在まで芸能界の第一線で活躍を続けている国民的お笑いスターの1人であり、ビートたけしタモリと並び「お笑いBIG3」の1人に称される。

来歴[編集]

1955年に和歌山県串本町の水産加工業の次男として生まれる。その後3歳の時に奈良県に転居。出身小学校である奈良市立鼓阪小学校には、小学生当時に捕まえたムササビが展示されている。また当時は「ムササビを捕まえた少年」として話題になった。教師の薦めで東大寺学園中学校を受験したが不合格となり、その後奈良市立三笠中学校に進学した[3]奈良県中学生相撲大会で2位になったことがある。一方、中学時代に相撲部に入部していた期間は「1週間程度」とさんま本人が後年テレビ番組で話している[4]。 奈良商業高校時代は授業を抜け出してパチンコに興じ、得た収入を仲間に分配していた事を後にラジオで告白している[5]

弟子入り[編集]

1974年2月、高校3年の時に笑福亭松之助に弟子入り[2]。入門の動機は、花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったからだという。初めて顔を合わせた際、松之助に「なぜ僕を選んだのか」と入門の理由を問われたさんまは「センスがよろしいから」と、素直な気持ちを伝えたつもりで、非常に失礼な発言をした。これに対し松之助は「そら、おおきに」と礼を言った[6]。この日すぐ松之助はさんまを自身の仕事先であるラジオ局に連れて行った[6]

高校卒業後の3月に正式に内弟子修行を開始[6]。入門生活は丸刈りにされること以外はあまり厳しくなく、放任主義だったという[7]。下積み時代は兵庫県西宮市今津久寿川町「第一久寿川荘」に在住。当初の高座名は「笑福亭さんま」。「さんま」の由来は、さんまの実家がさんまの水産加工業を営んでいたため[8]

さんまは入門して半年もしないうちに初舞台を踏んだが、しかし内弟子修行を放り出して、交際していた女性と共に上京し[9]、東京で一旗揚げようと試みた[10](いわゆる「さんま駆け落ち事件」)。松之助は入門当初よりも痩せていくさんまを見て、「女ができたな」と理解し、「若い時にはいろいろある」として、さんまの思うままにさせた[10]。しかし、東京での生活はうまくいかず、さんまは一時帰阪した際、松之助から借りていた本[10]を返すという口実で、松之助宅を訪ねたが、松之助はさんまを一切叱ることなく、明るい声でさんまを元気づけた。このときは正式な弟子復帰に至らなかったが、松之助は「さんまが帰ってくるから、よろしゅう頼むわなぁ[10]」と上方落語界や吉本興業への根回しをしており、直後にさんまと交際していた女性が別の男性と結婚し、さんまは内弟子修行に戻ることを決意して、なんば花月の松之助の楽屋を訪ねた際、松之助は「何もいうな、ついてこい![10]」と、師弟で初めて食事に行ったラーメン店[11]にさんまを連れ出した。

関西ローカル時代[編集]

さんまは1976年1月、テレビデビューを果たす。「11PM」の読売テレビ制作担当日(大阪イレブン)にて放送された、20歳を迎える上方落語家をスタジオに集めてトークする企画「落語家の成人式」に、さんまは同期の桂小枝らと出演することになった。松之助は、「人と同じことして売れるはずがない」として、着物ではなく「赤いブレザーを着ていけ」と指示した[6]。番組内では、進行役の海原千里(上沼恵美子)から、「性の四十八手以外に知っている技がある人は?」という質問・フリに対し、さんまだけが手を挙げ「逆さ十文字落としでぇーす」と答えて技を説明した。スタジオは爆笑だったが司会の藤本義一に、「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!」と本番放送中にも関わらず叱責される。しかし、番組に出演していた横山やすしに「飲みに行こ!」と気に入られ、翌日やすしは吉本興業の社員に対し「さんまは面白い」と売り込んでくれたと言う。この放送を見ていた松之助は、のちにさんまを大いに絶賛している。松之助曰く、出演者の多くが着物姿の中、忠告に従って営業用の赤いブレザーを着用して放送に臨み、またよくしゃべったさんまは目立ったという[6]

吉本興業社員・佐敷愼次は、当時のさんまに「口数が少なくて人見知りするタイプ。ところが、人と交わると別人のように変わって輝く」という印象を持っていた。そこで佐敷は松之助に「さんまを(座布団から)立たせたい」と打診。これはさんまに落語をやめさせ、漫談家やテレビ司会者として育成したいという意味であったが、松之助はそれから間もなさんまを落語家からタレントに転身させた。兄弟子の小禄と漫才コンビを組むが、屋号が笑福亭のままではマズいという事で、屋号を明石家に変更し、明石家さんまを名乗るようになる。漫才では合間に小禄のアドリブで小林繁(当時は読売ジャイアンツ投手)の投球フォームを披露するように言われ、それが受けたりして徐々に人気が高まっていた[12]。1977年6月に正式にタレントとして吉本興業と契約[13]

そうした活躍によって桂三枝の目に留まり、毎日放送の人気番組「ヤングおー!おー!」にコンビで定期的に出演するようになり、1978年頃[12]からレギュラー出演を果たす。三枝の愛称「サニー」にあやかって「チャッピー」と愛称を付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわす。4代目林家小染月亭八方桂きん枝桂文珍の番組内ユニット「ザ・パンダ」を改編して、さんまを加入させた「サニーズ・オオサカスペシャル(S.O.S)」を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになり、単独でレコードが発売されるなど、やがて関西を中心にアイドル的な人気となる、またこの時期は小禄とのコンビを解消した後は、漫談家として舞台に立つ傍ら、B&B島田洋七島田洋八)、西川のりお・上方よしおザ・ぼんちぼんちおさむ里見まさと)らと、「ビールス7」というコントユニットを組んでいた。

初めてのメディアでのレギュラー番組は、1978年の毎日放送「ふれあい広場決定版」[12]。初の司会者担当番組としては1979年に関西テレビで午後7時から放送された番組「誰がカバやねんロックンロールショー」。

全国区のスターに[編集]

東京での初仕事は1978年のフジテレビの正月特番の「はつもうで、三枝の爆笑ヒットパレード」であった。そしてこの番組に出演した際に当番組プロデューサーであった横澤彪と出会い、「スター千一夜」に出演するなど、その後横澤が担当した多くの番組に重用される事になる。同じ頃の1979年10月にはニッポン放送で「明石家さんまのオールナイトニッポン」などレギュラーをもつなど徐々に東京にも進出しはじめ、1980年代に入ると、漫才ブームに乗っかって「THE MANZAI」等に出演して、春風亭小朝と即興漫才を披露したり、1980年放送開始の「笑ってる場合ですよ!」でレギュラーとなる。そして1981年にスタートした「オレたちひょうきん族」へのレギュラー出演。同年放送スタートの「さんまのサタデーナイトショー」(テレビ東京)で、冠番組を獲得している。1984年4月からは「笑ってる場合ですよ!」の後番組の「笑っていいとも!」にも金曜日にレギュラー出演するなど、大阪中心から東京中心に活躍の場を移していくとともに、当時はまだまだ下に見られていた東京での大阪芸人としての地位を築いていく。東京での初めてのドラマ出演は1980年10月からTBS系列で半年間放送した「天皇の料理番」であった。

1985年、第1回東京国際映画祭において、タモリとともに司会を務める。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」「ソフィー・マルソー知っとるケと言う始末」と新聞紙面上で非難される。そのため元々2回目以降もずっと総合司会を任される予定であったが、1回でクビになった[14]。その事についていいとも金曜日で、タモリといっしょに「始末か!オレたちは!」と叫び、挙手をしながら「私がやりました!」とネタにするなど、笑いを誘った。

この時期、特に多忙を極め、大阪と東京を週に何往復もしていたが、1985年8月12日、「MBSヤングタウン」レギュラー出演のため、伊丹行きの日本航空123便に搭乗する予定だったが、直前の仕事である「ひょうきん族」の収録が早めに終わり、一便早い全日空の便に振り替えたため、日本航空123便墜落事故を免れた。同日の「ヤングタウン」では、「いつも使ってる便やから…」とショックを隠せず、この経験を機に、東京―大阪間の移動などは新幹線を利用するようになった。また、この経験から生まれたさんまの座右の銘が「生きてるだけで丸儲け」であり、娘IMALUの名前の由来になっている[15]。この当時1年3ヶ月「同棲」関係のあった「東京の愛人」とのツーショット写真が掲載されるも明るく陽気に笑い飛ばし、大きなスキャンダルになることもなかった[16]

1986年7月よりTBSテレビドラマ男女7人夏物語』、1987年10月よりその続編である『男女7人秋物語』に主演し、いずれも最高視聴率が30%を越えるなど名実ともに国民的スターとなる。

1987年4月、ナムコ(現在のバンダイナムコエンターテインメント)がファミリーコンピュータ用ソフト『さんまの名探偵』を発売し人気を博す。しかし吉本興業が水面下で本人の許可を取らずにメーカーに制作・発売を許可した為、事実を知ったのは発売後であった。

