末長 (川崎市)
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末長 | |
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北緯35度35分22.74秒 東経139度37分4.35秒 / 北緯35.5896500度 東経139.6178750度 | |
国 |
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都道府県 |
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市町村 |
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区 | 高津区 |
面積 | |
• 合計 | 1.29km2 |
人口 | |
• 合計 | 21,420人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
213-0013[3] |
市外局番 | 044 (川崎MA)[4] |
ナンバープレート | 川崎 |
末長(すえなが)は、神奈川県川崎市高津区の地名。2013年及び2014年に住居表示が施行された、末長一丁目~四丁目[5][6]が存在する。郵便番号は213-0013[3]。2010年の国勢調査時点での面積は1.29 km2である[1]。
目次
地理[編集]
高津区の中央部にあり、北西では下末吉台地[7]に谷戸が入り込んでおり、南東が低地となっている[8]。低地部には富士通ゼネラルの本社があり、周辺も宅地となっている[6]。
東急田園都市線・第三京浜道路・南武線などの交通路が末長を通過し、梶が谷駅や京浜川崎インターチェンジなどが所在する。また、二ヶ領用水の分流である根方堀が台地と低地の境を流れている[9]。
末長は北端で下作延・久本・坂戸と、東端で中原区上新城と、南西端で新作・高津区梶ケ谷と接している(特記のない町域は高津区)。
地価[編集]
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、末長字高ノ面1394番3の地点で29万4000円/m2となっている。 [10]
歴史[編集]
古代・中世[編集]
当地からは縄文・弥生時代の遺跡が発掘されている[7]。また、田地の地割りが条里制の遺構だと考えられているほか、延喜式の「小高駅」に関係すると思われる「小高谷戸」の地名が付いていたなど[9]、古代からの歴史がうかがえるが、「末長」の名の初出は「小田原衆所領役帳」に、「稲毛末長」として残る[8]。
近世[編集]
江戸時代を通して、当地は旗本の国領氏・浅井氏・松波氏による三給の地であった[8]。「新編武蔵風土記稿」では民家71軒[11]。農地は畑より水田が多く[7]、村高は、正保年間の「武蔵田園簿」や「元禄郷帳」では508石あまり、「天保郷帳」では585石あまり、幕末の「旧高旧領取調帳」では587石あまりというように推移していた[7]。水利として、二ヶ領用水からの分流である根方堀のほか、「池の谷」と呼ばれた現在の梶が谷駅あたりに溜池を設けていた[9]。賦役として、溝口宿・品川宿の半高助郷を務めた。品川宿の助郷は負担が重く、何度も免除の嘆願を行なっているが、これが容れられることはなかった[12]。
近代・現代[編集]
明治以降、当地は橘村の一部となり、のちに川崎市へ合併した。当地では明治頃から養蚕が行われたり、大正末期からは養蚕に変わり野菜栽培が始まるなど、農村として推移していた[6]。しかし、1940年(昭和15年)に日本光学(現・ニコン)が水田を埋め立て当地に工場を設置し、海軍の光学兵器の生産を始めた[6]。その結果、1945年(昭和20年)には空襲を受けることとなり、工場が壊滅したのみならず周囲にも被害が出たが、日本光学は丘陵に地下壕を作り生産を続けたという[6]。
戦後の1955年(昭和30年)には日本光学の跡地に八欧電機(現:富士通ゼネラル)が進出し、周囲に社宅が建つなど、宅地化が進行していった[13]。
地名の由来[編集]
地名の由来ははっきりしていない[9]。ただし、いくつかの説が提起されている。
なお、源義家が後三年の役からの帰途に、当地の奇妙な石を見つけて、弓矢を納めて武運を祈り、この地の民が末永く栄えるように願ったという伝承が、「新編武蔵風土記稿」にも残っている[8][11]。
沿革[編集]
