木曾三社神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木曾三社神社
木曽三社神社 - panoramio.jpg
所在地 群馬県渋川市北橘町下箱田甲1番地[1]
位置 北緯36度28分19.88秒
東経139度02分43.99秒
座標: 北緯36度28分19.88秒 東経139度02分43.99秒
主祭神 素戔嗚尊彦火々出見命豊玉姫命宇気母知神[2]
社格 旧県社[2]
創建 元暦年間[2]
別名 滝の宮、箱田明神[2]
地図
木曾三社神社の位置(群馬県内)
木曾三社神社
木曾三社神社
テンプレートを表示

木曾三社神社(きそさんじゃじんじゃ)は、群馬県渋川市北橘町下箱田[3]甲1 にある神社である。社紋は笹竜胆[4]

概要[編集]

文献によると元暦元年(1184年)、木曾義仲滋賀県の粟津で源義経に討たれた後、その遺臣であった今井氏高梨氏根井氏、楯氏、町田氏、小野沢氏、萩原氏、望月氏、串渕氏、諸田氏等が、義仲と巴御前の子である三男木曾義基を匿い、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。義仲が崇敬した信濃国長野県)の延喜式内社である筑摩郡の三座「岡田・沙田・阿礼神社」を、群馬県渋川市北橘村下箱田に勧請して創建したと伝えられるのが箱田神社、後々木曾三社神社である。滝の宮木曽明神とも称されている。その後、関東管領上杉氏や、白井城長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬が厚く、神田の寄進や 社殿の修復等がおこなわれる。 [5]

寛政元年(1789年)に火災にあい、同8年(1794年)に再建、さらに明治20年代には大修復をしている。明治29年(1896年)には県社に列せられたが、昭和21年(1946年)の法令改正に伴い社格を改正され、2017年3月現在では、神社本庁の所管となっている。

境内には本殿(間口1間、奥行1間半)、拝殿(間口3間半、奥行2間)、幣殿(間口1間半、奥行2間)があり、湧玉の清泉やセキショウ群落を中心とした全域が、群馬県環境保全地域に指定されている。

境内には稲荷大神の他に多くの石祠や石碑が祀られている(恵原山大神、御嶽山大神、武尊山大神、猿田彦太神。芭蕉句碑)。

明治神社誌料」には境内社として以下が列記されている。

鹿島神社神明宮菅原神社八幡神社住吉神社愛宕神社、早虎稲荷神社、八坂神社、薬王神社、厳島神社大山祇神社

また、同・箱田には木曾三柱神社(きそみばしらじんじゃ)が存在する。文献によると安政二年(1855年)、滝之宮・下箱田(木曾三社神社)の神主になった高梨宮之亮(養子)は養祖父高梨八千穂と合わず(宮之亮が社殿を荒廃させる)、この争いが北橘村箱田・下箱田両村の争いに発展した。宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の今井家直系子孫が守護してきた箱田将軍塚古墳(木曾義仲の遺品・首塚)上に一社を創設した。拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。後に箱田村は新宮を建立した。滝之宮より分立、木曾三柱神社を創設した。 [6]


  • 祭神:須佐之男命・彦火火出見命・豊玉姫命・宇気母智神
  • 例祭:4月15日・10月15日

境内由緒書[編集]

当社は、後鳥羽天皇の御代元暦元年(1184年)の創立と伝えられる。延喜式内信濃筑摩郡の三座、岡田神社、沙田(いさごだ)神社、阿礼神社の三社は、木曾義仲が厚く崇敬した神社であるが、元暦元年正月、義仲没落に及んで、その遺臣、今井、高梨、町田、小野沢、萩原、諸田、串淵等が神託を奉じて、この地に遷したものである。[7]

木曾神社の遷宮鎮座に関して『平成祭データ』に以下の話が載っている。木曾義仲の没後、その遺臣らは一時木曾の谷にいたが、源頼朝の詮議が厳しいので、木曾は決して安全な隠れ場所ではなくなった。この時、木曾氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院[8]という人は、三夜続けて不思議な夢をみた。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和な村があった。そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると、「只の箱だ。」とのみ答えた。今、その土地を箱田と言う。しかし、神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下だった。そして、また人々は旅に出たが今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。ここで人々は一憩したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろした。すると不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。ここにまつられたのが箱田神社、後の木曾三社神社である。今でも神社の前に高梨氏の石像と、木曾三郎義基の御腰掛石とがある。遺臣たちはここに土着して四方に広がっていった。[9]

爾来[編集]

今日に至るまで木曾一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬もあつく、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、後、上杉謙信は武運長久の誓書を奉り、白井城主長尾氏も又厚く崇敬したという。徳川幕府となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をしていたが、寛政元年六月、火災にあった時、領主松平氏武州川越にあり移封の説もあった為、造営の沙汰も遷延してしまった。よって同六年、氏子信徒相謀って社殿を建築した。 文化七年、前領主酒井氏播州姫路から重臣を遣わし、鉾一口、及び金若干を献じた。同十年、更に従四位下雅楽頭忠道(酒井忠道)は自筆の神号額その他を献納した。前橋城主松平氏も又崇敬厚く、入城の当時、たまたま拝殿再建の際であったので金二十両を寄進し、落成式の後、明治三年、従五位大和守直方社参して、弓矢を奉納し、続いて伯爵松平基則は信徒として弦料金若干を献じた。

  • 同二十九年六月、県社に列せられた。
  • 同三十一年九月、貞宮多喜子内親王より幣帛料に掛物一幅を添え、木曽桧七株下賜。
  • 同三十四年八月、北白川宮能久親王妃、成久王輝久王及び二荒芳之参拝、幣帛料金二千疋納め、かつ社頭に若松一対を手植えした。
  • 同三十五年八月、有栖川宮威仁親王妃慰子戴仁親王妃実枝子より幣帛料二千疋。
  • 同三十六年、有栖川宮威仁より幣帛料四千疋の進納があった。
  • 明治三十六年九月、社域に宮城遥拝所設置のことが明治天皇の耳に達し内意を以て黒田待従を差遣して、更に三十九年十二月には神饌幣帛料供進指定となった。
  • 大正十三年八月、山階宮菊麿王妃常子参拝、幣帛料一千疋納め、かつ桧一対を手植えした。
  • 昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、昭和天皇より金二十円を下賜された。
  • 戦争終了後、昭和二十一年二月、法令改正により県社の社格改正され、神社本庁の所管となる。[10]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 今井善兵衛『更生農村 : 北橘村の実情』日本評論社、1935年。
  • 今井善一郎『赤城の神』煥乎堂、1974年。
  • 今井善一郎『習俗歳時記』煥乎堂、1975年。
  • 『群馬県史』群馬県史編さん委員会、群馬県、1989年。

関連項目[編集]