来島恒喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くるしま つねき
来島 恒喜
生誕 1860年1月31日安政6年12月30日
福岡藩
死没 1889年(明治22年)10月18日
日本の旗 日本 東京府東京市
墓地 玄洋社墓地(崇福寺)、谷中霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 向陽義塾
職業 政治運動家、テロリスト
運動・動向 筑前共愛公衆会玄洋社(1889年退社)
来島又右衛門

来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日安政6年12月30日) - 1889年(明治22年)10月18日)は、日本右翼活動家、テロリスト。筑前共愛公衆会玄洋社元社員。

概要[編集]

来嶋恆喜之墓
(福岡市)

福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれる。

高場乱の興志塾に学び、堅志社、十一学舎を経て、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入する[1]

1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介、竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党の金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合った。

その後、大隈重信の条約改正案に反対し、現状の日本の国際地位ではこの改正案が第一歩として次の改正に繋がると批判しなかった玄洋社を退社。大隈を暗殺するべく、1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年29。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。高場は来島を国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判している[2]。来島の死後、後の首相となる広田弘毅の父・広田徳平により、墓碑が作られた[3]。大隈襲撃には月成功太郎(広田弘毅の岳父)も計画に加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行した。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によって谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。

逸話[編集]

  • 大隈の右足切断手術は、佐藤進やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの手により行われた。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている。そして大隈は来島の墓を建ててお参りに行っている。[4]
  • 来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長高場乱(たかばおさむ)は来島の行為を批判しながらも、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる[5]
  • 博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。

登場する作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 凛―近代日本の女魁・高場乱p16,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日
  2. ^ 凛―近代日本の女魁・高場乱,永畑道子p56,藤原書店,1997年3月1日
  3. ^ 広田弘毅の記事を参照。
  4. ^ 大隈重信『青年の為に』(東亜堂,1919)p.113に、大隈がそう語ったと書かれている。大隈は来島の遺族に対して金を送っている。
  5. ^ 凛―近代日本の女魁・高場乱p62,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

参考文献[編集]

  • 北川晃二『黙してゆかむ―広田弘毅の生涯』(1975年、講談社)ISBN 978-4061840959
  • 頭山統一『筑前玄洋社』(1977年9月、葦書房)ISBN 978-4751200353
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館―遠の朝廷から日清戦争まで』(2009年8月20日、弦書房)ISBN 978-4863290266
  • 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(2010年10月15日、海鳥社)ISBN 978-4874157879
  • 小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 反TPP論』(2012年2月24日、幻冬舎)ISBN 978-4344021341

関連項目[編集]