木梨元次

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木梨元次
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 不詳
死没 寛永7年3月7日1630年4月19日
または寛永7年3月17日1630年4月29日
改名 木梨経吉→木梨元次
別名 通称:喜左衛門
官位 壱岐守
主君 毛利輝元黒田長政毛利秀就
長州藩福岡藩長州藩
氏族 桓武平氏貞盛流杉原氏庶流木梨氏
父母 父:木梨元恒
兄弟 広盛、景吉、女、元次、弘信
就時

木梨 元次(きなし もとつぐ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。木梨氏は備後杉原氏の庶流で、備後国御調郡木梨庄[注 1]を本拠とした国人。父は毛利氏家臣の木梨元恒。

生涯[編集]

備後国御調郡木梨庄[注 1]を本拠とした国人で、毛利氏に仕えた木梨元恒の三男として生まれる。

毛利輝元に仕え、天正20年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では次兄の木梨景吉(清右衛門)と共に朝鮮へ渡海し、槍働きで武功をたてる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際にも景吉と共に伊予国へ出陣し、加藤嘉明家臣で城代を務めた井上嘉之助を槍にて門扉に追い詰め、一番槍を名乗った。

関ヶ原の戦いの後に毛利氏が2ヶ国に減封されると、元次は毛利氏を離れて新たに筑前国福岡藩主となった黒田長政に仕官し、慶長6年(1601年11月12日には黒田長政から筑前国御牧郡猪熊村260石1斗2升2合2勺と島津村の内の39石8斗2升7合8勺、合計300石を与えられた[1]。しかし、詳細は不明であるが黒田家での奉公が困難となる理由が生じたため、毛利家へ帰参することを長政に願い出て認められた。なお、元次同様に兄・景吉も毛利家を離れ、播磨国姫路藩主となった池田輝政に仕官している[注 2][2]

毛利家に帰参した元次は毛利秀就に仕え、黒田長政に与えられた禄高と同じく300石を与えられた。寛永4年(1627年)には秀就から「壱岐守」の受領名を与えられる[3]

寛永6年(1629年)閏2月15日、子の就時へ300石の知行を譲ることを秀就に認められ[4]寛永7年(1630年3月7日、または同年3月17日に死去。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 現在の広島県尾道市木ノ庄町木梨。
  2. ^ 元次や景吉と同様に関ヶ原後に毛利氏を離れて後に帰参した家臣は他にもおり、それら家臣の家の由緒書き等では、その理由をやむを得ず、あるいは不明であるが暇を出されたと記述しているものが見られるが、毛利氏減封に伴って行われた毛利氏家臣の減知に不満を抱き、家の規模を維持するために毛利氏を出奔し、他大名への仕官を選んだ家臣もいたと推測されている。関ヶ原の戦い後に毛利氏を出奔し他大名へ仕官した例としては、池田輝政に仕官した三吉元高や木梨景吉、坂崎直盛に仕官した小笠原長親赤間関代官を務めるなど重用されていたが加藤清正へ仕官した粟屋平右衛門等が挙げられている。

出典[編集]

  1. ^ 『閥閲録』巻125「木梨喜左衛門」第5号、慶長6年11月12日付 木梨元次宛て黒田長政知行宛行状。
  2. ^ 光成準治『ミネルヴァ日本評伝選 毛利輝元 ―西国の儀任せ置かるの由候―』p.305。
  3. ^ 『閥閲録』巻125「木梨喜左衛門」第1号、寛永4年1月11日付 木梨元次宛て毛利秀就書状。
  4. ^ 『閥閲録』巻125「木梨喜左衛門」第4号、寛永6年閏2月15日付 木梨就時宛て毛利秀就書状。

参考文献[編集]