服部正成

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服部正成
Hattori Hanzo.jpg
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文11年(1542年
死没 慶長元年11月14日 (西暦)1597年1月2日 (ユリウス暦)1596年12月23日
別名 通称:半蔵、半三、石見守
通名:弥太郎
渾名:鬼半蔵
霊名 専称院殿安誉西念大居士
墓所 西念寺 (新宿区)
官位 石見守
主君 徳川家康
氏族 服部氏
父母 父:服部保長/正種
兄弟 女子(高山飛騨守室)[1]、保元(次右衛門)?[1][注釈 1]、女子(上島茂保室)[1]、女子(松本大学助室[1])、保俊(市平)、保正[注釈 2](源兵衛)、勘十郎、久太夫(久左衛門)、正成(弥太郎)、正刻(平助・半助)、女子(中根正重(正清[2])室)、女子(金田庄之助室)[3][4]
長坂信政女子[5]

正就正重、正広(郷八郎、出家)、

服部康成[注釈 3]

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての三河武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。

松平氏徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る(なお、同じ十六神将に「槍半蔵」と呼ばれた渡辺守綱がいる)。実戦では、伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。

父の保長は伊賀国土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。当時の伊賀には服部氏族の「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、狭い土地において生活が逼迫したため、保長は旧姓の服部に復して上洛。室町幕府12代将軍足利義晴に仕える事となる。ちょうどその時、松平清康が三河国を平定し将軍に謁見するべく上洛した折り、保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。

伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある[3][6]。また千賀地氏城の伝承においては、上記とは逆に将軍に仕えていた保長が伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、その子である正成と徳川家康の接点が無い。

正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ徳川家康に仕えて遠江掛川城攻略、姉川の戦い三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。

一般的に「忍者の頭領」のイメージが強い正成であるが、彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、伊賀国の忍者の頭領ではない。 徳川配下の将として名を現した後の働きも忍者のそれとは異なり、槍や体術を駆使した一番乗り・一番槍などを重要視した武功第一のものが多い。しかし、いくつかの合戦において伊賀者と行動を共にするほか指揮官として伊賀者を放ち探査や工作をさせた記録も残るため、正成の生涯の多くに伊賀出身者や忍びの者達が関わっていたであろう事が推察される。


生涯[編集]

天文11年(1542年)、服部保長の五男として三河国伊賀(現愛知県岡崎市伊賀町)に生まれた[7]。出生地は伊賀八幡宮の北隣、明願寺付近とみられる[8]天文17年(1548年)、6歳の正成は大樹寺へ預けられた。幼い頃より筋骨逞しく力の強い子供であったという。しかし3年後の天文20年(1551年)には出家を拒否し大樹寺から失踪する。正成は親元へ戻らず兄達の援助で暮らしていたが、その後7年間、初陣とされる宇土城攻めまでの消息は不明とされる。[9]


主な戦歴と逸話[編集]

弘治3年(1557年)、16歳の時に三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立た際、家康から盃と持槍を拝領したという。[注釈 4] [3][6][11][12]

永禄6年(1563年)、三河一向一揆の際、正成は一向宗であったが家康への忠誠を誓い、一揆勢を相手に戦った[13]

永禄12年(1569年)の掛川城攻めでは渡邉守綱内藤正成本多重次榊原忠政らと共に戦っている[13][14][15][16][17]

元亀元年(1570年)、姉川の戦いにおいて正成は姉川堤における一番槍の功名を上げた。また、偶然出会った浅井の兵数十人に「自分も浅井方であるから共に退却しよう」と偽って討ち取る機会を伺っていたところ、通りかかった弟の半助から「その敵を討ち取れ」と声をかけられて怪しまれ、ついには敵兵の主人と数人を倒して半助に首を取らせ、雄たけびをあげて他の兵を追い払った。この戦において正成は若い将兵たちの後見も任されていたという[9]