同年の7月18日 - 7月19日にかけて生放送された『第1回FNS27時間テレビFNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』の総合司会をタモリと共に担当。深夜のコーナーでフライデー事件で謹慎していたビートたけしが登場。これをきっかけにしてフジテレビが、タモリとビートたけしにさんまを加えた形で、正月にゴルフ番組をしようとする企画が生まれ、そのタイトルが「BIG3」となり、結果的にこの3人がBIG3とよばれるようになった。翌1988年は司会を辞退したが、1989年にも『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島'89』の総合司会を再びタモリと共に担当した。

結婚・そして離婚[編集]

1988年10月、男女七人夏物語で共演し、秘密裏に交際していた大竹しのぶと結婚。翌1989年、IMALUが誕生。

1989年10月で『ひょうきん族』が放送終了すると同時に、しばらくは育児に専念するために仕事をセーブするようになり、全国ネットのレギュラー番組も『笑っていいとも』金曜日、『さんまのまんま』、『あっぱれさんま大先生』だけとなり、ゴールデン帯のレギュラー番組が一時期なくなっていた。また1991年にはOVA『リリが見たやさしい虹』を原案および声優(ジョー役)として参加(リリ役は大竹しのぶ)。また絵本としてもさんま名義で出版(ストーリーは脚本家君塚良一が作っていた)するなど家庭的なイメージを見せていたが、しかしそれにより5年連続して1位だったNHKの『好きなタレント調査』で15位にまで急落するなど、一時的に人気に陰りが見えていた[17]

1992年9月、大竹しのぶと離婚。しばらくは8億5千万円の豪邸が中々売却できずに「同情するなら家買って」など自虐ネタなどもギャグにしていた。結局数年後3億円まで落とて売却したために5億円の借金が残り、死ぬか喋るしかない状況になっていたという[18]。そのため1992年4月から、『さんまのからくりTV(1996年4月から『さんまのSUPERからくりTV』)』、1993年4月から『さんまのナンでもダービー 』、1994年4月からは『恋のから騒ぎ』がそれぞれ放送開始するなど仕事の量も増やしはじめ、前述の好感度調査も1995年には6年ぶりに1位になり、1998年以降は再び連続して1位になっている。

1995年夏、テレビ朝日系列で『明石家さんま超世界紀行~緑の大地モンゴルに夢を追った少年とさんまの物語』で苦手と公言していた紀行番組に挑戦しモンゴルでロケ敢行。しかし後に広い草原を横断するあまりの過酷なロケに、もう二度としたくないと振り返っていた。また同じ頃には番組スタッフの確執をきっかけに1995年9月をもって、金曜レギュラーとして11年半出演した『笑っていいとも!』を降板。ただしその後も2014年3月のグランドフィナーレを迎えるまで定期的に同番組には出演している。

男女七人秋物語以降は、主演としてのドラマ出演も控えていたが、1990年代後半には年一のペースで主演するようになる。

その他では1996年1月10日にはフジテレビの人気刑事ドラマ「古畑任三郎」シーズン2の初回スペシャルでは古畑の部下である今泉巡査の知り合いでやり手の弁護士・小清水潔を演じる[注 1]。しかしながらセリフが多く、それを覚えられないさんまに対し、主演の田村正和が撮影中に「今度間違えたら自分が帰りますよ」と言ったという。しかし、その直後に田村自身が「古畑任三郎」の中では初めてとなるNGを出してしまい、さんまが「あんた、これ貸しな。これでおあいこや」と田村に冗談交じりに発言した。その事でスタッフ一同は凍りつき、さんまはスタッフに別室に呼び出され、「あれはダメなの」と叱られ、その後は絶対にNGが出せない状況の中でなんとか無事に撮影を終了した。なお第一シーズンは平均視聴率は10%半ばだったが、この放送は視聴率25%をたたき出し古畑を人気シリーズへとを高める役割を果たした。

大御所芸人として[編集]

90年代までは『いいとも』金曜日の雑談コーナーや『車庫入れ事件』に代表されるように、BIG3の立ち位置でもビートたけしタモリにいじられる役割が多かったが[19]、90年代後半あたりから、ナインティナインはじめ一回り以上離れている後輩芸人がどんどん出てきて、お笑いBIG3の一人として大御所の立場に変化しはじめると、後輩芸人に対してお笑いに対してよりストイックになり、そのために本番中であろうがあまりのダメ出しの多さに「めちゃイケ」にゲスト出演した際にナインティナインの岡村隆史から『お笑い怪獣』と呼ばれだしたりして、それがさんまを表す代名詞として定着した[20]。同じ頃、SMAPと親交を深め、多く共演しだすようになり、特番はじめ年一回のレギュラーとして2000年から2016年までは中居正広と『さんま・中居の今夜も眠れない』で共演、2003年からは正月特番として木村拓哉とは『さんタク』で共演している。

2003年、自身としては初めての戦争ドラマに挑戦したTBSドラマの『さとうきび畑の唄』に主演。平成15年度文化庁芸術祭テレビ部門大賞受賞作品するなど極めて高い評価をうけた。しかし戦争映画特有な過酷なロケに対して、もう二度としたくないと言ったり、のちにドラマ内の名セリフ「こんな事をするために生まれてきたんじゃないんですよ」を自らパロディにしたりして笑い話にしたりしている。

2009年に愛娘のIMALUが芸能界デビュー。当初は猛反対していたが、デビューするにあたっては発表前日に突然元妻の大竹から聞かされた後は諦念し、「とにかく人の倍は努力せないけない」とアドバイスを送った[21]

2012年4月8日、なんばグランド花月にて行われた、「吉本興業創業100周年特別公演・伝説の一日」の4回目に出演。大トリとして、「さんまの駐在さん」が15年ぶりに復活した。本公演には、当時のレギュラーメンバーであった月亭八方間寛平村上ショージジミー大西の他に、今田耕司岡村隆史桂三枝西川きよし笑福亭松之助など総勢51名が出演した。

還暦以降[編集]

2015年7月、還暦を迎える。それを記念してフジテレビで『さんまでっか!?TV』、毎日放送で『痛快!明石家電視台 明石家さんま生誕年SP』などが放送され、番組はさんまのゆかりの芸人らが出演し思い出に花を咲かせた[22][23]。 なお、還暦を迎えるにあたっての心境として、千原ジュニアをゲストに迎えた2011年7月2日放送の『さんまのまんま』にて、「いつ(お笑い芸人を)辞めるって決めてるんですか?」と質問されたさんまは「60歳くらいでと思てるよ、テレビはね」と答え、60歳でテレビ引退を示唆[24]、他番組でも「上がいつまでも居座ってどかないと新しいものが生まれない」「60歳でテレビのレギュラー番組を辞めて、仲間たちと舞台をしたい」と本気で若手に譲る意向を見せていた[25][26]。しかし、吉本幹部はじめ芸人仲間の反対、特に爆笑問題太田光に「ぼろぼろになるまでやって欲しい。いま辞めたら、かっこよ過ぎる」などと言われ結局撤回した [27]

2018年にはジミー大西の半生をドラマ化した『Jimmy~アホみたいなホンマの話~』をNETFLIXでプロデュース。これまで構成や企画としての番組参加はあるが、プロデューサーとしての番組制作に携わるのは初めてだった。当初は小出恵介がさんま役を演じ、前年に実際にクランクアップまでされていたが、配信開始直前に小出が不祥事を起こす。そのためお蔵入りの危険もあったが、一番最初オファーされていた玉山鉄二が代役として、さんま役のシーンすべて取り直して再編集した形で当初の予定より1年延期して2018年夏に配信された。さんま自身は本編には出演しなかったものの、毎話のオープニング解説と最終話のラスト後に制作秘話を振り返る形で出演した。なお、さんまは小出についてニューヨークまで会いに行くなど、特にわだかまりはないと発言している[28]

2019年2月22日、師匠であった笑福亭松之助が死去。翌23日、COOL JAPAN PARK OSAKAのこけら落としにおいて『さんま・岡村の花の駐在さん』に出演し、桂文枝・月亭八方と、闘病中のエピソードを披露した[29]。舞台後、通夜に出席し、翌日の葬儀はたまたまオフだったこともあり最初から最後まで参列した[30]

人物[編集]

所属事務所吉本興業。節税と自身のマネージメントを目的とした自宅兼個人事務所「オフィス事務所」も設けており、仕事やギャランティー管理はこちらで行っている。そのため基本的に芸能マネージメント業務は行なっておらず、オフィス事務所にはさんま以外は所属する前提ではない[注 2][31]

師匠は笑福亭松之助。松之助の兄弟子にあたる6代目笑福亭松鶴の弟子の笑福亭仁鶴笑福亭鶴光笑福亭鶴瓶などは従兄弟弟子にあたる。

家族[編集]

1988年9月に大竹しのぶと結婚。1989年9月、大竹との間にに長女・いまるが誕生する。大竹には死別した先夫とのあいだに息子が一人いたが、さんまは実の息子同様に接した。その際、お父さんとは呼びにくいという事で、いまるともども「ボス」と呼ばせ、離婚後もそう呼ばせている。1992年9月に大竹と離婚。離婚直前に二人で見た映画が、仲の良かった夫婦が最後に喧嘩の果てに殺し合いになる内容である『ローズ家の戦争』であることをしばしばネタにしている。離婚後も両者とも再婚することは無く、そのため大竹との仲は良好で良き友人として接しており、番組で共演する事が多い。後に長女・いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界にデビューした。

芸名・愛称[編集]

