杉下茂

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杉下 茂
中日ドラゴンズ 臨時コーチ
Sugishita Shigeru 1955.JPG
1955年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京府東京市神田区(現:東京都千代田区
生年月日 (1925-09-17) 1925年9月17日(94歳)
身長
体重
182 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1949年
初出場 1949年4月3日
最終出場 1961年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1985年
選出方法 競技者表彰

杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - )は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身の元プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者

日本初の本格的なフォークボーラーとされており[1]、現役時代は驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操り一世を風靡した。杉下のフォークが日本球界に与えた影響の大きさから「フォークボールの神様」と呼ばれている。

史上初の沢村栄治賞3回受賞者。また、史上4人目の投手5冠王を達成した。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

杉下家の本家は「岐阜の小京都」として知られる郡上八幡だが、実家は大きな中華料理屋で、茂は父親が50歳ほどの時に生まれた[2]。茂にとって父親は身体を壊して寝込んでいる印象しかないが、野球好きで寝床にいながら東京六大学野球の試合をラジオで聞きながらスコアブックを付けていた。また母は野球好きではなかったが、日曜日には弁当を持って神宮球場へ連れて行ったという[2]。茂が2~3歳の頃に一家は父親の職場がある中央区新川へ転居したが、その際にグローブとミットを買ってもらい、明正小学校低学年の頃に3歳上の兄とキャッチボールを始めた。当初は兄が投手、茂が捕手でプレーしていたが、茂は「本当は投手が良かったが弟だから仕方ない」として諦めていたという。4年生の2月に父親が病没すると神田区(現:千代田区)神田へ転居し、錦華小学校へ転校した。錦華小学校は神田区では区大会で負けなしの強豪で、4~5歳年上の仲間に混ざってプレーしていたところを野球部へ勧誘された。初の試合のみ捕手を務め、2試合目から投手としてプレーする。

旧制帝京商業学校では野球部に所属し、監督だった天知俊一の元で4番・一塁手としてプレーした。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。1944年3月に卒業後へ入隊し、野球経験者という理由だけで中隊対抗の手榴弾投げ競争の代表選手に選ばれた。そのために弱肩を言い出せず、投球フォームを上手投げに矯正して必死に遠投を練習した結果、肩が強くなって優勝した。終戦後はアマチュア野球のいすゞ自動車へ入社し、当時監督だった苅田久徳によって本格的に投手として起用される[3]1946年1月に復員後はいすゞ自動車へ復帰し、1943年まで存在したプロ野球「大和軍」から苅田や高橋吉雄らを引き取り、本格的に「いすゞ自動車硬式野球部」として創部した。初の対外試合は日本コロムビア戦で、苅田から投手で起用されるといきなりノーヒットノーランを達成した。その際の球審は奇しくも天知で、病気療養の弱肩投手から強肩速球派投手に進化していた杉下に驚愕していた[2]

第二次世界大戦で中断していた東京六大学野球リーグが再開された1946年春、いすゞ自動車を退社した杉下は野球を続けるために明治大学旧制専門部へ入学した。苅田は法政大学出身だったために杉下に「都市対抗が終わったら法政に入れ」と言っていたが断り、杉下の明大入学に関しても天知は一切関与していないという。監督だった八十川胖の指導で練習を行うがその練習はいい加減なもので、午前中に300球近くを投げ込んだ後に打撃練習へ2時間登板、投げ方も横や下など定まらない投球で、一日1000球も投げ込んだという。また、八十川から杉下が天知の教え子と聞くや、杉下が一塁手をやっていたらしいというだけで一塁でノックを受けさせたほどである。

明治大学旧制専門部を卒業する直前の1948年正月、岡山県立琴浦商業学校に投手として在籍していた東谷夏樹にナックルボールを教えていた杉下を見かけた天知から、「『フォークボール』というものがある」と教えられる。しかし、試合で初めて投じた1球目が当たり損ないの安打になったことで縁起の悪さを嫌い、すぐに封印してしまった。封印後も八十川から吐くほどにまで投球練習をさせられてついに肩を壊したが、杉下は「残念だったのは在学中に一度もリーグ戦で優勝できなかったこと」と述べている[2]

