曾我祐信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索
 
曾我祐信
時代 平安時代 - 鎌倉時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:太郎
墓所 神奈川県小田原市の城前寺
幕府 鎌倉幕府
主君 平氏源頼朝
氏族 曾我氏
父母 父:曾我祐家
後室:横山時重娘
祐綱(小太郎)
養子:祐成時致

曾我 祐信(そが すけのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士御家人相模国曾我荘の領主。曾我兄弟の養父として知られる。

生涯[編集]

曽我物語』では、実父河津祐泰の仇討ちを誓う曾我兄弟の影の薄い養父として描かれているが、れっきとした鎌倉幕府御家人であり、治承4年(1180年)8月23日の源頼朝挙兵石橋山の戦いの頃から記録が見られる。

当初、祐信は平家方として大庭景親軍に属して頼朝と敵対する立場であったが、戦況の転換に伴い10月18日に投降して捕虜となり、11月17日に赦免されて頼朝に臣従した。

元暦元年(1184年)2月、一ノ谷の戦い源範頼の軍に属して戦った。文治元年(1185年)10月、勝長寿院の落慶供養で都から招いた導師に布施物の馬を引き渡す役を務め、嫡子・祐綱は随兵を務めた。弓射の芸に優れており、文治5年(1189年)正月、御弓始の射手に選ばれる。同年11月の頼朝上洛には祐信ではなく祐綱が供奉しており、嫡男の祐綱への世代交代が進められていたことがうかがえる。

曾我荘以外に所領のない曾我氏にとって、世代交替が終わるまでの過度な御家人役は負担であり、妻の連れ子であった十郎(祐成)・五郎(時致)兄弟に分与できるような所領もなかった。兄の十郎は不満を募らせていたと見られ、縁戚であった北条時政に接近し、建久元年(1190年)9月、弟五郎を伴って時政邸を訪れ、時政を五郎の烏帽子親として元服させている。

曾我兄弟の仇討ち[編集]

建久4年(1193年)5月に頼朝による大規模な富士の巻狩りが行われ、16日に頼朝の嫡子頼家が鹿を射止めた際に側に候していた然るべき射手として祐信と他2人が召し出される。矢口餅を賜る儀式で頼朝が祐信に問いかけた意図がわからなかった祐信は、頼朝に勧めるべき餅を自分で食べてしまい、頼朝を興ざめさせている。

同28日、祐成・時致兄弟は、巻狩りの頼朝宿所を襲撃して近習していた実父の仇工藤祐経を討ち果たした。この事件は曾我兄弟の仇討ちとして広く世に知られる事となる。兄祐成は襲撃の際に討ち取られ、捕縛された弟の時致は審議ののち祐経の遺児・犬房丸の要望によって処刑された。

6月1日、祐信は兄弟の連座を恐れたが、兄弟に同意した証拠はないとして許された。7日に鎌倉へ戻る頼朝から帰郷を許され、曾我荘の年貢を免除されて兄弟の菩提を弔うよう命じられた。

祐信の記録は翌建久5年(1194年)12月15日条が最後であり、嫡子祐綱は地頭職を得て、将軍随兵などを務めた記録が建暦3年 (1213年)まで見られる。

墓は妻と祐成・時致兄弟と共に神奈川県小田原市の城前寺にある。

参考文献[編集]