李キョウ

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(り きょう、1659年 - 1733年)は、代初期の中国学者は剛主。恕谷と号する。

略伝[編集]

蠡県河北省)の出身。1690年挙人となり、60歳で通州学正となるが、80日間勤めて、病気のために辞任して郷里に帰る。よく知られた親孝行で、父と育ての母のもとに居住していたが、毎朝早く起きて25里離れた生母のところへ歩いて行って4人の弟に読書を教え、夕方には父のもとへ戻って拝し、また生母のところへ行って生母を拝す、という風だった。父が亡くなった後、3日間食を断ったともいう。75歳で没する。

学問[編集]

弱冠にして、琴を張而素に、射を趙思学に、数を劉見田に、書を彭通(雪翁)に、兵法を王餘祐にそれぞれ学んだ。さらに礼を博野の顔元、楽律を毛奇齢に学んで一家をなし、郊社宗廟の諸大典をことごとく考究した。その学風は実用を尊び、弟子が非常に多く、馮辰・劉調贊などが有名。

著作[編集]

  • 『周易傳注』7巻
  • 『筮考』1巻
  • 『郊社考辯』1巻
  • 『論語傳注』2巻
  • 『大学傳注』1巻
  • 『中庸傳注』1巻
  • 『傳注問』1巻
  • 『李氏学楽録』2巻
  • 『大学辯業』4巻
  • 『聖経学規纂』2巻
  • 『論語』2巻
  • 『小学稽業』5巻
  • 『擬太平策』7巻
  • 『閲史視』5巻
  • 『恕谷後集』13巻

参考[編集]

  • 『清史稿』486
  • 『清史列伝』66
  • 『国朝耆献類徴』250
  • 『碑伝集』140
  • 『国朝先正事略』30
  • 『大清畿輔先哲傳』16