プロ入り後[編集]

米キャンプ参加から五冠王[編集]

明治大学旧制専門部での3年間を終え、そのまま学部(3年間)へ進学するかプロ入りするかで迷った杉下は、結局1949年中日ドラゴンズへ入団した。父親の病没後に駄菓子店を営んでいた母親からは「お金は何とかなるから学部へ進め。野球を職業にしてはいけない」と猛反対され、明治大学監督の宮坂達雄からは財界からスポンサーを探したが、他人の世話になって大学を卒業することに抵抗を感じていたという。杉下の中日入団に関しては天知と、駿台倶楽部会長だった小西得郎の世話があったという[3]。また、入団直前には当時の人気コメディアンで亡くなったばかりの高勢実乗の2代目としてスカウトされたが、その理由は「(杉下の)風貌がよく似ていた」というだけだったという[4]。契約金50万円・年俸36万円での入団で、当時はラーメンが1杯50円の時代だったが、「10年やればサラリーマンの生涯賃金より多くなるはず」と言われたという[2]

プロ初登板となった1949年4月3日の対南海ホークス2回戦(中日球場)で初勝利を挙げると、対東映フライヤーズ戦では封印していたフォークボールを用いて大下弘から3打席連続三振を奪った[1]。同年は右肩を痛めるも8勝を挙げ、1950年からは1955年まで6年連続20勝を含む、9年連続2桁勝利を記録した。

1950年の春季キャンプでは右肩の痛みから球拾い専門となったが、5月頃から痛みが消え、再発防止のために名古屋での試合後は超短波治療を受け続け、55試合登板で27勝(15敗)、防御率3.20の好成績を残した。1951年2月下旬にはサンフランシスコ・シールズ監督のフランク・オドールからキャンプに招待されて渡米する。杉下自身は後年、「どうして選ばれたのか分からないが、投手はオレ一人。その代わり野手は川上さん、藤村さん、小鶴さんと当時の強打者ばかり。球団代表が『杉下は(キャンプ参加のために)半年間帰国出来ないかもしれない』と話すと、天知監督は困った顔をしていた[5]そうだ」「川上さんは将来の日本球界を背負って立てるよう、『監督やコーチをよく見ておくように』と指示が出ていたらしい」と述べている[2]。その甲斐あって同年は28勝(13敗)で初の最多勝、防御率2.35で沢村賞を初受賞した。1952年も32勝を挙げる活躍で2年連続の沢村賞を受賞している。

杉下にとってプロ野球生活最高の年となった1954年は、32勝・防御率1.39・273奪三振を記録して中日ドラゴンズの初優勝を飾るだけでなく、自身も最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封を挙げ、日本プロ野球史上4人目、2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝いた[6]。それ以外にもMVPベストナイン、沢村賞に関しては史上初の3度目の受賞となった。優勝を争った読売ジャイアンツからはチームで14勝(12敗)を挙げたが、杉下ひとりで11勝を挙げた[7]同年の日本シリーズ(対西鉄ライオンズ戦)においても7試合中5試合に登板し、4試合で完投[8]、自身も3勝1敗で日本一に貢献し、球団史上初となる日本シリーズMVPに輝いた[9][10]

金田との投げ合い[編集]