- 1091年(寛治5年)- 源義家が当地に立ち寄ったと伝わる。
- 1559年(永禄2年)- 「小田原衆所領役帳」に、「稲毛末長」とある。
- 1681年(延宝9年)- 溝口宿の助郷村となる[8]。
- 1735年(享保20年) - 溝口宿と品川宿の半高助郷を命じられる[12]。
- 1868年(明治元年)- 明治維新。当地は神奈川県の所属となる。
- 1872年(明治5年)- 学制施行。当地では明鏡寺に末長学舎が開かれる[6]。
- 1874年(明治7年)- 大区小区制施行により、当地は第5大区第4小区に属する。
- 1889年(明治22年)- 町村制施行に伴い、橘村が成立。末長はその大字となる。
- 1912年(明治45年)- 村内の神社が杉山神社に合祀される[14]。
- 1914年(大正3年)- 末長小学校が統合により橘小学校となり、当地からなくなる[6]。
- 1937年(昭和12年)- 橘村が川崎市に編入され、当地は川崎市末長となる。
- 1940年(昭和15年)- 日本光学(現・ニコン)の工場が開設される。
- 1944年(昭和19年)- 川崎市立高津高等女学校(現・川崎市立高津高等学校)が当地に移転(1954年に転出)[15]。
- 1945年(昭和20年)- 空襲を受ける。
- 1955年(昭和30年)- 八欧電機(現・富士通ゼネラル)の工場が設置される。
- 1958年(昭和33年)- 川崎市立末長小学校が開校[6]。
- 1964年(昭和39年)- 杉山神社が火災で焼失(1972年再建)[14]。
- 1965年(昭和40年)- 第三京浜道路が全通。当地に京浜川崎インターチェンジが設置される。
- 1966年(昭和41年)- 東急田園都市線の溝の口駅 - 長津田駅間が開通。当地に梶が谷駅が設置される。
- 1969年(昭和44年)- 一部が梶ケ谷に編入される[6]。
- 1972年(昭和47年)- 川崎市が政令指定都市に移行する。当地は川崎市高津区末長となる。
- 1977年(昭和52年)- 高津郵便局が当地へ移転。
- 2013年(平成25年)
- 2014年(平成26年)10月20日 大字としての末長から末長三丁目・末長四丁目が起立し、住居表示が施行される[18]。これをもって大字としての末長は消滅した。
町域の新旧対照[編集]
末長のうち住居表示が施行された区域について、施行前の字は以下のようになっていた。
現町丁 | 施行日 | 住居表示施行前の字 | 出典 |
---|---|---|---|
末長一丁目 | 2013年(平成25年)9月24日 | 末長字姿見台・字向台の各全部、末長字久保台・字中原の各一部 | [19] |
末長二丁目 | 2013年(平成25年)11月18日 | 末長字富士見台・字大谷の各全部、末長字久保台・字中原の残部、末長字宗田町の一部 | [20] |
末長三丁目 | 2014年(平成26年)10月20日 | 末長字宗田町の残部、末長字中町の一部 | [21] |
末長四丁目 | 2014年(平成26年)10月20日 | 末長字高ノ面各全部、末長字中町の残部 | [22] |
小字[編集]
住居表示施行前の末長には、姿見台・久保台・向台・富士見台・中原・大谷(おおやと)・宗田町・中の町・高の面という小字が存在した[23]。
世帯数と人口[編集]
2017年(平成29年)12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
末長一丁目 | 3,973世帯 | 7,925人 |
末長二丁目 | 1,938世帯 | 3,851人 |
末長三丁目 | 2,138世帯 | 4,882人 |
末長四丁目 | 2,379世帯 | 4,762人 |
計 | 10,428世帯 | 21,420人 |
小・中学校の学区[編集]
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[24][25]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
末長一丁目 | 6~10番 40~53番 |
川崎市立西梶ヶ谷小学校 | 川崎市立宮崎中学校 |
その他 | 川崎市立新作小学校 | 川崎市立橘中学校 | |
末長二丁目 | 1~13番 16番以降 | ||
その他 | 川崎市立末長小学校 | ||
末長三丁目 | 1~3番 5番以降 | ||
その他 | 川崎市立坂戸小学校 | 川崎市立東高津中学校 | |
末長四丁目 | 1~8番 | ||