松之助に弟子入りした当初は「笑福亭さんま」を名乗ったが、「さんま」という芸名は、奈良のさんまの実家が水産加工業を営んでいたことから命名された[32][注 3]。命名時のエピソードとして、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代に芸名を「紳助」と決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐ後に「さんま」という芸名を貰った話を聞いて「こいつ、終わったな」と逆に大笑いされたというものがある。

師匠・松之助の助言により、「11PM」でのテレビデビュー時から亭号を「明石家」に変更している[注 4]。「明石家」は松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもの[33]で、当時は松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていた。松之助はのちに、長男に明石家のんき、次男にパーポ明石と芸名を付けている。

愛称は一般人や芸能界でも年上には「さんまちゃん」と呼ばれる事が多い。年齢が近い所ジョージ桑田佳祐などからは「さんちゃん」「明石家さん」、島田紳助は基本的には「さんま」と呼び捨てだが「杉本」と本名で呼ぶことも多かった。後輩からは「さんまさん」「さんま師匠」がほとんどで、年齢の近く仲が良かった後輩を含めて「兄さん(あるいは兄やん)」と呼ばれる事はあまりなく、ダウンタウン浜田雅功ハイヒール今田耕司などごく少数だけである。またジミー大西などからは「若」、その他一部芸人からは畏怖を込めて「お笑い怪獣」とも呼ばれている。

身体的特徴[編集]

出っ歯」の代表的人物としても有名。冠番組のロゴマークやマスコットで、この出っ歯があしらわれることも多い(「からくりTV」「お笑い向上委員会」など)。「ファーーッ!」という甲高い引き笑い(息を吸い込みながら笑うこと)も特徴的。

デビュー当時から、60歳を超えた現在に至るまで痩躯である。ヘビースモーカーである反面、小食かつ下戸である。

交友関係[編集]

吉本では1980年代から特に村上ショージ間寛平Mr.オクレジミー大西らと番組で共演することが非常に多い。またデビュー当初から島田紳助松本竜介オール阪神らとは一緒に遊んだり、営業に一緒に出演する機会が多く、結婚前は私生活でもお互いの家に出入りする仲であった。紳助が芸能界を引退した後は、実際に会うことは無いが電話がかかってきたりして番組内でしばしば紳助とのエピソードについて言及することがある。吉本以外の芸能人でもゴルフや麻雀仲間としてガダルカナル・タカ笑福亭笑瓶アンジャッシュ児嶋一哉などとプライべートでの親交がある。

ドラマ共演を機に家族ぐるみの付き合いになることがあり、大竹しのぶとはドラマ共演を機に交際に発展し、佐藤浩市とも「恋も2度目なら」の出演を機にプライべートで毎年正月にオーストラリアに旅行に行ったり[34]、バラエティやドラマで共演を重ねた木村拓哉からは『オジキ』と呼ばれるほど慕われる存在となっている[35]

スポーツ関連では、2002年に阪神タイガース監督に星野仙一が就任した際、『さんまのまんま』で「優勝したらパレードに参加して土下座します」と明言し、その翌年の2003年に優勝。さんまは約束通り11月3日のパレードに参加する予定だった。ところが星野監督が辞意を表明した為、「自分がおふざけで行くわけにはいかない」と参加を辞退した[注 5]が、代わりにそのパレードの当日に『さんまVS星野!笑いと涙の日本シリーズスペシャル・2時間しゃべりたおし』(朝日放送制作)でさんまが司会をつとめ星野を始め主力選手が出演した。それをきっかけに両者がお互いに交流があった板東英二を通じて親交を深め、2018年に星野が亡くなるまで正月に前述の佐藤浩市ら共にオーストラリアに行くほどの仲になっていった。

アナウンサーについては番組アシスタントとして共演する事の多いフジテレビの女子アナの多くと親交を持っている[36]。その他では長年ラジオを担当している関係でアシスタントをしていたハロプロモーニング娘メンバーの卒業コンサートに出向いたりして交流を持っている。

趣味[編集]

趣味を幅広く持ち、テレビでスポーツ観戦を初めゴルフ競馬漫画などの読書、麻雀などがある。また若い時は自らの野球チームを持つなど野球は見るのもやるのも好きである。特にスポーツ観戦は仕事で家を空ける時以外は、例え深夜であろうとBSやCSのスポーツ中継をリアルタイムで観戦している。サッカーヨーロッパの各リーグおよびUEFAチャンピオンズリーグUEFAヨーロッパリーグや野球のMLBアメリカンフットボールNFLバスケットボールNBAアイスホッケーNHLテニスの四大大会・ゴルフのメジャートーナメントなどジャンルは幅広い。また日本の高校野球も熱心に見ているという。憧れの選手としてマイケル・ジョーダンモハメド・アリグレッグ・ノーマン長嶋茂雄などをあげている。

サッカー[編集]

サッカーは特に欧州サッカーのファンであり、学生時代の時の憧れの選手は主にマンチェスター・ユナイテッドで活躍していた北アイルランド代表のジョージ・ベストや西ドイツ代表のフランツ・ベッケンバウアーなどで、サッカーを始めたきっかけもマンチェスター・ユナイテッドだと述べている[37]。高校時代はサッカー部に所属し自らスター選手だと称していた[38]。自宅にはたくさんのレア物のグッズが保管されているという[39]

1980年代には日本サッカーリーグをなんとか盛り上げようとキャンペーンポスターのモデルに選ばれたほか、サッカーマガジンで「明石家さんまの爆笑キックオフ対談」を連載していたり、漫画家望月三起也と共に芸能人サッカーチーム「ザ・ミイラ」の発起人となるなど[40]。サッカー好きタレントとして人気が下火になっていた日本のサッカー人気なんとか盛り上げようとしていた。この頃よりラモス瑠偉都並敏史などと親交を持ち、その後もトーク番組で共演することが多い。

1990年代以降は2002 FIFAワールドカップが開催される前にはフジテレビで『さんまの天国と地獄』というサッカー番組のメインパーソナリティを務めるなどワールドカップやクラブワールドカップなどの関連番組ではサッカー通タレントの筆頭格としてキャスターやコメンテーターを務めることも多く[38]監督や選手に下世話なツッコミを入れて番組を盛り上げようとすることが定番[38]。 日本テレビが中継するトヨタカップでは、ゲストとして毎年、現地で観戦しており、発展解消後の、FIFAクラブワールドカップでも、全試合ではないが、日本国内での試合は現地観戦、日本国外での試合は、スタジオで観戦している。

一方で欧州サッカーファンの立場で日本のサッカーに対して見下した発言をしたり、インタビューで選手に対してサッカーに関係のない話をしたりしてサッカーファンから批判の意見が出ることもあり、その発言に賛否両論が起こることが多い[41][42]

競馬[編集]

初めて競馬予想を始めた時期は、1984年春で『明石家さんまのラジオが来たゾ!東京めぐりブンブン大放送』(ニッポン放送)の中で競馬予想のコーナーが設けられ、素人なりの予想を始めている。クラシック路線ではスズマッハ(日本ダービーで人気薄も2着)を、古馬中距離路線ではダスゲニーを追いかけている。基本的には、ウケるために穴予想であった。以後、このラジオ番組で翌日日曜日の大レース(シーズンなら毎週日曜日の関東重賞)の予想を展開していくことになる。この頃からG1レースの前日には不定期でフジテレビ系列の競馬番組に出演して翌日のレースを予想していた。その中で「さんま馬主プロジェクト」なる企画が登場。手始めに「マイネル」の冠号で知られるラフィアン・ターフマンクラブの岡田繁幸が、妻の岡田美佐子名義で所有する競走馬に名前を付けて欲しいとの依頼を受け、社長漫遊記にちなみ「シャチョマンユウキ」と命名した事もある。また1992年から2011年末には関西テレビアナウンサーの杉本清と共に『夢競馬』として1年間のGI振り返りトークをする番組があった。2003年・2004年のJRAのイメージキャラクターを務めた。

漫画[編集]

漫画についてもよく読んでおり、『タッチ』の浅倉南や『うる星やつら』のラムを理想の女性像として挙げている。その他では次長課長井上聡に薦められたのをきっかけに『ドラゴンボール』を読み始め、その後『ONE PIECE』『ジョジョの奇妙な冒険』『アオアシ』『ダイヤのA』『BLUE GIANT』『名探偵コナン』『鬼滅の刃』などスポーツ漫画や少年漫画を好んで読んでいる[43][44]

音楽[編集]

学生時代には吉田拓郎の大ファンであり、人生の一曲として吉田拓郎の代表曲である『イメージの詩』を挙げている[45]。その他では桑田佳祐アルフィー松任谷由実松山千春CHAGE and ASKA甲斐バンドオフコース[注 6]などと20代の頃より親交があり、実際にアルバムCMに出たり、楽曲を提供したりもらったりしている[46]。2000年代以降の歌手ならMISIAなどと親交をもち、NETFLIXの「Jimmy〜アホみたいなホンマの話〜」の主題歌としてMISIAがさんまのお気に入りでもある甲斐バンドの楽曲『最後の夜汽車』をカバーした[47]。どちらかというとメロディよりも歌詞に重きを置いているようで、近年では大塚愛の『さくらんぼ』、森高千里の『渡良瀬橋』、AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』、西野カナの『Darling』のようなかわいい歌詞を好んでいる[48]

映画[編集]