元亀6年(1572年)、三方ヶ原の戦いにおいて正成は先手として大須賀康高の隊に配属され一番槍の功名を上げた。しかし徳川軍は大敗し、正成は大久保忠隣菅沼定政らと共に家康を守り浜松城を目指した[12]。この時正成は顔と膝を負傷していたが、家康の乗馬に追いついた敵と格闘し撃退している。浜松城へ帰還した際には、敗戦に狼狽する味方を鼓舞するため一人で城外へ引き返し、敵と一騎打ちのすえ討ち取った首を手に城内へ戻った[9]。戦功により正成は浜松城二の丸に召し出され、家康から褒美の槍を贈られ[14][16][18]、また伊賀衆150人を預けられた[14]

天正2年(1574年9月)武田勝頼の遠江出陣の際には、氾濫した天竜川を渡ろうとした板垣信通の家臣や、浜松城下にて刈田を行おうとした山県昌景配下の小菅元成らへ攻撃を加えている[14][19]

天正3年(1575年)長坂血鑓九郎信政の娘と婚姻[9]。翌天正4年(1576年)に長男の正就、天正8年(1580年)には次男の正重が出生する。

天正7年(1579年)に家康の嫡男信康織田信長に疑われ遠江国二俣城自刃に追いやられた際は検使につかわされ、介錯を命じられたが「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙し介錯をすることが出来ず、家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と正成をより一層評価したという。これは『三河物語[20]に描写されており、信康の側仕えだったという説もあるが、信康とはほとんど面識が無く、この逸話は後世の創作であるとする説や、服部半蔵ではなく渡辺半蔵が介錯したという説もある。近年では信康の切腹は、家康と信康の対立が原因とする説が出されている。

年月不明であるが、武田の間者の竹庵を討ち止めた時、褒美として家康より相州廣正の懐剣を贈られ、またある時は御召具足と同じ黒中核の黒藍皮縫延鎧と、御召と同じ縅の大星兜、御持と同じ拵えの采配を贈られた[3][12][14]。采配は天目黒塗りの柄の後先に銀の歯形の逆輪をつけたものであった。しかし、慶長9年の江戸城火事による麹町服部屋敷の類焼により具足は焼失し現存しない。采配は長男正就の戦死で所在不明になったとも、次男正重が佐渡勤めの最中に紛失したとも伝えられている[3][5]

伊賀越えとその後[編集]

天正10年(1582年)6月、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このときに滞在していた家康一行が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に帰還した、いわゆる「伊賀越え」に際し、先祖の出自が伊賀である正成は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させることで一行を安全に通行させ、伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。同地で味方となった彼らは後に伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。 この時、正成は栗という場所にいた所を召し出され伊勢の白子まで同行したという[21]。正成は一揆勢に対し道をあけるよう大声で呼びかけその隙に家康らを通行させたが、相手が襲ってきたため馬を乗り入れ応戦した。しかし土塁に駆け上がった際に堀へ転落し、上から槍で脚の10か所を突かれ気を失った。家臣の芝山小兵衛は家康へ「正成は討ち死にした」と伝えたが、遺体を回収しようとしたところ生きていたため、これを介抱しながら共に帰ったという[9]

天正10年(1582年)6月15日、正成は御先手頭を申し付けられた[3]

同年には本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生するが、同年7月に正成は家康に従い甲斐へ出陣する[22][23][24]。 家康は甲斐国において、現在の北杜市域を中心に布陣した相模国北条氏直に対して甲府盆地の各地の城砦に布陣し、正成は伊賀衆を率いて甲府市上曽根町の勝山城や甲府市右左口町の右左口砦・金刀比羅山砦に配置され、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を監視した[22]。勝山城において、正成は津金衆の協力を得て周辺の地を守備・攻撃した[23][24]

天正12年3月、小牧・長久手の戦いでは伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している(成島の『改正三河後風土記』)[25]。正成は二の丸を守備し、筒井勢を防いだ。続く蟹江城の奪還戦で正成と配下の伊賀鉄砲衆は松平康忠と共に東の丸(前田口)の包囲に加わり、井伊直政の大手口突入が始まると二の丸へ攻め入った[9]

