木村庄之助 (28代)

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28代木村庄之助(にじゅうはちだい きむらしょうのすけ、1928年12月15日 - 2010年4月1日)は大相撲立行司の一人である。木村庄之助としての在位期間は1991年1月~1993年11月。出羽海部屋所属。平成の名行司と謳われている。

人物[編集]

山形県鶴岡市出身。本名は後藤悟(ごとう さとる)(旧姓・赤松-あかまつ)。

史上屈指の名行司であった松翁20代木村庄之助に入門。1938年5月に9歳で木村松尾の名で初土俵を踏み、当時は「豆行司」と呼ばれて人気を博したという。のちに松翁の養子となる。松翁の死後に22代庄之助の預かり弟子となった。

1947年式守松男時代より場内アナウンスを担当。1949年5月に師匠の22代庄之助の前名である林之助(式守林之助)を名乗る。1951年9月2代木村林之助襲名。1954年3月十両格に昇格。1961年11月に幕内格に昇格。1962年1月に養父が名乗っていた式守錦太夫(8代)を襲名。1972年に開始された行司抜擢制度の恩恵を受け、1974年1月に先輩行司を飛び越して三役格に昇格。場内アナウンスは三役格まで担当し、三役格に昇格した1974年1月場所関脇北の湖初優勝の表彰式を担当した。1984年5月には、序列上位の2代式守伊三郎を追い抜き立行司に昇格し25代式守伊之助を襲名。昭和生まれとしては初の立行司である。伊之助を40場所務めた後1991年1月に28代木村庄之助襲名。庄之助としては18場所務め、1993年11月場所後停年。最後の取組は同場所優勝決定戦での横綱関脇武蔵丸(現武蔵川)。停年後は当時の出羽海理事長からの依頼で嘱託としてしばらくは日本相撲協会に残り、事務処理や後進の指導をしていた。伊之助在位40場所は、停年制実施後伊之助在位数としては24代伊之助の39場所を1場所上回る第1位であり、立行司在位数58場所は、27代庄之助(97場所)、26代庄之助(62場所)に次いで第3位である。

彼の庄之助時代の唯一の新横綱で裁いた取組も多かった曙を特に可愛がるとともに曙も彼を師と仰ぎ、まだ日本の様々な文化や慣習などに不慣れであった曙に相撲全般に留まらず日本人としての心構えまで丁寧に指導した。

土俵上の所作の美しさはもちろん、相撲史にも非常に明るく「平成の名行司」とも呼ばれる。

2010年4月1日死去。81歳没[1]

その他[編集]

  • 控えでは様々な表情を出すことがあった。1989年3月場所14日目横綱千代の富士(現九重)-横綱大乃国(現芝田山)戦で千代の富士が大乃国を上手投げで下して左肩を脱臼した際は即座に立ち上がり千代の富士を心配したり、1989年11月場所5日目に千代の富士が関脇寺尾(現錣山)を豪快な吊り落としで土俵に叩き付けた際は隣の観客と笑いながら話していた。
  • 1993年3月場所12日目の小結若花田-横綱曙戦。取り直しの大相撲で若花田が勝ったが、取り直し前の一番では若花田の突き落としに曙が向正面土俵下へ転落。控えの27代式守伊之助は飛んできた曙を間一髪避け土俵上で裁いていた庄之助と目が合い、お互いに苦笑いするシーンが一瞬見られた。
  • その27代伊之助が1993年7月場所限りで停年となり、翌9月場所からは式守伊之助が空位となった際は、当時の三役格行司の3代木村善之輔9代式守錦太夫8代式守勘太夫横綱土俵入りの先導役を任せ、自身は花道の奥で彼らの所作を見守っていた。
  • 元々声帯が弱く、風邪を引いて声が出なくなり休場したことがある(1990年1月場所5日目~7日目までの3日間)。
  • 庄之助昇進後、結びの顔触れ言上は「番数も取り……進みましたる所」というやや変則的な言い方であったが、しばらくしてからは標準的になった。
  • 日本相撲協会を退職後は、相撲史に明るい事から相撲雑誌の座談会や対談などに数多く参加したほか、貴乃花の引退相撲ではテレビ中継のゲストとして招かれた。
  • 行司抜擢制度の恩恵を最初受けたのは1974年1月に3代正直2代伊三郎を抜いて立行司に昇格した27代庄之助であるが、彼もまたこの制度の恩恵を受け先輩行司をごぼう抜きした一人。1984年5月に2代伊三郎を抜き立行司に昇格したが、この制度の適用で彼は三役格までに10代与太夫木村筆之助7代勘太夫の3人抜き去っていたので、立行司まで含めると合計4人抜いたことになる。
  • 死後に庄内日報社から出版された相撲著書『二十八代木村庄之助の行司人生』には、現役行司時代に無気力相撲の横行を憂えていた様子が描かれている。同著79頁には二子山理事長が1991年秋頃に年寄衆と関取衆全員による緊急会議を開き、そこで無気力相撲に対する警告を行った様子が殊細やかに記述されている。具体的に「二子山理事長が、出席した板井をにらみつけて、『板井!よく聞け』と口火を切り、『八百長問題が国会で取り上げられ協会が財団法人の資格を失うことになったときには、国技館も国に取り上げられる』という危機感を、激しい口調で相撲協会の資格者一同に訴えた」と書かれており、二子山がこの問題について板井を名指し批判していた様子が告発された格好となっている。

履歴[編集]

出典[編集]

関連項目[編集]