杉下と金田正一国鉄スワローズ)の投げ合いは1950年代のプロ野球を代表する名勝負として現在でも語り草となっている。

1954年の中日ドラゴンズは読売ジャイアンツと優勝を争っていたが、国鉄との試合に敗れれば優勝を逃す成績となっていた。監督の天知俊一は杉下に対し、国鉄のエース・金田が登板する試合は必ず登板するよう指示しており、杉下もそのように調整を行っていた。結局、杉下は金田と投げ合って全勝を収め、金田は対中日ドラゴンズ戦で1勝7敗と大きく負け越す結果となった[11]。杉下は「3年目の石川が21勝を挙げて、(自身との)2本柱が出来たことが大きかった。僕が投げるのは主に巨人戦と金田が先発する国鉄戦。金田からは点が取りにくいから相手打線を抑えるしかない。それ以外は石川の担当だ」と述べている[2]

1955年5月10日の試合(川崎球場)でも金田と投げ合い、1-0の僅差スコアでノーヒットノーランを達成した。この試合で杉下が許した走者は四球のみの準完全試合だったが、その四球は奇しくも金田に与えたものだった。試合後、球審を務めた円城寺満から杉下へ「すまんかったのぉ。あの(四球となった金田への)高めの球はストライクと言ってもよかった」と声をかけられたが、杉下は後年、「ストライクゾーンが広い現代なら文句無しのストライク。高低は球1個分以上、左右も半分は違う」と述べている[2]。また、1957年8月21日の試合(中日球場)では0-1で敗戦投手となったが、その試合で金田は完全試合を達成している。

選手兼任監督就任[編集]

1957年10月23日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)ではプロ入りから僅か8年目で通算200勝を達成[12]、敗戦投手は後にプロレスラーへ転向する馬場正平だった。

プロ10年目が終わった1958年に球団事務所を訪問すると、球団から「思い切ったことを考えているから、後日また来るように」と言われる。3日後、杉下が再度訪問すると「西沢(当時37歳)と服部(当時38歳)には辞めてもらう。30歳以上の選手は不要」と伝えられた。杉下自身も翌年には34歳になるものの、杉下には残留が要請された。しかし、その要請も投手としての登板を考慮されないものであり、別の日に訪問すると監督就任を要請された。杉下は前年にも11勝を挙げているために本人は寝耳に水だったが、監督就任を受諾する条件として服部と西沢の背番号(10・15)を永久欠番とし、引退試合を行うことを要請した。この条件は了承され、杉下は自身の背番号20も欠番にするかと問われても、「まだチームにいます」として拒否した。中日ドラゴンズ時代に挙げた通算211勝は、2012年山本昌に抜かれるまで球団記録だった。

1959年から1960年まで中日ドラゴンズの選手兼任監督に就任したが、監督業に専念したために公式戦の出場は一切無かった。監督1年目は伊奈努(当時24歳)、児玉泰大矢根博臣(共に当時25歳)ら若手投手が揃い、野手も捕手で入団した新人の江藤慎一を一塁で起用、入団2年目の前田益穂を三塁や遊撃に抜擢した。一気に若返ったチームは、64勝61敗5分で阪神と同率2位になった[2]が、監督2年目の1960年は投手陣が崩れ、63勝67敗の5位に終わった[2]

1961年には毎日大映オリオンズへ投手コーチとして訪問したが、永田雅一からの一言で現役復帰を果たし、同年限りで現役引退した。この年は僅か4勝しか挙げられなかったため、生涯シーズン平均20勝を越えることが出来なかった[13]

現役引退後[編集]

1962年には大毎の一軍投手コーチに就任し、菅原紀元若生智男坂井勝二とタイプが異なる10勝投手を3人輩出すると、最終戦終了後に即座に辞表を提出した[2]。後日、天知に呼び出されて東京・新橋の料亭へ行くと、阪神タイガース監督の藤本定義がおり、天知からの「藤本さんの野球を勉強してこい」の一言で阪神タイガースの一軍投手兼ヘッドコーチに就任した。就任後、フロントからは「新聞記者を大切にして下さい」と言われ驚いたが、これは中日では親会社が新聞社のため、記者のことを一切気にしていなかったからとされていた。エース・村山実と両輪だった小山正明1963年のいわゆる「世紀のトレード」で移籍後、解雇寸前だったジーン・バッキーを春季キャンプ中に身体の使い方から投球方法まで徹底的に指導して29勝・防御率1.89の二冠を獲得させ、チームもリーグ優勝させた。シーズン終了後には野球評論家として、速球派左腕であるものの変化球に難があり評価が二分していた江夏豊大阪学院大学高等学校)を調査して獲得を薦めたが、藤本から「江夏は記者との話し方を知らないから教えてやれ。お前が取れと言ったんだからな。責任がある」と言われてしまった。

