本田忠彦

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本田 忠彦
ほんだ ただひこ
生年月日 (1937-01-15) 1937年1月15日(82歳)
出生地 愛知県西尾町(現・西尾市上町)
出身校 愛知県立西尾実業高等学校(現・愛知県立鶴城丘高等学校
所属政党 無所属
称号 旭日中綬章
親族 父・本田明治(愛知県議会議員)

当選回数 4回
在任期間 1989年9月15日 - 2005年9月14日

当選回数 3回
在任期間 1975年1月 -
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本田 忠彦(ほんだ ただひこ、1937年1月15日 - )は、日本政治家実業家。元愛知県西尾市長(4期)、元西尾市議会議員(3期)。

来歴[編集]

家業を継いだ本田が1966年に設立した葵製茶。

愛知県西尾町(現・西尾市上町)生まれ。生家は大正初期創業の春香園製茶工場。父親の本田明治は春香園の経営のかたわら、愛知県議会議員を3期(1951年~1963年)務めた[1]

1955年(昭和30年)に愛知県立西尾実業高等学校(現・愛知県立鶴城丘高等学校)を卒業したのち[2]京都府宇治市で修業を積む[3]

抹茶は飲むだけでなく食用の時代が来ると感じた本田は3代目を継ぐと、製造主体体制から卸販売への転換を図る。1966年(昭和41年)3月に葵製茶有限会社を設立。碾茶の生産量を一日600キロに大規模化した[4]1971年(昭和46年)、西尾市茶業組合長に就任。

1975年(昭和50年)1月、西尾市議会議員に初当選。1984年(昭和59年)、愛知県茶商工業協同組合副理事長に就任[2]

1989年(平成元年)6月6日、西尾市長の本多貫一が5期引退を表明[5]。川上万一郎県議と市議会最大会派「市民クラブ」所属の稲垣実男派の議員17人は9月10日執行の市長選に向けて、助役の宮地松男を擁立。稲垣の系列に属する本多貫一も宮地支援に傾いた[6][7][8]。これに対し、同じ市民クラブ所属で故中野四郎派の流れをくむ本田が出馬を表明。この年の市長選は保守分裂選挙となった。加えて、西三河南部への勢力拡大を目論む旧愛知4区杉浦正健が本田の支援に回ったことから、保守分裂選挙は一気に派閥代理戦争へとエスカレートした[9]。結果は本田29,104票、宮地20,641票で、本田が初当選を果たした[10]

1993年(平成5年)、無投票で再選。1997年(平成9年)、3選。2000年(平成12年)11月、葵製茶社長を退任。4代目社長は妻が継いだ[4]

2001年(平成13年)の市長選は自民党、民主党公明党自由党の4党の推薦を得て立候補し4選。ただし西尾駅西地区再開発事業におけるホテル建設に関して反対派の市民が行った署名運動などのあおりを受け、落選した元県議の中村晃毅とはわずか3,502票差であった[11][12]2005年(平成17年)の市長選は出馬せず、4期で引退した。

2009年(平成21年)11月3日、旭日中綬章を受章[2]

脚注[編集]

  1. ^ 『愛知県議会史 第九巻』 愛知県議会、1981年3月16日、364頁。
  2. ^ a b c 『日外アソシエーツ whoplus』 「本田 忠彦(ホンダ タダヒコ)」の項
  3. ^ 『商工会議所情報 にしお』第631号 (PDF)”. 西尾商工会議所 (2014年11月1日). 2018年5月6日閲覧。
  4. ^ a b 葵製茶について | 葵製茶 国内有数メーカーの抹茶を通販で
  5. ^ 中日新聞』1989年6月7日付朝刊、県内版、16面、「悔いなし最多選市長 本多・西尾市長の引退表明 後継候補一本化は微妙」。
  6. ^ 『中日新聞』1989年9月4日付朝刊、県内版、13面、「“派閥代理戦争”色濃く 稲垣系旧中野系 思惑絡む西尾市長選」。
  7. ^ 『中日新聞』1991年5月8日付朝刊、県内版、30面、「汚れた当選 愛知県議逮捕の衝撃 (2) 危機感 再起かけた保守決戦」。
  8. ^ 朝日新聞』1991年7月19日付朝刊、27面、「根深い『政治と金』の土壌 川上県議きょう辞職 愛知」。
  9. ^ 『中日新聞』1989年9月11日付朝刊、県内版、13面、「西尾市長選、本田氏当選 西三河南部に“激震” 稲垣派苦しい立場」。
  10. ^ 第10回 西尾市長選挙 (PDF)”. 西尾市役所. 2018年5月6日閲覧。
  11. ^ 東海愛知新聞』2001年9月11日、1面、「本田氏が4選果たす 西尾市長選 投票率は60・82%」。
  12. ^ 第13回 西尾市長選挙 (PDF)”. 西尾市役所. 2019年3月24日閲覧。