李在明

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李 在明(イ・ジェミョン、이재명1890年 - 1910年9月13日)は、大韓帝国期の独立運動家である。幼名は李秀吉、本貫は鎮安李氏[1]李完用暗殺未遂事件の実行犯として知られる。

生涯[編集]

平安北道宣川郡出身で幼少時に平壌へ移住し、キリスト教系私立学校日新学校を卒業した。以後プロテスタント教徒になった[2]

1904年ハワイ州へ労動移民したが、第二次日韓協約第三次日韓協約の締結を聞き、1907年に日本経由で帰国し、伊藤博文や李完用・宋秉畯李容九など親日派の暗殺を計画した。

1909年1月、平壌を巡行中の伊藤暗殺のため、仲間数人と平壌駅付近で待機したが、安昌浩の引き止めにより断念。

李完用暗殺未遂事件[編集]

1909年12月7日、内閣総理大臣李完用殺害を平安南道平壌郡の朴泰殷邸で金貞益、李慶三、金泰善、李東秀らと謀議。

8日、平壌郡陵徳府にある、内縁の妻の実家に再集結し、李本人と李東秀、金丙録の3人を暗殺決行者とし、その他の者は各自、役目を申し合わせる[3]

17日、李から旅費の支給を受けた李東秀らが京城に入る。李は同日に崩御したベルギー国王レオポルド2世の追悼式に李完用が参列する情報を掴み、22日を暗殺決行日と決めた。

22日、漢城府の鍾峴天主教会堂(現明洞聖堂)での追悼式の後、人力車に乗って帰る李完用を、焼き栗売りに変装した李が襲い、剣で肺や腰に重傷を負わせる。この時、人力車夫のパク・ウォンムンが巻き添えを食い即死した[2]。李は護衛警察の発砲により太股を負傷したのち逮捕された。李完用は大韓医院(現ソウル大学校病院)に搬送され、院長菊池常三郎による外科手術で一命をとりとめた。李は公判でパク殺害は偶然だと強調した[2]

1910年、死刑宣告を受け、京城監獄(現西大門刑務所)で刑が執行された。当事件では、李東洙、趙昌鎬、金貞益など11人の共犯者も投獄された。

死後[編集]

戦後の1962年建国勲章大統領章を受勲。 2001年12月に大韓民国国家報勲処によって今月の独立運動家に選定された。明洞聖堂入口に事件碑が建立されている。

パク・サンウの長編小説「刀」[4]は李在明と李完用襲撃事件を題材としている。

参考サイト[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 韓国学中央研究院
  2. ^ a b c ‘정당한 폭력’은 정당한가 : 박노자의 우리가 몰랐던 동아시아 : 칼럼 : 한겨레21
  3. ^ 李完用暗殺未遂事件判決、被告 李東秀、京城地方法院、大正十四年二月二十四日(1925年2月24日)判決文
  4. ^ . ISBN 978-89-7919-695-5.