朴市秦田来津

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朴市秦田来津
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 天智天皇2年8月28日663年10月5日
別名 氏:秦、朴市
官位 小山下
主君 斉明天皇天智天皇
氏族 朴市秦
父母 父:秦河勝
兄弟 秦綱手、秦石勝、田来津、秦物主
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朴市秦 田来津(えち の はた の たくつ)は、飛鳥時代の人物。氏は朴市とも記される。大花上秦河勝の子とする系図がある[1]冠位小山下

出自[編集]

渡来系氏族秦氏の一族。近江国愛智郡に移り地名を冠して、朴市秦と名乗ったと考えられる[2]延暦年間(782年 - 806年)に依知秦公(えちはたのきみ)と記された木簡が発見されている。上蚊野古墳群(愛知郡秦荘町大字上蚊野)は依智(依知)秦氏の居住が色濃く認められる地にあり、古墳時代後期における渡来系氏族の居住が契機となって本格的な群集墳を造営したものと理解されている[3]

滋賀県東浅井郡浅井町にある湯次山誓願寺には、田来津を秦河勝の子とし、その子孫を誓願寺開基了慶以下誓願寺21世了忍まで繋げる系図がある[1]

経歴[編集]

大化元年(645年古人大兄皇子を擁立し、蘇我田口川堀・物部朴井椎子・吉備笠垂倭漢文麻呂と謀反を企てた[4]

後に許されたらしく、斉明天皇7年(661年)9月には大山下狭井檳榔と共に兵士5000を率いて、百済の王子・扶余豊璋を百済に衛送している(この時の冠位は小山下)[5]

天智天皇元年(662年)12月に豊璋と臣下の扶余福信は食糧事情を理由に州柔から避城への遷都を主張する。田来津は守りやすく攻めにくい州柔から平地で敵に近い避城への遷都を反対するが、結局遷都は断行された[6]。ところが、遷都間もない天智天皇2年(663年)2月に新羅人が百済南部の4郡を焼き討ちして徳安などの要地を奪取したため、田来津が懸念していた通り、新羅勢力から近過ぎる避城から州柔へ還都することになり[7]、遷都は費用と労力の浪費と内部対立を残したものとなった。

同年3月に軍の侵攻から百済を救済するため、大和朝廷は前軍将軍・上毛野稚子以下27,000人の兵士を朝鮮半島に派遣したが[8]、同年8月の白村江の戦いで唐の水軍に敗れ、百済救済は無に帰した。この時、田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが遂に戦死した[9]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「湯次誓願寺系譜伝」(鈴木真年『百家系図』巻第63所収)
  2. ^ 「朴市秦造」『滋賀県百科事典』大和書房、1984年
  3. ^ 公益財団法人 滋賀県文化財保護協会. “新近江名所圖会 第73回 依智秦氏の里-依智秦氏の里古墳公園”. 2013年8月27日閲覧。
  4. ^ 『日本書紀』大化元年9月3日条
  5. ^ 『日本書紀』天智天皇即位前紀斉明天皇7年9月条
  6. ^ 『日本書紀』天智天皇元年12月条
  7. ^ 『日本書紀』天智天皇2年2月2日条
  8. ^ 『日本書紀』天智天皇2年3月条
  9. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月28日条

参考文献[編集]

  • 『滋賀県百科事典』大和書房、1984年
  • 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社学術文庫、1988年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年