映画も好きで役者では特にハンフリー・ボガートピーター・セラーズポール・ニューマンスティーブ・マックイーン菅原文太ジェームズ・ディーンケヴィン・コスナーヴィヴィアン・リーの大ファンで、「さんまのまんま」ではセットとしてハンフリー・ボガートとディーン、ヴィヴィアンの写真つき枕が飾ってあった。また「FNS27時間テレビ (2016年)」の名物コーナー「さんま・中居の今夜も眠れない」でマックイーンの写真がプリントされたTシャツを着てマックイーンへの思い入れを語り、自身の髪型のモデルがマックイーンとコスナーであることを語るなど映画通の顔ものぞかせている。

作品としては洋画では『荒野の七人』『大脱走』『ブリット』『ゲッタウェイ』などの男臭いアクション映画、『スティング』『ハスラー』のような軽妙洒脱な作品、ピーター・セラーズの『チャンス[49]』のような人間ドラマ、『フィールド・オブ・ドリームス』『ティン・カップ』などのスポーツ映画を好み、『キャリー』などのホラー映画も特に敬遠することはない。一時期スティングのメインテーマである「ジ・エンターテイナー」を電話の着信音にしていた。

日本映画では『仁義なき戦い』シリーズの大ファン。同シリーズで特に好きなシーンは、菅原文太演じるシリーズの主人公・広能昌三が敵対する土居組組長の土井清(演・名和宏)を射殺するシリーズ一作目のシークエンスであり、「冷たい雨の中、煙草を吹かし標的を待つシーンをよく真似た」と語る。若手時代に空港で菅原に会いサインを頼んだところ「俺が代わりに欲しいくらいだよ」と言われた話は後年さんまが何度も披露している[50]

一方重くて暗いアート系の作品が苦手と公言しており、盟友のビートたけしが作る映画は見ていない[51]

仕事[編集]

芸風[編集]

落語・漫才を経てピン芸人となってからは菅原文太桜田淳子ものまね漫談が主であったが、周囲からは「似てない」と酷評され、名前が売れるようになってからはこの2人の物真似を人前ですることはほとんどない。それ以外に阪神の掛布雅之や巨人の小林繁の形態模写をして人気を博す。江川卓とのトレードで阪神へ移籍した際にこの芸を封印したが、トレード直後の阪神での小林の活躍に伴い、関西地区で小林の形態模写を熱望されるようになり、小林と相乗効果で人気を集めるようになり、レコード発売やCM出演なども果たした。

1980年代半ばからは司会業が中心(トークのテンポを崩されると、すかさずツッコミボケを入れ、それすら笑いに変える)。張り芸(声を張って笑いをとる芸)を得意としている。ただし同期で盟友の島田紳助をはじめ、中居正広笑福亭鶴瓶所ジョージ桑田佳祐中村勘三郎、元妻の大竹しのぶ、娘のIMALUたちから「話を盛る」「話していることの九割は嘘」「どうしてそんなに嘘がつけるの?」などと辛辣な発言をされる(それすらお約束の流れになりつつある)。

仕事でも特にお笑いに対するスタンスは非常に厳しく、本番中であろうが後輩芸人に対してのあまりのダメ出しの多さに、2000年代あたりから岡村隆史初め多く後輩芸人から『お笑い怪獣』と呼ばれ出したり[20]ダウンタウンの二人からも目が怖いと言われる[52]。さんま自身はその自らの芸風とビートたけしタモリとの芸風の違いについて「あの人たちは懐が深いから、一歩引いて相手が出てくるのをポンと打つように、相手の出方をうかがいながらトークを行っているが、一方で自分はどんな時もがむしゃらに前に出ていってトークを展開していく」とその違いを分析している[53]

また「番組って仕事場なんで、嫌いなままでも仕事する。イヤでも本番やんか。だからそれはちゃんとプロとしてやるべき」との共演NGはない姿勢であるが、徳光和夫がある番組でさんまについて「あんまり面白くない」と発言した事をきっかけに番組スタッフが気を使ってオファーしなくなったケースもある[54]。ただし唯一の例外として娘のIMALUとだけはお互いに共演NGにしている[55]

基本的に番組の企画以外で政治の話はすることは無いが、税金の使われ方納得がいかず国税局に抗議した話を披露するなど折に触れて批判的に語ることもある[56]

落語界との関係[編集]

落語家の弟子という事もあり、入門当初は落語家として活動していた[57]。初舞台は入門半年後で、場所は京都花月[12]。『西の旅』と総称される古典落語のうち『播州めぐり』を10日間ほど口演した。本人いわく「初舞台では緊張で頭が真っ白になって、ネタをやり直した[57]」という。「15分ぐらいのところで頭が真っ白になり始めからやり直した、そしたら所要時間が45分にもなった」ともされる。「この後二人は横山エンタツ花菱アチャコとなり漫才を始めました」と言ってサゲたという。4代目林家染丸も、この頃に自身が主宰した落語会で『播州めぐり』に真剣に取り組むさんまを目の当たりにしている[6]

しかし師匠の命もあり20代前半でタレント転身した後は、番組の企画などで一部だけ演じることはあっても、落語をまるまる演じることは無く落語界や寄席とは距離を置いていた。ただし、落語家としての活動はしていないものの桂三枝会長の元、上方落語協会所属となっている[58]。2004年「彦八まつり」に実行委員長・笑福亭鶴瓶の要請に応える形で出演。混乱を避けるため、出演日は公表されなかったのだが、落語を披露するという情報も手伝って、来場者が2日間で例年の2倍である10万人を超え、過去最多記録を更新した(着物姿で「大喜利ガバチョ!」に出演したものの、落語は口演しなかった)。

2012年7月23日、「なんばグランド花月」にて六代桂文枝襲名披露口上に月亭八方桂きん枝らとともに出演[59]。笑福亭の五枚笹紋付きを着用し、口上を行った。その他では桂雀々の35周年、40周年記念の独演会にスペシャルゲストとして紋付き袴で出演している[60]

放送局との関係[編集]

1970年代後半から90年代にかけては東京進出のきっかけを作ってくれたフジテレビプロデューサー横澤彪が手掛ける番組の出演が多く、その他ではフジテレビディレクターの三宅恵介日本テレビディレクターの吉川圭三らとは長年番組でタッグを組んだりして関係が深い。特に2009年限りで三宅が盟友のフジテレビを定年退職する事になり、そのはなむけとして、彼が総合演出する2008年7月26日から27日の「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」の総合司会を担当(同番組の総合司会は19年ぶり)。しかし結局定年が延びたという理由で三宅はフジテレビを退職しないと言うオチをつけた。大阪の放送局については、最初にレギュラーに抜擢されたこともあり、毎日放送には週1回のテレビ・ラジオでレギュラー出演し続けている。

また大御所芸人となるとレギュラー番組以外のゲスト出演は滅多にしないが、改編期でもないにも係わらずさんまは積極的に後輩タレントの番組や若手ディレクターが手掛ける番組にも出演し、特に『めちゃ2イケてるッ!』には番組開始当初から定期的にゲスト出演しており、2018年の最終回には、土曜日八時の先輩として番組終了を見届ける形として、パーデンネンに扮装して番組ラストに登場した。

しかしながらテレビ局側の理不尽な姿勢や番組スタッフの不義理な対応には厳しい対応を取ることも多く衝突することも少なくない。この場合、番組を降板するだけでなく、放送局自体と絶縁することもある。確執があった放送局は、テレビではNHK、テレビ東京、テレビ朝日、ラジオではニッポン放送があげられる[61][62][63][64]。また確執はないが日本テレビが放送している『24時間テレビ』について批判的な立場を取っている。しかしながら自分の意見を押し通すのではなく、現場スタッフに細やかな気遣いをするなど人間関係を重視している[65]

NHK[編集]

20代の頃は度々NHKの番組に出演していたが、『クイズ面白ゼミナール』に出演した際、「鉛筆」をテーマにした講義を聞いてあくびをして、その様子が放送されてしまい、番組に苦情が相次いで寄せられてしまう[66][67]。また1985年放送の連続テレビ小説澪つくし』に「ラッパの弥太郎」としてレギュラー出演したが、リハーサルの多さや、現場で真面目にリハをしない事でたびたびスタッフと衝突し、こういったことも重なり結果的にNHK側から出演オファーが少なくなり疎遠になっていった。さらに1999年に放送された大河ドラマ元禄繚乱』で、主役を務めた当時の中村勘九郎(後の勘三郎)から直々にオファーがあったことからゲスト出演したが、編集の段階でディレクターの判断で出演シーンのほぼすべてをカットされた(全カットではないので出演自体はしている)。このため、さんまは「収録までしたのにカットするか!?」と激怒。オファーした側の勘九郎も顔を潰されることとなったため、打ち上げの際スタッフと大喧嘩になった。

2013年2月1日放送のNHK日本テレビがテレビ放送開始60周年を記念して共同制作した大型特別番組60番勝負』の第1夜に、日本テレビの土屋敏男からのオファーを受け出演。前述の「元禄繚乱」以来14年ぶりにNHKに出演となった[62][注 7][注 8]。。この出演をきっかけに、2016年以降は『明石家紅白!』の司会など定期的に出演している。

テレビ朝日[編集]

