星稜コンバット

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『星稜コンバット』は、松井秀喜本田圭佑の出身校である石川県金沢市の星稜高等学校のブラスバンド(吹奏楽部)が、野球場やサッカー場等のスタジアムで演奏する楽曲。同高校応援団と共に甲子園大会でお馴染みとなり、高校サッカーの応援スタイルにおいても知られるようになった。



概要[編集]

甲子園大会にて、最初に演奏されたのは、1976年に開催された第58回全国高等学校野球選手権大会の第5日目、星稜対日体荏原戦。

作曲したのは、当時ブラスバンド部学生指揮者だった石野行彦。ブラスバンド部の先輩方や先生から曲作りを推奨され、前半は勇ましさをファンファーレ風に表現しながら、主題部は早稲田大学のコンバットマーチを参考にし、さらに後半では半音階で下降しすぐに上昇する表現方法をとり甲子園出発約一か月前にまず曲が出来上がった。

それまでは東京六大学のマーチや応援歌を参考に「選手名」や「せいりょう」の言葉を叫び、また、点を取った時のファンファーレも六大学のものを参考に編曲使用していた。 そして1976年当時、星稜は高校野球においてまだまだ無名だったが、小松辰雄投手(中日)を中心とする野球部がベスト4になり、一躍有名になった。

今の星稜カラー(黄色)も応援団の団旗の色をブラスバンド部がチューリップハット(50個)を黄色に染めて使用したのが最初である。

その後、ブラスバンド部の顧問となった大竹宏先生(ブラスバンド部OB)がさらに編曲を加え、応援団の歌詞も変化し最後は「陸の帝王」と叫んで終わるスタイルになり、また応援団もチアガール部に代わり応援においてはどこにもない星稜らしいオリジナル曲となった。

解説[編集]

「陸の帝王」の「帝王」とは[編集]

「帝王」には強面のイメージがあるが、決して高飛車や上から目線ではなく、苦しい練習に耐え、どん底から這い上がってきた者の叫びや応援が表現されたものである。

「陸の帝王」の「陸」とは[編集]

北陸の「陸」である。冬は長期間に渡りどんより曇り雪深くて寒く、夏は湿度が低くて暑い。そんな気候の中コツコツと行ってきた日々の積み重ねを「陸」という文字に込めたものである。

正式な呼称[編集]

「星稜コンバット」が正式な名称。「星稜コンバットマーチ」とは言わない。競技場では、星稜コンバットを略して「星魂(セイコン)」と呼ぶこともある。

応援スタイル[編集]

甲子園での応援スタイル[編集]

「星稜コンバット」は、「応援団」と「チアガール」と共に「攻め」の応援に使用し、星稜が守備につく時は歌謡曲や有名なマーチを使用。ヒットや点を取った時にはファンファーレで盛り上げる。

全国高校サッカー選手権大会における応援スタイル[編集]

近年、星稜高校のサッカーの応援に関しては、基本的には「得点曲」として使用される。星稜側が得点するたびに、「星稜コンバット」が演奏される。一度ならず、二度三度も繰り返される。この場合、五度繰り返されても「一回分の演奏」として数える。一得点で「一演奏」。五得点ならば「五演奏」。星稜サッカーファンが「今日は、四回も星稜コンバットを聞いたよ」といえば、それは「今日は、星稜が四得点したよ」と同義である。しかしそれぞれの試合の流れから得点期以外でも演奏されることがある。たとえば、「0対0」で拮抗する時。「1対2」で追い上げる時。選手を鼓舞するために「星稜コンバット」が連続して繰り出されることになる[具体例 1]

エピソード[編集]

星稜高校「応援団」[編集]

「星稜コンバット」成立において、応援団とブラスバンド部の努力はすさまじかった。集会において、団員が、曲の最後に「陸のテイオウ」という歌詞を載せると説明すると、稲置講堂にどよめきが広がり、先生方の表情が引き締まった。はじめての曲公開にもかかわらず、演奏、演舞、声援が一体となり、応援団とブラスは、手ごたえを感じとった。星稜高校「応援団」は運動量が多く声が響いた。真夏でもガクランのまま野球場周辺をランニングし山下智茂監督を唖然とさせた。また「星稜音頭」「応援歌・勝利」は、「星稜コンバット」と同じように、星稜応援席の名物であった。星稜高校応援団は、1969年国学院全学応援団より振付け指導を受け、1977年には運動部に昇格したが、1982年団員減少のため消滅した。その後、各学年1クラス1名を選出する委員制とる「応援委員」として引き継がれ、1991年4月再び「応援団」が復活。

星稜高校「吹奏楽部」[編集]

吹奏楽部(ブラスバンド)[1]は「星稜コンバット」を守り続けている。応援席における空気を感じながら、テンポを速める時もあれば、ゆったりと演奏する時もある。また部員や指導教諭らの情熱から、時代に沿ったアレンジが加えられ、曲の存在が広く知られることになった。応援席が一つになれるのは、吹奏楽部の日頃の鍛錬や熱意が会場を包み込むからである。吹奏楽部は、学園における「女神」であり、甲子園やサッカー選手権で「星稜コンバット」を演奏するために、進学先に、星稜高校を選ぶものも毎年何人かいる。

生みの親と育ての親[編集]

1975年当時2年生であった石野行彦が学生指揮者になった時、先輩方や先生から曲作りを推奨され曲作りを行った。3年生になった1976年の夏の甲子園(第58回全国高等学校野球選手権大会)では4回タクトを振った。そして、2014年まで、37年間吹奏楽部の顧問を務めた大竹宏教諭の存在がある。大竹は、顧問時代に春夏合わせ、27回、甲子園にてタクトを振り、全国高校サッカー選手権大会においては、準決勝以上で4試合タクトを振った。県予選や練習時間を含めると「星稜コンバット」と向き合った時間は膨大になる[2]

星稜コンバットと小松辰雄[編集]

「星稜コンバット」は、その時のエース、小松辰雄と共に1976年夏の甲子園大会において無名の星稜高校が準決勝まで勝ち進み、4回演奏され戦った。そして、まだ二年生だった。あと二回甲子園出場のチャンスがあり、優勝も夢ではなく小松や野球部を盛り立てようじゃないかという機運が盛り上がり、さらに充実した曲となった。

星稜コンバットと松井秀喜[編集]

高校一年の夏から野球部の四番を任された松井秀喜だったが、常に好調を維持したわけではない。一年の秋の地方予選ではここ一番の時、力が入り過ぎて、チームは敗れてしまった。またバットを振る機会すら与えられない時、心が折れてしまうこともある。そんな時、松井を慰め、前向きな気持ちを与えたのが「星稜コンバット」であった。

楽曲[編集]

楽曲は、『ブラバン!甲子園3』(ユニバーサル・ミュージック)にも収録されている[注釈 1]

具体例[編集]

  1. ^ 第93回全国高校サッカー選手権 星稜対米子北 2015年1月3日 ゴール直後に、星稜コンバットが二度、演奏される様子 1分2秒 https://www.youtube.com/watch?v=SQRrlb2zG_U

注釈[編集]

  1. ^ バレー部OB専田昌裕は「星稜コンバット」の着メロ配信が行われるやすばやくこれを使用した

脚注及び参照[編集]

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  1. ^ 星稜高校 吹奏楽部 http://www.seiryo-hs.jp/s/club/windmusic/
  2. ^ 星稜コンバット育ての親が最後のタクト 北国新聞 http://www.47news.jp/photo/838406.php

出典[編集]