李顕相

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李 顕相(イ・ヒョンサン、正字体:李顯相、朝鮮語: 이현상1770年6月14日 - 1822年7月14日)は、李氏朝鮮後期の文臣、詩人と画家、駅官。字は相之(サンクジ、상지、さんくじ)、号は太華(テワ、태화、てわ)。京畿道抱川生まれ。

1798年(正祖22)生員試に合格した後[1]、1800年(正祖24)別試文科に丙科23位との及第した。[2] 同年教書館副正字、1801年礼曹佐郎、春秋館記注官になって、以降奉常寺参奉、教書館正字、1802年教書館著作、教書館博士、奉常寺主簿などを歴任した。以後奉常寺僉正と教書館敎理などを歴任して1809年に再び奉常寺僉正となった。

1811年(純祖11年)1月日本に派遣されている朝鮮通信使の製述官として日本を訪問し、その年の夏に帰国した。同年末再び対馬を経由して日本に行ってきた。その他司憲府監察、成均館典籍、礼曹佐郞を務めた。1812年校書館判校、刑曹佐郎に任命され、1813年は新昌県監に赴任した。その年の11月に母親朴氏が死んで辞退した。1818年(純祖18年)成均館典籍、1819年教書館判校、幽谷道察訪に任命された。1820年文川郡守を務めており、1822年(純祖22)安邊鎭管兵馬同僉節制使に達した。著には『太華文集』、『歷代言事』がある。

著作[編集]

  • 『太華文集』(태화문집)
  • 『歷代言事』(역대언사)

脚注[編集]

  1. ^ 李顕相:生員試 (朝鮮語)
  2. ^ 李顕相:文科及第者 (朝鮮語)

関連項目[編集]