テレビ朝日で人気番組だった『さんまのナンでもダービー』は、テレビ朝日スタッフとの確執が原因で1995年9月に打ち切りとなり、さんまはそれ以降テレビ朝日ではレギュラー番組を持つことはなく、単発番組においても、1996年春の特番『ま!いっか』、1999年4月16日『ミュージックステーション』、2003年9月26日くりぃむしちゅー初の冠番組『くりぃむしちゅーの一度だけいい夢見させてスペシャル』、2007年8月30日の『アメトーーク!』で村上ショージのエピソードを語るためにVTR出演、2009年8月6日の「雨上がり20周年企画」で出演、そしてそれをきっかけに、同じテレビ朝日プロデューサーの加地倫三が手掛ける番組として2010年10月9日放送の特番『もしもさんまさんだったら…?』で単発番組ながら約15年ぶりに冠番組として出演。その後は2016年2月11日放送の『徹子の部屋 祝40周年 最強夢トークスペシャル』で約5年半ぶりに出演(同番組には25年ぶりに出演)した[68]。その後、『アメトーーク!』には2019年12月30日に放送された5時間スペシャルで「さんまVSお笑い第七世代」の企画にも出演など、絶縁状態というわけではないが、数年に1回程度出演するぐらいのペースになっている。一方で同じ系列の朝日放送制作ではレギュラーないものの『明石家ジャパン』や『明石家さんまのコンプレッくすっ杯』などの特番に定期的に出演している。

日本テレビ[編集]

同局が手掛けている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』へは1995年8月26・27日放送回でマラソンランナーを務めた間寛平の応援でチアリーダーに扮して出演したのみで、基本的には「自身が出ると嘘臭く見える」「毎日地球を救いたい気持ちで生きているのに、あの日に限ってそういったことをする事に疑問を持っている」という理由で一切出ていない。

テレビ東京[編集]

自身初の冠番組である『さんまのサタデーナイトショー』が、24時台の放送にも関わらず最高視聴率は13%を超え、当時のテレビ東京全番組中で最高視聴率を獲得したが、「局の最高視聴率番組がお色気番組とは体裁が悪い」という上層部の妻の意見で、人気番組であったが1984年で終了となった[61]事に腹を立てて、完全に絶縁状態となった。この事についてはさんまは「ちょっと待てと。俺たちテレビタレントが頑張って面白い人気番組にして終わるって、俺ものすごいショックを受けて。俺もう意味がないと。頑張ってしゃべって人気番組にして、それで打ち切られたら」という一方で、「数字(視聴率)なんて取ってもあかんし、取らなかってもあかんから、どうでもええかと思えたのは良かった。その後のお笑い芸人としての人生でものすごく助かった」と、打ち切り騒動で得るものもあったと語っている[61]

2014年4月7日放送の『主治医が見つかる診療所』での、ラサール石井の糖質抜きダイエットの密着VTR中に、僅かのシーンであるが登場し、これが30年ぶりにテレビ東京の映像に顔が映ることとなり、2018年7月14日放送『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』にゲストとして34年ぶりの出演となった。「出川の番組だから出演した」という理由で、当初はテレビ東京だとは知らなかったという[69]

ニッポン放送[編集]

東京初の冠のラジオパーソナリティとして『明石家さんまのオールナイトニッポン』(1979年10月~1981年3月)や『明石家さんまのラジオが来たゾ!東京めぐりブンブン大放送』(1983年5月~1988年3月)などのレギュラーを持っていたが、ある時、野球中継のゲスト出演依頼があり、スケジュールの都合断ったものの、スタッフが大阪のラジオの生放送中にまで来たので、録音放送の約束で野球の話をしたが、それを生でやっている体で野球中継に差し込んだために、騙されたと感じスタッフに不信感を持ち、そこからしばらくは一切のオファーを断るようになった。 2005年3月23日「ビビる大木のオールナイトニッポン」に17年ぶりにゲストに出演。さらに2011年8月25日「大竹しのぶのオールナイトニッポンGOLD」に6年5か月ぶりにゲスト出演した。

2017年4月、「君に耳キュン!雪どけ 春の大作戦 明石家さんま オールニッポン お願い!リクエスト」として29年ぶりに冠番組のパーソナリティとして出演した[70]。それ以降は雪解けが進み同名の番組のパーソナリティを隔月ペースで務めている。

地方局・独立局[編集]

地方局や独立局へ出演は、確執などは特に無いとされるが高額なギャラの問題もあり無償での友情出演やキー局の番組のロケ企画以外で基本的に出演することはなく、独立局への番組出演はほとんどない。若手時代には、当時開局したばかりであったびわ湖放送への出演経験があり[71]、2015年3月には、サプライズとして『白黒アンジャッシュ』(千葉テレビ放送)に友情出演という形でマンスリーゲストとして出演、これは関東地方の独立局制作番組初出演である[72]。また2019年11月7日には、日本テレビの『誰も知らない明石家さんま 第5弾』のロケ企画として奈良テレビ放送ゆうドキッ!』に飛び入りでサプライズ出演した[73]。系列局の出演としては2010年7月5日に明石家電視台のロケ企画として同じ系列である熊本放送の『RKKワイド 夕方いちばん』にサプライズ出演した。

人気番組でのエピソード[編集]

オレたちひょうきん族[編集]

  • タケちゃんマン」の敵役・ブラックデビルは、初回は当時劇団東京乾電池に所属していた高田純次が演じたが、第2回収録前に高田がおたふく風邪で入院してしまった為、出演者の中で唯一高田と衣装のサイズが合ったさんまが代役に抜擢された。同番組での代表的なキャラクターとしては以下のものがある。
    • アミダばばあ - コシノジュンコデザインの服、桑田佳祐作詞作曲の「アミダばばぁの唄」がリリースされた。
    • ナンデスカマン - 大阪万博のテーマソングである「世界の国からこんにちは」に似せた歌と共に登場。甲高い声で「ナンデスカー」と聞き返し相手に不快感を与える。対決の時にビックリ箱を使ってタケちゃんマンと戦う為、さんまが頼んで松山千春が「ビックリ箱の唄」を作っていた。
    • 知っとるケ - 青森県出身の妖怪人間。「ヒャーホホ」と奇声をあげ、民謡を歌う少年少女合唱団と共に登場。「知っとるケのケ、俺の名前を知っとるケのケ、最低の男って知っとるケのケ、あ 今年で30、知っとるケのケ♪」と踊りながら歌う。
    • パーデンネン - 数々演じてきたキャラクターの中で、パーデンネンだけは恥ずかしかったと語る。当時人気だったマンハッタン・トランスファーに廊下ですれ違いざまに パーデンネンの格好を"oh crazy"と言われ、派手な服装や髪型で有名だった芳村真理から「さんまちゃん、派手ねー」と言われたこともある。(芳村は当時フジテレビの歌番組『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会をしており、1985年に同番組の放送曜日が変更となってから、収録日が『ひょうきん族』と同じ水曜日であった)
  • さんまが一番好きだったキャラクターはブラックデビル。ビートたけしがさんまのキャラで一番好きだったものは「サラリーマン」である。このサラリーマンはスーツにネクタイ、メガネといったありきたりの風貌で「高卒、手取り18万」という境遇でタケちゃんマンに難癖をつけて絡むというキャラクターだったが、視聴者から「夢がない」と苦情がきてわずが3週で消えてしまう。
  • フライデー襲撃事件でたけし不在となっていた時期、吉永小百合の「奈良の春日野」をバックに鹿の着ぐるみを着て、渡辺正行と踊っていた。1987年に『笑っていいとも!』のトークコーナーで、吉永のファンであるタモリをいじるため、楽曲中に「鹿のふん」という吉永のイメージらしからぬ歌詞が出てくる同曲を発掘・放送し、大きな話題になったことを流用したもの。
  • 番組開始当初のコーナー「ひょうきんニュース」には本名の「杉本高文」を名乗っていた。また、「ひょうきんベストテン」の初代司会者でもあった。
  • 1989年10月で『ひょうきん族』が放送終了。この終了に関して、もともと同じ土曜8時のTBS系『8時だョ!全員集合』打倒を掲げて開始して、実際に4年後の1985年10月で『全員集合』を番組終了に追い込むが、その事で出演者もスタッフも急激に番組に対するモチベーションも落ち始め、また番組の顔であったビートたけしが1986年12月にフライデー事件を起こし謹慎、翌年復帰したものの、その後収録に来なかったり明らかにやる気がなくなっているのを見て、実際にそれを見た番組プロデューサー横澤彪に「さんまちゃん、どうする?やりたかったら続けられるけど。さんまちゃんに最後を決めてほしい」と委ねられ、さんまは「みなこういう状態なんで、やめましょうか」と答えたという。たけしも「さんまという『毒』を飲み過ぎて、その毒でで『全員集合』をやっつけたけど、結局その毒で自分たちも終わっちゃった」と言及している[74]

笑っていいとも![編集]

