朱ソウ

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本来の表記は「朱樉」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

朱 樉(しゅ そう、至正16年11月11日1356年12月3日) - 洪武28年3月20日1395年4月9日))は、中国皇族

家系[編集]

父は明の太祖洪武帝で次男。母は正妻の馬皇后皇太子朱標や第3代皇帝となった朱棣とは同父母の兄弟。

生涯[編集]

1370年に秦王に封じられ、1378年西安に赴任した。父の洪武帝からは兄の朱標に次いで寵愛され、赴任するときも父から訓戒を受けている。温厚で篤実な人物だったという。しかし1389年、何らかの罪を犯したとして洪武帝により都に召還される。洪武帝は厳罰を考えていたが、兄の朱標が懸命に弁護したため無罪とされた。このことから朱標とも仲が良かったと思われる。

洪武28年(1395年)、洮州の少数民族が反乱を起こすと、洪武帝の命令で出兵して鎮圧に貢献した。しかし同年の3月に病死した。享年40。

父の洪武帝は先年の朱標に続く年長の我が子の死に「朕より早く世を去るとは」と嘆いたという。

家族[編集]

妻妾[編集]

  1. 正妻: 愍烈妃 − モンゴル名の漢字表記は観音奴、明では姓を王氏とされた。の将軍だったココ・テムルの妹。捕虜となり、政治的な要因により朱樉と結婚した。朱樉の死後、洪武帝から殉死を命じられた。
  2. 次妃(妾妻):鄧氏 − 鄧愈の娘。朱樉の寵愛を受けたが、洪武帝の怒りを買い、迫られて自ら縊死した。

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  1. 秦隠王 朱尚炳
  2. 永興懿簡王 朱尚烈
  3. 保安悼僖王 朱尚煜
  4. 興平恭靖王 朱尚烐
  5. 永寿懐簡王 朱尚灴
  6. 安定王 朱尚炌

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  1. 蒲城郡主
  2. 長安郡主

参考文献[編集]

  • 明史』列伝第三 諸王一
  • 『賽因赤答忽公墓志銘』