1966年には阪神タイガースの監督に就任、藤本は総監督となったが、この年は投手陣の不振で読売ジャイアンツとは15ゲーム差の4位に低迷していた[14]。ある日の試合で、杉下は審判から「権藤正利がフォームに難があり、マウンドで非常に(ボークと)紛らわしい動作をするので、きちんと静止させるように。静止しないなら完全にボークです」と指摘された。その後、8月10日の対読売ジャイアンツ戦にて審判から「権藤と話して下さい。相手球団からも抗議が来ている」と言われたため、権藤に「今日だけは(紛らわしい動作を)止めてくれ」と伝えた。5回裏2死満塁で三塁側の巨人コーチである牧野茂が三走の黒江透修に本盗のサインを出し、黒江は本塁でアウトとなったものの牧野が「ボークだ」と猛抗議し、判定が覆った[15]。権藤の癖を知り尽くした策略だったが、結局その1点で負けたこともあり、怒り心頭の選手とは裏腹に審判の説明を少し聞いただけであっさり引き上げ、選手に何の説明もしない[15]杉下について、捕手・辻佳紀が試合後に「かつての名投手か何だか知らんが、ボーク問題は微妙なんだ。自分ひとりが説明を聞いて納得しても我々の気持ちは収まらんよ。責任者は喧嘩するつもりでやってもらわんと。それが何だい?ああやって簡単に引き下がっちゃって。ファイトファイトと言って一番ファイトが無いのは誰だい」と吠えた[15]。杉下自身も、「オーナー(野田誠三)も烈火のごとく怒ってしまった。『あんな生温い抗議するヤツにユニフォームを着させてはいけない』と。そう言われても仕方ない。試合前に(審判から)『ボークを取ります』と言われたんだから…」と述べている。また後年、「この年は新人で藤田平が入団し、藤田を試合で使うようオーナーから指令があったものの、当時の正遊撃手は吉田義男。峠は越していたかもしれないが、あれだけの吉田を使わずに高卒新人を使えというのは無茶な話だ。この時は吉田を二塁に回して対応したが、随分頭を悩ませた」と語っている。結局、杉下は同年8月13日に遠征先の広島で休養を命じられ、藤本が再び指揮を執ることになった。球団からは「杉下が気疲れから休養の申し出があり、それを受けた」とマスコミ各社に連絡があった。

1968年には古巣・中日の監督に復帰するが、前年まで3年連続2位だったことから新聞には「このままの布陣ではBクラス」と連載された[2]。春季キャンプ直前になって監督の西沢道夫が健康上の理由で辞任し、杉下に球団から「何とかしろ」と就任要請が来たが、4月20日から9連勝で首位に立つも最下位に低迷、シーズン終了を待たず8月に解任された[16]。その後は1969年から1975年までTBSテレビ中部日本放送の野球解説者[17]を務める。東京中日スポーツ評論家だった1974年ロッテオリオンズの投手コーチである植村義信から依頼されて村田兆治にフォークボールを指導、村田は自分なりにアレンジして習得した。しかしその後、同年の日本シリーズでは中日との対戦となり、村田がアレンジしたフォークボールで三振の山を築いたことで杉下は球団から激しく怒られたという[18]