  • 初出演は1984年2月13日の「テレフォンショッキング」のテレフォンゲスト。この時に翌日のテレフォンゲストとして、司会のタモリがかねてから「嫌い」と公言していた小田和正を紹介した。
  • 初出演から2ヶ月後の4月6日から、金曜レギュラーとして加入。タモリと2人で雑談を繰り広げるフリートークコーナー「タモリ・さんまの雑談コーナー」が人気を博した。
    • コーナー名は何度も変更されたものの、人気から降板まで全期間続けられた。番組では同じ内容のコーナーではテレフォンに続く2位の長さだった(11年半)。
    • 「タモリ・さんまの雑談コーナー」→「タモリ・さんまの日本一の最低男」→「タモリ・さんまの日本一のサイテー男」→「さんま・タモリの喋っちゃいまホー」→「さんま・タモリの笑いごっちゃおまへんで」→「続・笑いごっちゃおまへんで」→「さんま・タモリのおいしいんだかだぁ〜!!」→「タモリ・さんまのんなアホな!」→「タモリ・さんまのなんちゅうこというの!」→「タモリ・さんまの狼がきたぞ〜!」→「タモリ・さんまの日本一のホラ吹き野郎!」→「タモリ・さんまの何はともあれ」→「タモリ・さんまのもう大人なんだから」→「タモリ・さんまのもう大人なんだからネ」→「タモリ・さんまのもっともっとしゃべらせてよ!!」
  • タモリ不在の場合は代理司会も務め、1991年10月3日には10周年記念週間の「最多代理司会者」として表彰され、同日のテレフォンショッキングの特別ゲストとなった。また、1987年4月から1990年3月までは関根勤片岡鶴太郎所ジョージ笑福亭鶴瓶らと共にタモリを支える曜日リーダー(通称:いいとも!ビッグ5)として親しまれる。
  • 1990年4月に始まった曜日対抗のコーナー「爆笑!オールスター・タモリンピック」について「お笑い芸人が真面目にゲームをしても面白くない」という自身のポリシーの元、ゲーム内でボケをかまし続けたところ、当時のディレクター[注 9]から「真面目にやって下さい!」と注意された。1992年の特大号の中でもこの不満を爆発させ、翌1993年1994年は特大号自体を欠席している。1993年10月で「タモリンピック」のコーナーは終了し、プロデューサーだった佐藤義和との協議・相談の結果、苦肉の策としてゲームではない形の後続曜日横断コーナー(「今日の反省会」→「いいとも!ひと言人生相談」→「勝手にハッピーバースデー!!」)が立ち上げられたものの、さんまは他レギュラー陣とのコーナーに関しては参加をボイコットするなど番組サイドとの溝は最後まで埋まらず、1995年9月29日をもってレギュラーを降板した。
  • レギュラー降板後は断続的に数年に1回程度の割合で、計6回ゲスト出演した。
    • 1995年12月22日金曜日に翌年年明け放送・自身が司会の年末年始特番「明石家福禄寿の史上最大のプレゼントショー "正月なのに…"編」の番宣で、降板以来3ヶ月ぶりにゲスト出演。ナインティナインがコーナー司会を務めていた「ジジィびんびん物語」のコーナーにも出演する。ゲストとしては珍しい後説のコーナー(増刊号の「放送終了後」のコーナー)出演も行い、タモリ・金曜レギュラー後任のナイナイ・勝俣州和田原俊彦とフリートークを繰り広げた。
    • 1997年12月11日木曜日に「テレフォンショッキング」に、前妻である大竹しのぶの紹介でゲスト出演。前日の電話の際には大竹に対し「俺、お前の友達ちゃうやろ!」と発言した[75]。以後同番組への出演はなかったが、自身が総合司会を務めた2008年7月の『FNS27時間テレビ』内の「増刊号生スペシャル」にて行われた「テレフォンショッキング」にビビる大木の紹介で登場、タモリと約47分間のフリートークを繰り広げた。当日の新聞のラテ欄には「タモリとテレフォンショッキングで最長記録樹立か」と書かれていたが、その言葉通り「増刊号生スペシャル」も含めた全てのテレフォンショッキングの中で最長記録を樹立した[注 10]
    • 2008年7月27日日曜日には自身が総合司会を担当した「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」内コーナー・さんま in 笑っていいとも!「テレフォンショッキング」にビビる大木の紹介で出演。その他のコーナーには参加しなかったが、いいとも!としての出演は11年ぶりのこととなった。CM明けに先述のレギュラー時代のコーナー「最低男」のジングルが流された。後輩のFUJIWARAを紹介した。
    • 2009年7月24日金曜日の「テレフォンショッキング」にもしずちゃんの紹介で出演。この時さんまは友達として次回のテレフォンゲストに同年の第23回FNSの日FNSの日26時間テレビ2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』総合司会の島田紳助を紹介した。
    • 2012年11月30日金曜日には「いい(11月)さんま(30日)」の日に因んでゲスト出演。「タモリ・さんまの日本一の最低男」のコーナーを降板以来17年ぶりに復活させ、タモリとフリートークを繰り広げた。
    • 2014年3月31日の番組最終回にも昼と夜の両番組に出演。昼のレギュラー放送には「テレフォンショッキング」の最後のテレフォンゲストであるビートたけしが(ネタで)「お友達紹介」としてさんまに電話をかけ、さんまが電話出演。夜の『グランドフィナーレ 感謝の超特大号』では1年半ぶりに「タモリ・さんまの日本一の最低男」のコーナーを行い、タモリと1時間程フリートークを繰り広げた。

評価[編集]

NHKが1975年から2003年にかけて毎年実施していた好きなタレント調査では、1985年に男性1位に選ばれてからは、2003年に調査終了するまでの19回のうち通算12回(1985年 - 1989年、1995年、1998年 - 2003年)で男性1位を獲得、それ以外は全て男性2位となっている[76]。1999年に「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブック世界記録認定。

JNNデータバンク調べによる好感度タレントの支持率調査では、1987年10月に支持率41.3%、1999年5月に支持率43.1%を記録。これは同調査において1980年代1990年代共に第1位の記録。また、1999年5月の支持率43.1%は、1971年〜1999年においても第1位の記録である[77]

日経エンタテインメント!』の「好きな芸人」ランキングでは、初回の2002年から2011年まで10年連続で1位を獲得している。3年ぶりに復活した2014年のランキングでも1位を獲得、2014年から2017年と4年連続で1位となり、同ランキング14連覇と圧倒的な人気を得ている。

ビートたけしが著書『コマネチ!』での中で「こいつには負けた、と思った数少ない中の1人」とさんまのことを評し、岡村隆史などの後輩芸人達も「この人を越えるのは誰にも不可能。死を待つしかない。」と語っている。

「芸能界で最も対応のいいタレント」と評されることが多く、二十代のころは、ファンに追いかけ回され、隠れたりすることも多かったが、IMALUの誕生を機に人に接する気持ちが大きく変わり、マスコミ・ファンをはじめとした一般人および芸能人などへの注文もなるべく受け入れるようになった。さんまの対応はネット上でも評価されている[78][79][80]

受賞歴[編集]

演じた俳優[編集]

  • 浜田学(舞台「吉本百年物語 アンチ吉本・お笑いレボリューション」2013年)
  • 菅田将暉誰も知らない明石家さんま 史上最大さんま早押しトーク」内でのミニドキュメンタリードラマ『小岩青春物語〜きみといた街角〜』(2015年、日本テレビ)
  • 北村匠海 「誰も知らない明石家さんま ロングインタビューで解禁!」内でのミニドキュメンタリードラマ『ずっと笑ってた』(2017年、日本テレビ [81]
  • 斎藤工 「誰も知らない明石家さんま3時間SP 初密着!さんま5つの謎を解禁」内のミニドキュメンタリードラマ さんまのいちばん長い日」(2018年、日本テレビ)
  • 玉山鉄二Jimmy〜アホみたいなホンマの話〜」(2018年、Netflix [82]
  • 成田凌 「誰も知らない明石家さんま タブー解禁5連発!元妻と再会…40年ぶり母校へ…」内でのミニドキュメンタリードラマ『さんまが泣いた日』(2019年、日本テレビ)

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

出演作品[編集]

アニメ[編集]

CM[編集]

ゲーム[編集]

著書[編集]

  • ビッグな気分―いくつもの夜を超えて(1980年8月、集英社
  • スターのお部屋拝見―人気者のプライバシーを侵害(角川文庫)(1981年6月、角川書店)ISBN 978-4044218010
  • こんな男でよかったら(1984年10月、ニッポン放送出版)ISBN 978-4893530219
  • リリが見たやさしい虹(1991年4月、角川書店)ISBN 978-4048726405
  • Jimmy(2017年6月、文藝春秋)ISBN 978-4167908782
編集
  • さんまのまんま(1986年2月、CBS・ソニー出版)ISBN 978-4789702256
  • 続・さんまのまんま(1986年6月、CBS・ソニー出版)ISBN 978-4789702386
  • さんまのまんま(続々)(1986年10月、CBS・ソニー出版、写真:渡辺克巳)ISBN 978-4789702508
  • さんまのまんま〈スペシャル 4〉(1987年2月、CBS・ソニー出版)ISBN 978-4789702591
共著
  • 本人vol.11(2009年9月11日、太田出版)ISBN 978-4778311926