西念寺 (新宿区)にある服部半蔵正成の墓

天正18年(1590年)の小田原征伐に鉄砲奉行として従軍した。その際、正成が用いていた黒地に白の五字附四半指物を使番の旗印にしたいと本多正信を通じて家康より求めがあったため、すぐにこれを差し出し、以後は紺地に白の矢筈車紋の旗を用いた[3][6][11]。徳川軍の使番旗には白地に黒五字の旗印が採用され、使番の中でも老練で功績の多い者に使用が許された。この戦で正成は十八町口にて奮戦し、首を十八級挙げたという[26]

小田原の陣の功により遠江に知行を与えられた正成は、家康の関東入国後は与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったという。この頃の知行は遠州布引 山麓の村、遠州イサシ村(浜松市西区伊左地町)、サハマ村(浜松市西区佐浜町)、天正の頃は遠州長上郡小池村(浜松市南区飯田)あたりであったといわれる[3][6]

文禄元年(1592年)には肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する。この時、徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、共用の水汲み場で下人や足軽らの諍いが起きた。集まった両陣営の人数は戦いが起きる寸全にまで膨れ上がったため、正成は配下の兵に命じて火縄に火を点けさせ、前田の陣に鉄砲を向けたという[9]。また、「正成は争いを収めようと肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、本多忠勝が出てようやく事態が収まった」とする説もある[27]。この戦が正成にとって最後の出陣となった。

慶長元年11月14日1597年1月2日)に没し[3][6][12][28]江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。(没年について寛政重修諸家譜は慶長元年11月4日と記している。[11])西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗の庵・安養院の後身である。安養院は江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、正成は1593年(文禄2年)家康から300両を与えられ寺院を建立するよう内命を受けたが、西念寺の完成を待たず死去した。その後、西念寺は江戸城の拡張工事のため1634年寛永11年)頃に現在地に移転したとする。西念寺の山号・寺名は彼の法名に因み、現在も毎年11月14日に「半蔵忌」の法要が行われている。

服部半蔵の槍[編集]

西念寺には新宿区登録有形文化財である「服部半蔵の槍」が奉納されている[注釈 5]。この槍の銘は「鬼切丸」であり、正成の兄である市平保俊の子孫にあたる服部市郎右衛門が保有し西念寺に奉納したもので、当初は箱に入った状態であった[29]。また、この槍については桑名市所蔵の史料にも「得道具大身鑓は武州四谷西念寺に相納む 穂先折れたるを同姓市平家筋に所伝の由」と記されている[3]。槍の作者は判明していないが、その作りは質実剛健な大身槍である。現在、槍の穂先は折れ、柄は半面と長さの半分が焼失している。穂先については「地震が起きた時、家康から拝領した槍を守るため正成が清水谷へ放り投げたところ折れてしまった」との逸話と共に、寺伝では「安政の大地震で穂先30cm程が折れた」とされている。太平洋戦争中には、空襲による火災から槍を守るため住職が芝生に避難させたが、あまりの火勢で地面に接していなかった片面半分と柄の長さ半分が焼失してしまったという。

伊賀同心との確執[編集]

後に正成が指揮権を預けられた「伊賀同心二百人組」は、伊賀越えの後、徳川家への仕官を望み伊賀国から江戸へ来た地侍とその家族であり、正成自身の家臣ではなかった。家康は彼らを伊賀同心として雇い指揮権を伊賀の血筋である正成に与えた。しかし同心達は、正成の一族が故郷の伊賀を離れ三河に移住した経緯により、彼に指揮される事を嫌っていたという[14]。正成の死後も伊賀同心二百人組と服部半蔵家との確執は続いた。指揮権を継いだ正成の長男正就の改易後、伊賀同心二百人組は解体再編成される事となる。

正成の戦闘術[編集]

「三河物語」「干城録」「服部半蔵武功記」などに、正成の戦闘術が記載されている。

・二人の人物を同時に斬れという命令を受けた時、正成は彼ら二人の間に入って歩き、振り返りざまに後ろの者を斬り、その後で前の者を斬った。

・正成は常に戦闘を想定しており、眠る時も床に筵を敷いてその上に寝ず、少し離れた所に横になった。

・羽織を着る時はすぐに脱ぎ捨てて戦えるよう、紐を結ばなかった。

・敵と戦う時や敵に襲われた時は、まず足の先で蹴り、兜の眉庇を狙うのがよいと語った。

・次男の正重に対し「敵と戦う時は兜の眉庇を狙い、顔は唇まで斬りつけ、敵の胴に斬り込み、股、脛、腕、膝を吊り掛けて打ち落とせ」と語った。


その後の服部家[編集]