1975年シーズン終了後、セ・リーグ会長の鈴木龍二から「(最下位に終わった)巨人をどう思う?お前が何とかしてやれ」と言われ、読売ジャイアンツの一軍投手コーチに就任した。前年に長嶋茂雄が引退して監督に就任したが、いわゆるV9戦士に衰えが目立ち、球団史上初の最下位に終わっていた。1976年太平洋クラブライオンズから加藤初が移籍して15勝、小林繁が前年の5勝から18勝、新浦寿夫も11勝を挙げてリーグ優勝を果たし、野手はベテランが多かったが投手が頑張れば若手へスイッチ出来ることを表した。1977年に2連覇を果たしてからは1978年から2位、5位と低迷し、1979年秋の「地獄の伊東キャンプ」で若手と中堅を徹底的に鍛え上げた。杉下は1980年を最後の年と決めており、シーズン中は高橋善正コーチを育成するためにベンチとブルペンを交代で担当していた。結局、チームは優勝を逃したものの最終戦に勝利して長嶋の留任条件であるAクラス(3位)を確保し、翌朝には長嶋とコーヒーを飲みながら「伊東の成果が出ましたね。江川を筆頭に投手陣は盤石。来年は優勝できます」と話していた[2]が、長嶋は解任、杉下もコーチを退任した[19]

1978年には往年のライバル、金田が中心となって「名球会」が設立された。昭和生まれで野手は通算2000本以上の安打、投手は通算200勝以上を日本プロ野球の公式戦で挙げた選手、元選手が入会条件とされた。杉下は中日で通算200勝を達成していたが、大正生まれのために入会の対象外となった。名球会が発足した当時の存命者では別所毅彦野口二郎藤本英雄(通算200勝以上)、川上哲治(通算2000本安打以上)も同様の理由で対象外となっている。

1981年から再びTBSテレビの野球解説者を務め[20]1993年からは西武ライオンズの一軍投手コーチを務めた。杉下は、当時の西武に清原和博秋山幸二、投手も工藤公康などが揃った黄金時代だったことから「寝ていても勝てるような布陣」と述べている[21]。同時に、「選手を、というより森(投手コーチ)を一人前にするのが仕事だった。渡辺工藤潮崎鹿取らが主力だからコーチなんか要らない。色んな球団に行ったけど一番楽だった」と述べている[2]

1985年に野球殿堂入りを果たし、プロ野球マスターズリーグ「名古屋80D'sers」の監督を2006年から2年間務めたほか、2007年からは中日スポーツ紙上に自伝風コラム「伝える」を掲載していた。

1996年以降は中日ドラゴンズの春季沖縄キャンプに毎年参加し、90歳を超えた現在でも臨時コーチとして投手の指導に当たっている。中日以外にも各チームのキャンプを巡回しては精力的に投手の指導を行い、特にフォークボールの指導は熱が入る。

1956年から1960年まで東映フライヤーズの監督を務めた岩本義行2008年9月26日に死去したことに伴い、1950年代にプロ野球の監督を務めた人物では最後の存命者になった。

フォークボール[編集]

明治大学在学中に天知俊一から教えられた「フォークボール」は、試合で初めて投じた際に当たり損ないの安打になって以降、杉下自身が縁起の悪さを感じて封印した。しかし、プロ入り後は封印していたフォークボールを駆使し、「青バット」と呼ばれた大下弘から三振を奪うなど、「日本初のフォークボーラー」として名を売った。

試合で投じるのは数球[編集]

