松井明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
1953年

松井 明(まつい あきら 1908年明治41年)1月6日[1] - 1994年平成6年)4月29日)は日本の外交官

来歴・人物[編集]

外交官・男爵松井慶四郎の長男として、慶四郎の赴任先パリで生まれる。暁星中学旧制東京高校を経て、東京大学法学部卒業。

1931年昭和6年)に外務省入省。内閣情報局情報官、調査局長などを歴任。1949年(昭和24年)7月 - 1953年(昭和28年)3月まで昭和天皇の通訳をつとめる。1951年(昭和26年)、吉田茂首相秘書官としてサンフランシスコ講和会議に随行。

1955年(昭和30年)駐フランス公使、1957年(昭和32年)駐セイロン大使を経て、1959年(昭和34年)駐スウェーデン大使兼アイスランド公使[1]谷崎潤一郎川端康成ら日本人作家のノーベル文学賞受賞に向けて、積極的なロビー活動を行った[2]

1963年(昭和38年)7月から1967年(昭和42年)7月まで国連大使。1967年(昭和42年)7月から1970年(昭和45年)まで駐フランス大使。

1971年(昭和46年)から1976年(昭和51年)まで原子力委員会委員。1978年(昭和53年)日本原子力文化振興財団理事長に就任。1979年(昭和54年)勲一等瑞宝章受章[1]

姉に服飾デザイナーの田中千代がいる。妹の貞子は安川電機社長・安川寛(安川敬一郎孫)の妻[3]。妻の以都子は東京貯藏銀行頭取で愛国生命保険社長の原邦造(原六郎の娘婿)の三女[3][4]。長女靖子は元駐米大使柳井俊二の妻。

「松井手記」[編集]

1980年頃に、昭和天皇とダグラス・マッカーサーの会見4回、マシュー・リッジウェイとの会見7回の通訳をした際の極秘メモを手記にまとめた。侍従長入江相政に出版したいと相談したが止められ、1989年になってから著書にメモがある旨を書いた。1994年1月に産経新聞に手記がある旨を明かした。2002年8月5日に朝日新聞がそのメモの詳細について報道した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『現代物故者事典 1994~1996』(日外アソシエーツ、1997年)p.517
  2. ^ 共同通信ロンドン支局取材班編『ノーベル賞の舞台裏』(ちくま新書 2016年)
  3. ^ a b 『現代の系譜: 日本を動かす人々』東京中日新聞出版局, 1965, p345
  4. ^ 原邦造『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]