正成の死後、伊賀同心支配の役と服部半蔵の名は嫡男の正就が継いだ。

正成の屋敷は尾御門内にあったため、この門は後に半蔵御門と呼ばれるようになったという[注釈 6]。その後、正成は赤坂御門の内(松平出羽守の屋敷があった辺り)に住んだとされる。[3][30]

半蔵門から始まる甲州街道甲府へと続いており、服部家の家臣の屋敷は甲州街道沿いにあった。江戸時代甲府藩親藩譜代が治めており、享保3年(1718年)に柳沢吉里大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれた。甲州街道は江戸城に直結する唯一の街道で、将軍家に非常事態が起こった場合には江戸を脱出するための要路になっていたといわれる。服部正就の改易後、伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城外の門を警護していたという。


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 千賀地保元。後の伊賀上野城代家老、藤堂采女を輩出する予野の千賀地服部家当主となる。正成の父である服部保長の兄弟という説もあり詳細は不明。
  2. ^ 服部中保正とは別人。
  3. ^ 正成の庶子との説があるが詳細は不明。
  4. ^ これが正成の初陣とされるが、当時、家康は今川義元の人質として駿河国にいた。さらに城主である鵜殿長持は、この頃、今川方に属していたため、それを考えれば正成が家康の命で宇土城を攻めるはずはないため、史実としては疑わしい。しかし、今治藩家老の服部正弘が編纂した『今治拾遺』のなかの『服部速水正宣家譜』に年号や年齢についての記述はないが、正成が三河宇土城を夜襲し、その武功を立て家康から葵御紋のを褒美として贈られたと記述があるため、宇土城で戦功を挙げたのは事実と見てよい[10]
  5. ^ 槍の拝観は要問合せ
  6. ^ 正成が徳川家康の危難を救った「伊賀越え」を采配した功績を称え、半蔵門と名付けられたとする説もある[要出典]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 伊賀上島家所蔵文書
  2. ^ 岡崎市 中根家文書
  3. ^ a b c d e f g h i j k 桑名藩 元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤候家附服部家畧系
  4. ^ 寛政重修諸家譜第552巻
  5. ^ a b 服部半三正成武功記 附 伊予国今治藩服部氏略家系
  6. ^ a b c d e 今治拾遺附録 士族一之巻 服部速水正宣家譜
  7. ^ 「第35回 忍者の階級の巻 」歴史人
  8. ^ 2019岡崎市発行観光地図
  9. ^ a b c d e f g 服部半三正成武功記
  10. ^ 小学館『週刊新説戦乱の日本史 第16号 伊賀忍者影の戦い』
  11. ^ a b c 寛政重修諸家譜第1168巻
  12. ^ a b c d 干城録
  13. ^ a b 大三川志
  14. ^ a b c d e f 伊賀者由緒書
  15. ^ 守綱記
  16. ^ a b 貞享松平越中守家来服部半蔵書上
  17. ^ 伊東法師物語
  18. ^ 貞享松平隠岐守家来服部半蔵書上
  19. ^ 甲陽軍鑑
  20. ^ 三河物語
  21. ^ 貞享伊賀者書上
  22. ^ a b 平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』(学研パブリッシング、2011年)、pp.240 - 245
  23. ^ a b 国朝大業廣記
  24. ^ a b 甲斐国史
  25. ^ 改正三河風土記 成島司直 著
  26. ^ 官営神尾譜
  27. ^ 慶長年中卜斎記
  28. ^ 西念寺服部半蔵墓碑
  29. ^ 忍秘展:初公開沖森文庫所蔵忍秘伝書のすべて:企画展(伊賀上野観光協会 編)より服部正武書写(享保2年/1717年)・服部勘助書写(万延元年/1860年)部分
  30. ^ 松山叢談 第四(豫陽叢書第七集)附録第一

関連項目[編集]

先代:
服部保長
服部半蔵
第2代
次代:
服部正就