杉下は日本初のフォークボーラーとして名を売ったものの、現在のフォークボーラーのような高い奪三振率は記録していない。その理由として「フォークボールを『最後の切り札』とする信念のもと、勝負所でのみ投じていたため」である。そのため、1試合で投じるフォークボールは多くても5~6球程度と少ないものだった[1]。杉下はフォークボールについて、「神様用のボール」と述べたうえで、「神様以外には見せ球しか使っていないが、それだけで相手は(フォークボールが)いつ来るかで迷ったという。また、『神様を倒して日本一の投手になる』と思っていた」と述べている[22]。ある日、広岡達朗から、川上が杉下のフォークボールの打ち方を寝ないで研究していたことを聞くと「川上さんにも打たれたことは無い。流石に真っ直ぐ(直球)だけだとやられるから、“神様”を誤魔化すための球だった。僕の現役時代を知らない人はフォークボールばかり投げていたと思っているかもしれないが、(フォークボールを投じるのは)1試合で数球だ。しかも(プロ入りした)1949年から日本一になった1954年まで。現役は1961年まで続けたが1955年以降はほとんど投げていない。直球に自信があったし、まやかしのボールで打ち取っても面白くなかった。初対戦の打者にはまず投げない。まず外角低めへ2球、最後は内角高め。最初に内か外かは投げた本人にも分からない。捕手はミットを左右に動かして球を追いかけても捕球出来ないから、よくバッテリーを組んだ河合保彦は身体で止められるように中腰で構えていた。投げる目標は河合のマスクの奥のおでこ。高めギリギリに投げて捕手の手前でバウンドしたから、落差は最大で1メートルくらいあったと思う。サインはパーで直球、グーがカーブ、チョキがフォーク」と述べている[2]

杉下は、あくまでも配球は速球中心とし、そこにカーブなどの変化球を交えるスタイルで、フォークボールには固執しなかった。しかし、直球勝負にこだわりすぎるあまり、1956年3月25日には樋笠一夫に日本プロ野球史上初となる「代打逆転サヨナラ本塁打」を浴び、広岡にもサヨナラ本塁打を打たれている[2]。さらに選手晩年には新しい投球方法を模索するも結果が出ず、1961年に移籍した毎日大映オリオンズでは僅か4勝に終わり、フォークボールに回帰することなく同年限りで現役引退した。引退後の自著では、現在のフォークボーラーのようにフォークボール中心の投球を行っていれば、それ相応の成績が残せていたかもしれないと回想している。

ボールの気の向くまま[編集]

杉下が投じていたフォークボールは現在の一般的なフォークボールとは異なり、球が全く回転することなく左右に揺れながら落ちる、いわゆる「ナックルボール」に近いものである[1]。その球はのようにひらひら舞うとされ、そして調子の良い時は三段に渡って振れながら落ち、打者の手元でさらに二段階に渡って落ちたという[23]川上哲治が「ボールの縫い目が見えた」「捕手が取れないのに打てる訳がない」と言うほど[1]の変化が起きるのは杉下の長い指があってこそで、杉下は人差し指と中指の第二関節の間をボールが触れることなく通過したとも言われている[24]。しかし、杉下は「(球が)右へ行くのか左へ行くのか、ボールの気の向くまま。精密なコントロールなどとは無縁なものでした」と述懐しているほか、フォークボールを投じる際はとにかく腕を思い切り振り、捕手の顔面目掛けて投げることだけに集中していたという。

周囲からは「魔球」と呼ばれ、他球団でも多くの打者が研究したが、杉下は自身の財産だとして秘密を守り、オールスターゲームなどで他チームの捕手とバッテリーを組んだ際には決して投げず、マスコミにも握り方を見せることを拒否した[1]

現役時代に杉下と名勝負を繰り広げた金田正一は、「自分が見た最高の投手は藤本さんでも別所さんでもない。正真正銘のフォークボールを投げた杉下さん」と語っており、青田昇からも「金田よりお前の方が速かった」と言われたことがあると述べている[2]。杉下も「フォークボールの亜流を投げた者は大勢いるが、本物のフォークボールを投げた者は五人。私と村山実村田兆治野茂英雄佐々木主浩だ」と言い、現在の投手がフォークボールと称して投げているのはスプリットだと語っているほか、失投でないフォークボールが打たれたのは長嶋茂雄に一度だけだと語っている。

フォークボールの伝授[編集]

