杜防

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杜防(と ぼう、生没年不詳)は、(契丹)の政治家涿州帰義県

経歴[編集]

開泰5年(1016年)、進士甲科に及第した。起居郎・知制誥に累進し、当時の人に宰相の器であると評された。太平年間、政事舎人に転じ、枢密副使に任じられた。

重熙9年(1040年)、西夏軍が北宋に侵攻すると、北宋が郭稹を契丹に派遣して、西夏との講和の斡旋を願い出た。興宗は杜防を西夏に派遣して、両国の和解をうながさせた。西夏軍が撤兵して侵攻地を返還すると、杜防は参知政事に任じられた。韓紹芳・劉六符に憎まれたが、12年(1043年)に韓紹芳らが罷免されると、杜防はますます興宗に信任されるようになった。13年(1044年)、南府宰相に任じられた。15年(1046年)、杜防に子が生まれると、興宗が杜防の邸に幸して祝い、王門奴の名を賜った。上奏に誤りがあったとして、武定軍節度使に左遷された。17年(1048年)、召還されて再び南府宰相となった。21年(1052年)秋、仁徳蕭皇后の祭祀にあたって、興宗が儒臣たちに詩を賦させたところ、杜防が第一の評価を受け、金帯を賜った。

道宗が即位すると、杜防は大行皇帝山陵使となった。清寧2年(1056年)、道宗は杜防の老体を気づかって、朝廷での執務は大綱のみを扱うよう勅諭した。ほどなく右丞相に任じられ、尚父の位を加えられて、死去した。中書令の位を追贈され、は元粛といった。

子の杜公謂は、南府宰相に上った。

伝記資料[編集]