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

発売日 タイトル カップリング 規格 規格品番 順位 備考
CBS・ソニー
1st 1979年9月21日 Mr.アンダースロー 君のとなりにいてあげる EP 06SH-627 -
2nd 1980年8月31日 Bigな気分 悲しい女のままで 07SH-826 -
3rd 1981年5月21日 いくつもの夜を超えて Shakin' Street 07SH-983 -
キャニオン・レコード
4th 1986年8月20日 シングル・ベッド TEKU TEKU EP 7A-0619 31位 チャゲ&飛鳥のアルバム『MIX BLOOD』でセルフカバー
1988年5月21日 8cmCD S10A-0080 -
5th 1987年2月21日 真赤なウソ EP 4A-0684 17位 片面シングル
コーラス:高井麻巳子
高見沢俊彦による信号機3部作の第1作
初回発売盤は赤色のレコード仕様。
1988年5月21日 世渡り上手 8cmCD S10A-0081 -
6th 1987年8月21日 サンキュー EP 4A-0766 12位 片面シングル
1987年11月21日 しあわせって何だっけ CD D15A-0332 - ポニーキャニオンから発売された『SINGLE CD 3』シリーズの一つ。
真赤なウソ
ポニーキャニオン
7th 1988年3月21日 蒼いタメイキ My Sweet Home Town EP 7A0-835 17位 高見沢俊彦による信号機3部作の第2作
8cmCD S10A-0018
8th 1988年11月21日 YELLOW SUNSHINE 愛の始まり EP 7A-0921 44位 高見沢俊彦による信号機3部作の最終作
8cmCD S10A-0211
9th 1989年11月21日 川の流れに ありがとうHEAVEN PCDA-00022 -

コラボシングル[編集]

名義 発売日 タイトル カップリング 規格 規格品番 順位 備考
キャニオン・レコード
島田紳助, 明石家さんま 1982年 い・け・な・いお化粧マジック I Love You したいよ EP 06SH-627 - 忌野清志郎+坂本龍一の「い・け・な・いルージュマジック」のパロディ
アミダばばあ & タケちゃんマン 1983年10月21日 アミダばばあの唄 アミアミダダバ アミダばば 7A-0328 47位 シングル・ジャケットには2種類あり、タイトルの色が黄色系のが1stプレス、2nd以降は赤。
タケちゃんマン & ナンデスカマン 1984年5月21日 ビックリ箱のうた タケちゃんマンロボのテーマ「愛より強く」 7A-0369 -
ポニーキャニオン
3chan 1988年12月28日 あっぱれさんま大先生 ボク知ってるヨ (歌:4chan) EP 7A-0938 84位
8cmCD S10A-0228
明石家さんま&所ジョージ・ゲスト工藤静香 1999年3月17日 明石家さんまさんに聞いてみないとネ 総合入場行進曲 PCDA-01143 30位

アルバム[編集]

オリジナルアルバム[編集]

発売日 タイトル 規格 規格品番 順位
CBS・ソニー
1st 1980年9月1日 Bigな気分 LP 27AH-1036 -
キャニオン・レコード
2nd 1986年3月21日 世渡り上手 LP C28A-0557 -
CD D32A-0277
ポニーキャニオン
3rd 1988年9月21日 こういう自分がS・U・K・I LP C28A-0666 -
CD D32A-0392

ベストアルバム[編集]

発売日 タイトル 規格 規格品番 順位
CBS・ソニー
1st 1989年3月21日 いくつもの夜を超えて CD 32DH-5212 -
ポニーキャニオン
2nd 1989年6月21日 しあわせって何だっけ 明石家さんまベストアルバム CD D29A-1019 -
1999年3月18日 PCCA-01298
3rd 2009年3月21日 明石家さんま ベスト・コレクション PCCS-00062 -

その他[編集]

タイアップ一覧[編集]

楽曲 タイアップ 収録作品
シングル・ベッド フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」』主題歌 シングル「シングル・ベッド」
TEKU TEKU フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」』挿入歌
しあわせって何だっけ キッコーマン『ぽん酢しょうゆ』CMソング[注 12] アルバム『世渡り上手』
キッコーマン『特選丸大豆しょうゆ』CMソング
真赤なウソ フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」V』主題歌 シングル「真赤なウソ」
サンキュー フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」VI』主題歌 シングル「サンキュー」
蒼いタメイキ フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」VII』主題歌 シングル「蒼いタメイキ」
YELLOW SUNSHINE フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」VIII』主題歌 シングル「YELLOW SUNSHINE」
あっぱれさんま大先生 フジテレビ系『あっぱれさんま大先生』オープニングテーマ シングル「あっぱれさんま大先生」
川の流れに フジテレビ系ドラマ『心はロンリー気持ちは「…」IX』主題歌 シングル「川の流れに」
明石家さんまさんに聞いてみないとネ フジテレビ・関西テレビ系『さんまのまんま』テーマソング シングル「明石家さんまさんに聞いてみないとネ
総合入場行進曲 フジテレビ系『奇跡体験!アンビリバボーガーナ野球応援歌

関連人物[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当初は売れないロックシンガー役の予定だったが、プロットを聞いたさんまは脚本家三谷幸喜に対して軽い気持ちで「弁護士と古畑が闘うってのはおもしろいんじゃない?」と提案していた。
  2. ^ ラサール石井村上ショージ松尾伴内らも所属していると報道されたが、オフィス事務所主催の舞台に出演した際のギャラを支払ったのみで、所属はしていない
  3. ^ 松之助は、弟子の家業から名前を考案することが多く、さんまの兄弟弟子には、自転車店出身の明石家サドル、下着店出身の明石家パンツ、美容室出身の明石家パーマなどがいたという
  4. ^ 「明石家」に改めた理由としては、落語を演じない者に一門の「笑福亭」を与えることは許されないとした、一門の方針によるというのが通説になっているが、松之助自身も一時落語を離れて喜劇役者に専念していた時期があったことや、同じく一門の鶴瓶も当時全く落語家活動をしていなかったこと、吉本に所属していた月亭可朝笑福亭仁鶴6代目桂文枝らのタレントとしての活躍などが挙げられ、落語をしないことがそれとは結び付かない。また、兄弟子にあたるつる松(さんまが入門時、既に一門を離れ橘家圓三を名乗っている)や小禄を始め、松之助は以降の弟子にも明石家の亭号を付けていることから、落語をしないことが「明石家」を名乗る直接の理由ではないといえる。
  5. ^ 春のキャンプを訪れた際に星野からさんま用ユニフォームが用意されていたが、ユニフォーム背番号は800番であった。星野監督が選んだもので、理由は「嘘八百」から来ている。
  6. ^ さんまが笑っていいとものテレフォンショッキングに最初に出演した際に次に紹介した相手が、かねてからタモリが嫌いと公言してた小田和正であった。
  7. ^ ただし2012年年7月29日放送の『桂三枝のすべて〜六代桂文枝襲名〜』(NHK BSプレミアム)において、メッセージが放送された事はある。
  8. ^ 1985年の連続テレビ小説澪つくし』以来28年ぶりという触れ込みとされているが、実際には1999年に友人の中村勘九郎が主演した大河ドラマ『元禄繚乱』に笑福亭鶴瓶とともにゲスト出演しているので実際には14年ぶりの出演。NHK制作のバラエティ番組への出演は『クイズ面白ゼミナール』の1983年2月27日放送分以来、実に30年ぶりであったと本人は自覚しているがその後も同番組に数回出演している
  9. ^ さんま曰く「増刊号を担当していた上田ディレクター」。
  10. ^ 一般には「増刊号生スペシャル」のテレフォンショッキングは時間制限がないことから記録に含めないため、最長記録は黒柳徹子が記録した43分となっている。
  11. ^ 一般には世界のアナウンサー早押しクイズ。
  12. ^ 原曲は基調は変ホ長調であり、CMはヘ長調である。

出典[編集]