杉下自身が最初にフォークボールを伝授したのは板東英二だという[25]

プロ野球選手としては決して手の大きい方ではない板東がフォークボールを習得したことは杉下自身も印象に残ったようで、1975年読売ジャイアンツの投手コーチに就任後、江川卓に投げ方を指導する際には、わざわざ板東を遠征先に呼び出し、「フォークボールの握り方を見せてやってほしい」と頼んだという。また、村山実など1960年代から1970年代にかけてフォークボールを武器に活躍した投手の大半は、自身の教え子であるとテレビ番組で発言していた。

杉下は「村山が関大の頃から、ある人を通して教えていた。中日や巨人も狙っていたが、肝臓が悪いと聞いて手を引き、阪神に入った。最初の中日監督時代はライバルチームだが記者を通して頼まれ、ブルペンでこっそり指導したこともある。三塁コーチに立つと、彼がフォークを投げるときは全部分かったから打者に伝えたよ。阪神でコーチと選手の関係になると『腕の位置を下げて、いい変化をするところを探ってごらん』と助言した。フォークは横手でも、下手でも投げられるんだ。彼は『お客さんは、僕が真上から投げ下ろす“ザトペック投法”を見に来ます。イメージを壊したくないので、いよいよダメになったら(腕の位置を)下げます』とオーバースローにこだわった」と述べている[2]。しかし、杉下自身は速球が投手の価値であり、変化球は衰えを補う「最後の手段」と位置づけており、変化球は好投手の必須条件ではなく、投手の技術でもないと語った[1]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1949 中日
名古屋
中日
29 15 7 0 0 8 12 -- -- .400 688 159.2 160 15 66 -- 3 66 1 0 81 65 3.66 1.42
1950 55 30 22 2 0 27 15 -- -- .643 1361 325.2 269 24 134 -- 7 209 5 0 135 116 3.20 1.24
1951 58 24 15 4 0 28 13 -- -- .683 1243 290.1 274 18 90 -- 5 147 4 0 116 76 2.35 1.25
1952 61 30 25 6 2 32 14 -- -- .696 1448 355.2 316 13 96 -- 3 160 5 0 118 92 2.33 1.16
1953 45 27 13 1 1 23 9 -- -- .719 1114 266.2 230 16 91 -- 9 156 4 0 98 84 2.83 1.20
1954 63 32 27 7 1 32 12 -- -- .727 1531 395.1 265 9 103 -- 7 273 7 0 71 61 1.39 0.93
1955 53 27 24 5 5 26 12 -- -- .684 1253 328.0 226 16 57 1 5 247 2 0 62 57 1.56 0.86
1956 42 26 19 4 5 14 14 -- -- .500 949 248.0 172 11 48 1 0 167 2 0 70 55 2.00 0.89
1957 41 12 6 1 1 10 7 -- -- .588 639 169.1 108 11 32 1 1 122 4 0 43 33 1.75 0.83
1958 46 18 10 1 2 11 9 -- -- .550 858 218.0 169 16 46 1 3 161 4 0 56 43 1.78 0.99
1961 大毎 32 4 2 0 1 4 6 -- -- .400 353 85.0 77 5 29 2 1 53 2 0 29 23 2.44 1.25
通算:11年 525 245 170 31 18 215 123 -- -- .636 11437 2841.2 2266 154 792 6 44 1761 40 0 879 705 2.23 1.08
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1959年 昭和34年 中日 2位 130 64 61 5 .512 13 106 .237 2.77 34歳
1960年 昭和35年 5位 130 63 67 0 .485 9 87 .230 3.08 35歳
1966年 昭和41年 阪神 3位 135 64 66 5 .492 25 81 .233 2.52 41歳
1968年 昭和43年 中日 6位 134 50 80 4 .385 27 142 .246 3.72 43歳
通算:4年 405 182 215 8 .458 Aクラス2回、Bクラス2回