その他 | 川崎市立末長小学校 |
交通[編集]
鉄道[編集]
当地を通る路線は東急田園都市線と南武線の2路線がある。東急田園都市線は当地で丘陵地を通り、梶が谷駅が設置されている。南武線は当地の低地を通るが、駅は設置されていない(南方の武蔵新城駅が利用可能である)。
路線バス[編集]
当地で路線バスを運行しているのは東急バスと川崎市交通局の2事業者であるが、両者とも梶が谷駅を拠点として丘陵上を結ぶバスと、溝の口駅を拠点として平地を結ぶバスを運行しており、末長の丘陵地と平地を直接結ぶようなバスはない。
道路[編集]

施設[編集]
教育施設[編集]
- 川崎市立末長小学校
- 川崎市立東高津中学校
- 南武朝鮮初級学校
脚注[編集]
- ^ a b 町丁別面積(総務省統計局 統計GIS) Archived 2013年10月29日, at the Wayback Machine.(Excelデータ) 川崎市、2010年(2012年10月18日閲覧)。
- ^ a b “町丁別世帯数・人口”. 川崎市 (2018年1月25日). 2018年2月15日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年2月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月15日閲覧。
- ^ a b 平成25年8月23日川崎市告示611号(同年9月10日川崎市公報1634号1945ページに採録、Web版 (PDF) )
- ^ a b c d e f g h i 『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』 p.502。
- ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』 p.501。
- ^ a b c d e f g 『川崎地名辞典(上)』 p.363。
- ^ a b c d 『川崎の町名』 p.167。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ a b 新編武蔵風土記稿 末長村.
- ^ a b 『川崎地名辞典(上)』 pp.363-364。
- ^ 『川崎の町名』 p.168。
- ^ a b 『川崎地名辞典(上)』 p.367。
- ^ “歴史”. 川崎市立高津高等学校. 2012年10月18日閲覧。
- ^ 平成25年8月23日川崎市告示610号(同年9月10日川崎市公報1634号1945ページに採録、Web版 (PDF) )
- ^ “平成25年度の住居表示実施予定地区”. 川崎市 (2013年10月18日). 2013年10月25日閲覧。
- ^ “平成26年度の住居表示実施地区”. 川崎市 (2014年10月20日). 2014年10月20日閲覧。
- ^ “住居表示新旧対照案内図 No.99 末長1丁目 (PDF)”. 川崎市 (2013年9月24日). 2013年10月25日閲覧。
- ^ “住居表示新旧対照案内図 No.100 末長2丁目 (PDF)”. 川崎市 (2013年11月18日). 2013年10月25日閲覧。
- ^ “住居表示新旧対照案内図 末長3・4丁目 (PDF)”. 川崎市 (2014年10月21日). 2014年10月27日閲覧。
- ^ “住居表示新旧対照案内図 末長3・4丁目 (PDF)”. 川崎市 (2014年10月21日). 2014年10月27日閲覧。
- ^ 『川崎地名辞典(上)』 p.365
- ^ “川崎市立小学校の通学区域”. 川崎市 (2015年4月1日). 2018年2月15日閲覧。
- ^ “川崎市立中学校の通学区域”. 川崎市 (2015年4月1日). 2018年2月15日閲覧。
参考文献[編集]
- 『川崎の町名』日本地名研究所 編、川崎市、1995年。
- 『川崎地名辞典(上)』日本地名研究所 編、川崎市、2004年。
- 『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店、1984年。
- 「稲毛領 末長村」『新編武蔵風土記稿』巻ノ62橘樹郡ノ5、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763983/89。
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