  1. ^ 吉本興業株式会社 芸人プロフィール
  2. ^ a b c 『テレビ・タレント人名辞典 第3版』 日外アソシエーツ、1997年7月25日、17頁。ISBN 4-8169-144-1-2。 
  3. ^ 明石家さんまの高校や大学の学歴・出身情報!生い立ちは継母のいじめ!”. 2020年5月6日閲覧。
  4. ^ さんま、相撲行司に「18年もかかんの?」 Lmaga.jp 2017.11.4 12:00(京阪神エルマガジン社、2017年11月6日閲覧): 毎日放送『痛快!明石家電視台』2017年11月6日放送分における本人の発言
  5. ^ 明石家さんま「パチプロ」時代を過ごした意外な過去とは...... 極貧生活「パチンコで生計」大ブレイクまで続けた「パチンコ×芸人」ヒットの法則 biz-journal.jp 2018.03.22(株式会社サイゾー 、2019年03月20日閲覧): ラジオ『明石家さんま オールニッポンお願い!リクエスト 私の東京物語2018年3月4日放送分における本人の発言
  6. ^ a b c d e f 林家染丸『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』 燃焼社、2000年 p.188-189。同資料で松之助は、さんまの弟子入り志願時の会話の文言をそれぞれ「あんたはセンスがあるから」「それはどうも、褒めていただいてありがとう」と回想しており、さんま側の談話と微妙に異なっている。
  7. ^ 明石家さんま『こんな男でよかったら』ニッポン放送出版 1984年
  8. ^ “さんま 芸名の由来 師匠と思い出秘話”. デイリースポーツ online. (2016年4月9日). https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2016/04/09/0008974015.shtml 2018年6月3日閲覧。 
  9. ^ さんま 40年前に愛の逃避行「溺れた」
  10. ^ a b c d e 林家染丸『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』pp.189-196。明石家さんま『ビッグな気分 いくつもの夜を超えて』(集英社、1980年)の引用と松之助の回想からなる。同資料は、さんまが大阪に女性を残して、自身の売り込みを図って単身上京したという内容になっており、のちのさんまの回想と内容に差異がある。
  11. ^ 岡崎武志『貧乏は幸せのはじまり』筑摩書房ちくま文庫〉、2014年、115頁。ISBN 978-4-480-43191-2。
  12. ^ a b c d 1998年3月12日読売新聞大阪版夕刊『上方放送お笑い史』(111)「しゃべりの天才 さんま時代」。のち単行本化、読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 読売新聞社、1999年 pp.350-353「『しゃべりの天才』さんま時代」
  13. ^ {{Cite book|和書|author=大下英治|title=吉本興業の真実|year=2019|publisher=[[青志社]|page=136}}
  14. ^ さんま タモリと映画祭司会クビになった理由>
  15. ^ “【日航機墜落30年】難を逃れた芸能人たち さんまがIMALUに込めた思い”. 東京スポーツ. (2015年8月13日). https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/434609/ 2017年9月21日閲覧。 
  16. ^ “「有名な親密写真」をカラーで初公開!さんまをメジャーにした「女」と「フライデー」、フライデースペシャル'85” 
  17. ^ 1990年10月13日毎日新聞夕刊「「テレビタレントイメージ」さんまが15位と低迷 ダブル浅野は1、2位」
  18. ^ 明石家さんま、5億円借金抱え「死ぬかしゃべるか…声出ない夢を何回も見た」
  19. ^ 『FNS27時間テレビ』フジ三宅Dが語る変化、事前収録は「自然な流れ」
  20. ^ a b さんまの異名「お笑い怪獣」は『めちゃイケ』で岡村が吐き捨てた言葉
  21. ^ さんまが娘・IMALUに送ったアドバイスに共演者感嘆「人一倍努力しろ」
  22. ^ 『さんまでっか!?TV』 - とれたてフジテレビ
  23. ^ さんま 還暦の誕生日番組で同期らと紳助談義
  24. ^ さんま引退宣言?60歳ぐらいでテレビ界から去る 番組で言及
  25. ^ キムタク絶句 さんまが還暦で引退しなかった理由「3年間、死後硬直が続いている感じ」
  26. ^ 所ジョージ 親友・さんまが意識させた“60歳で隠居”,女性自身,2013年03月25日
  27. ^ さんま「あれ本気だった」芸能界引退を覚悟したワケ
  28. ^ 小出恵介、明石家さんまと笑顔のツーショット…さんま役降板から2年
  29. ^ さんま、天国の松之助師匠に爆笑届けた!新劇場で「さんま・岡村の花の駐在さん」出演
  30. ^ さんま 舞台後ひそかに通夜へ…松之助さん次男語る最後の孝行
  31. ^ 明石家さんま「デマ」ショージら個人事務所所属否定 日刊スポーツ 2019年7月27日
  32. ^ さんま 芸名の由来 師匠と思い出秘話デイリースポーツ、2016年4月9日配信
  33. ^ 『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』p.4
  34. ^ 佐藤浩市、プライベートでは家族ぐるみで旅行も!「さんまのまんま」初登場で暴露続々!?,J-CASTニュース,2016年11月6日
  35. ^ 「明石家紅白」は司会への布石? さんまの交渉で「SMAP紅白出場」説cinemacafe,2016年6月4日
  36. ^ 八木『その気持ちを伝えるために』
  37. ^ 明石家さんま 「マンUに香川は不要」だけじゃないKY発言グセ 「秋田豊に『アゴの話ばかり』で共演NGになっていた」(アサ芸プラス、2012年9月12日)
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  40. ^ 望月三起也のミイラ・群談(ハマスポどっとコム、2007年4月7日)
  41. ^ 明石家さんま 「マンUに香川は不要」だけじゃないKY発言グセ 「秋田豊に『アゴの話ばかり』で共演NGになっていた」(アサ芸プラス、2012年9月12日)
  42. ^ “明石家さんまがメッシに「間抜け」な質問 日テレのインタビューが海外でも「酷評」”. J-CASTニュース. (2011年12月19日). http://www.j-cast.com/2011/12/19116832.html?p=all 2011年12月21日閲覧。 
  43. ^ 「読んだら泣くで」 さんまが絶賛の漫画が話題
  44. ^ 明石家さんま『鬼滅の刃』ブームに乗り「引き笑いの呼吸・さんまの型」を考案
  45. ^ Flow 第四回目
  46. ^ 桑田佳祐、明石家さんまがサザンのCMに出演した経緯を語る
  47. ^ MISIA「さんまさんにバラエティーバージンをささげました」
  48. ^ 明石家さんま、今聴いている好きな曲について語り話題に 「ああいう女の子が好きやねん」>
  49. ^ 映画秘宝2010年2月号の「80年代傑作バラエティー特集」
  50. ^ ビートたけし曰く「その話は百回以上聞いた」との事。1997年12月に放送された『たけし・さんまの有名人の集まる店』にはその菅原文太がゲスト出演した
  51. ^ 吉川圭三「ヒット番組に必要なことはすべて映画に学んだ (文春文庫)」ちなみに同書の帯にはたけしと、さんまの推薦コメントが載っている
  52. ^ 浜田雅功、さんま「怖い」 松本が過去のトラウマ暴露
  53. ^ さんまが語った“たけし・タモリ”との違い。
  54. ^ 徳光和夫のプライドを傷付けた?明石家さんまの“仕事の流儀”とは
  55. ^ IMALU、さんまと「共演NGで良かった」理由を告白
  56. ^ さんま 国税局に怒鳴り込んだ過去 デイリースポーツ
  57. ^ a b 明石家さんま、50代になって初めて感じた芸人としての衰え オリコン、2014年12月24日配信
  58. ^ 上方落語名鑑
  59. ^ お笑いナタリー 2012年7月24日 さんま、六代桂文枝襲名披露口上で三枝の思い出語る エキサイトニュース 六代 桂文枝襲名披露口上に紋付姿の明石家さんまが登場! いずれも2015年5月3日閲覧
  60. ^ さんまが桂雀々の40周年祝う「45周年は断らせてくれ!」桑田佳祐も登場
  61. ^ a b c (日本語) 「テレ東はこっちから出入り禁止」 さんまがテレビ局との確執明かす”. Jcastニュース (2014年1月14日). 2014年1月14日閲覧。
  62. ^ a b 明石家さんまが28年ぶりにNHKに生出演 - ORICON STYLE 2013年2月2日
  63. ^ 明石家さんま、29年間ニッポン放送NGの訳 笑いで遺恨清算「また、機会があれば」
  64. ^ さんま、『アメトーーク!』乱入でテレ朝に14年ぶり出演
  65. ^ 吉本お家騒動の勝者は明石家さんま? ”お笑い怪獣”のもう一つの顔”. AERAdot. (2019年8月11日). 2019年8月11日閲覧。
  66. ^ “番組中の“大あくび”が原因だった!? 明石家さんまがNHKから呼ばれなくなった真実。”. Techinsightヘッドラインニュース. (2012年9月13日). http://japan.techinsight.jp/2012/09/takatoshijikandesuyo_akashiyasanma1209131218.html 2013年7月21日閲覧。 
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  69. ^ さんま34年ぶりテレ東出演「出川の充電させて」怒涛の笑いの連続の“神回”がオンエアザ・テレビジョン 2018年7月14日
  70. ^ [明石家さんまがニッポン放送に帰ってきた!29年間出演しなかった真相を語る]
  71. ^ “明石家さんま 千葉テレビ「白黒アンジャッシュ」にサプライズ登場”. 東京スポーツ. (2015年3月1日). http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150301-00000003-tospoweb-ent 2015年3月2日閲覧。 
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  73. ^ naratv9の2019年11月7日のツイート2019年11月9日閲覧。
  74. ^ さんま明かした「ひょうきん族」終了の舞台裏 たけしは「『全員集合』やっつけたけど…」
  75. ^ 笑っていいとも!資料室「今日のいいともニュース」1997年12月10日
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  78. ^ さんま、神対応のきっかけはIMALU デイリースポーツ
  79. ^ 坂上忍、新幹線でさんまの神対応を目撃し猛反省「情けなくなった」 マイナビ
  80. ^ お笑いモンスター・明石家さんまのスゴすぎる「伝説の神対応」まとめ 日刊スポーツ
  81. ^ 北村匠海が17歳の明石家さんまに!脚本・又吉直樹のドラマで飯豊まりえと共演”. 映画.com (2017年11月18日). 2017年12月31日閲覧。
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  83. ^ “嵐・櫻井、5大会連続の五輪メインキャスターに就任 さんま・上田晋也らも”. ORICON STYLE. http://www.oricon.co.jp/news/2071651/full/ 2016年5月16日閲覧。 
  84. ^ オリコン (2015年9月1日). “TBS&さんまの“還暦”記念番組放送へ”. 2015年10月7日閲覧。
  85. ^ 『めざまし』歴代女性メーンキャスター総出演 めざましテレビ×明石家さんま 平成エンタメニュースの主役100人“ムチャ”なお願いしちゃいましたSP オフィシャルサイト”. フジテレビ (2019年3月7日). 2019年5月11日閲覧。
  86. ^ 毎日新聞デジタル (2014年11月15日). “明石家さんま:「ぬ~べ~」で7年ぶり“最後の”連ドラ出演 得意?の怪人役で”. 2014年11月15日閲覧。