※1959年から1962年、1966年から1996年までは130試合制

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 20 (1949年 - 1962年)
  • 63 (1964年 - 1966年、1968年)
  • 71 (1976年 - 1980年、1993年 - 1994年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『フォークボール一代:勝利への投球、その闘いの足跡』(ベースボール・マガジン社:1988年12月) ISBN 978-4583027210
  • 『幻のメジャーリーガーとフォークボール:50年以上前、私は野球の本場アメリカからスカウトされた』(本の友社:2004年4月) ISBN 978-4894394568
  • 『伝える:わたしが見てきた野球80年』(中日新聞社:2010年11月) ISBN 978-4806206194
  • 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』(中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590

関連書籍[編集]

  • 『杉下茂物語』(金子家基著、室町書房、1955年)
  • 『中日ドラゴンズ名選手の時代:テレビマンが描いたドラゴンズ痛快伝説』(浅野芳光著、名古屋丸善出版サービスセンター、2007年11月、ISBN 9784895973854)
  • 『杉下茂「魔球」の行方:日本初の本格派フォークボール投手と中日ドラゴンズの栄光:昭和29年』 (富永俊治著、アルマット、2010年8月、ISBN 9784877315283)

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g ツーシームみたいに 杉下茂『週刊ベースボール』2011年10月17日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-10/17, 73頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、杉下茂、産経新聞出版、P297-346、2015年
  3. ^ a b 関三穂『プロ野球史再発掘(2)』ベースボール・マガジン社、1987年、P9 - 25。
  4. ^ 2009年12月27日付中日スポーツ「伝える」
  5. ^ 天知は杉下が中日ドラゴンズへ入団した1949年、中日の監督に就任している。その後、1952年シーズン後に辞任し、1954年に監督へ復帰している。
  6. ^ 『プロ野球データブック・最新版』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1995年)p.756
  7. ^ 1シーズンで読売ジャイアンツから10勝以上を挙げた投手は、2020年現在でも杉下ただひとりである。
  8. ^ 4試合の完投は1958年稲尾和久(西鉄ライオンズ)と並ぶ日本シリーズタイ記録。
  9. ^ 1954年から2006年まで、日本シリーズ最優秀選手(MVP)の受賞者には副賞としてトヨタ自動車協賛の高級乗用車が贈られ、杉下は最初の受賞者となった。ただし、広島東洋カープが日本一となった場合は資本関係の都合でマツダ協賛となる。
  10. ^ なお、中日ドラゴンズはこれ以降、2007年まで日本シリーズ出場から遠ざかることとなり、杉下は長らく「中日選手として唯一、日本シリーズMVPに輝いた男」と称されることとなった。
  11. ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 杉下茂 ベースボールマガジン社 2013年10月
  12. ^ 『朝日新聞』1957年10月24日付朝刊 (12版、7面)
  13. ^ このため、この記録は日本プロ野球史上では金田のみが持つこととなった。
  14. ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』233-235頁、中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590、
  15. ^ a b c 週刊ベースボール60周年記念企画 巨人・牧野茂コーチの策略/週ベ回顧”. 週刊ベースボール. 2019年4月2日閲覧。
  16. ^ 伊原監督が無期限休養 管理野球浸透せず日刊スポーツ2014年6月5日配信
  17. ^ 杉下著『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』、269頁
  18. ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』、248頁
  19. ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』240頁
  20. ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』、270頁
  21. ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』241-242頁
  22. ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 ベースボールマガジン社2013年10月
  23. ^ 『伝説のプロ野球選手に会いにいく』白夜書房2008 P89
  24. ^ 指が大きく開くのは杉下家の遺伝であるようで、杉下の息子は野球をやっていないにも関わらず、人差し指と中指は90度開くという。
  25. ^ 2006年10月29日放送、TBSラジオ栗山英樹のエキサイトサンデー」にゲスト出演した時の発言。また、板東の著書にも記述がある。

関連項目[編集]