松尾鉱業鉄道

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松尾鉱業鉄道
ED251(八幡平市松尾歴史民俗資料館で保存)
ED251(八幡平市松尾歴史民俗資料館で保存)
概要
現況 廃止
起終点 起点:大更駅
終点:東八幡平駅
駅数 4駅
運営
開業 1934年3月30日 (1934-03-30)専用鉄道として)
地方鉄道開業 1948年3月15日
廃止 1972年10月9日 (1972-10-9)
所有者 松尾鉱業[1]
使用車両 使用車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 12.2 km (7.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流1,500 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
国鉄花輪線
eABZq+l BHFq
0.0 大更
exBHF
2.5 田頭
exBHF
5.1 鹿野
exKBHFe
12.2 東八幡平

松尾鉱業鉄道(まつおこうぎょうてつどう)は、かつて岩手県岩手郡松尾村(現、八幡平市)の東八幡平駅と、西根町(同)の日本国有鉄道(国鉄、現JR東日本花輪線大更駅との間を結んでいた鉄道路線である。

運営主体は松尾鉱業の鉄道部であった。松尾村にあった松尾鉱山と花輪線を結ぶ目的で敷設されたもので、1914年大正3年)の創立時には手押しトロッコであったが、馬車鉄道軽便鉄道専用鉄道と変遷を繰り返したのち、太平洋戦争後の1948年昭和23年)に地方鉄道として開業した。

接続する花輪線が現在に至るまで非電化の中、当線は直流1500 V電化されており、大更駅構内にも架線が張り巡らされ、松尾鉱山で採掘された硫黄鉱石をはじめ、その他各種物資の輸送に大きな役割を果たした。鉱山町に住む従業員や家族のため、阪和電気鉄道由来の高速電車を投入して旅客輸送もおこない、八幡平を訪れる観光客の重要な足ともなっていた。

回収硫黄の普及に伴う松尾鉱山の閉山により1972年(昭和47年)に廃止され、雲上の楽園と謳われ栄えた鉱山と運命を共にした。

路線データ[編集]

廃止時点

運行概要[編集]

1967年(昭和42年)10月当時

  • 運行本数:東八幡平 - 大更間11往復
  • 所要時間:全線21 - 23分

歴史[編集]

駅一覧[編集]

廃止時点。括弧内の数値は営業キロ

東八幡平駅(ひがしはちまんたい、0.0) - 鹿野駅(ししの、7.1) - 田頭駅(でんどう、9.7) - 大更駅(おおぶけ、12.2)

接続路線[編集]

輸送実績[編集]

年度 輸送人員(人) 貨物量(トン)
1949 330,508 541,413
1952 493,683 749,181
1958 417,000 642,289
1963 527,000 707,543
1966 583,000 648,755
1970 - 261,166

使用車両[編集]

蒸気機関車[編集]

自社発注したC118を除き鉄道省からの払い下げで、蒸気機関車はすべて専用鉄道時代からのもの

2500形 (国鉄2520,2636,2522,2518,2617 → 改番 2501 - 2505)
1934年(昭和9年)に3両、1935年(昭和10年) に2両払い下げ。 0-6-2 (C1) 形タンク機関車。1951年(昭和26年)、電化により廃車
4110形 (国鉄4115, 4116, 4148 → 改番 4115 - 4117)
1936年(昭和11年)、1938年(昭和13年)、1941年(昭和16年) に払い下げ。0-10-0 (E) 形タンク機関車。1951年(昭和26年)、電化により廃車
C11形 (C118)
1942年(昭和17年)日立製作所製の自社発注機で、国鉄C11形の同形機。1952年(昭和27年)雄別鉄道に譲渡

電気機関車[編集]

秩父鉄道デキ107(元ED501)
ED25形 (ED251,ED252)
1951年(昭和26年)東芝製。入換用電気機関車。ED50形の代わりに本線の列車を牽引することもあった。廃止後、ED252はそのまま廃車となった。ED251も同様の処分となる予定であったが盛岡市の業者に引き取られて保管され、その後1993年(平成5年)より松尾村歴史民俗資料館(現・八幡平市松尾歴史民俗資料館)で静態保存されている。
ED50形 (ED501, ED502)
1951年(昭和26年)日立製作所製。廃止後、秩父鉄道に譲渡、同社デキ107・108となる。

電車[編集]

モハ20形(モハ201, モハ202)
元阪和電気鉄道モヨ100形。1968年(昭和43年)、国鉄から払い下げ。電車の選定にあたっては元宮城電気鉄道の電車も候補になったが付随車を牽引して勾配を登れることが決め手となった。単行運転が主なため片運転台を両運転台に復元し、塗装はクリームマルーンに塗り分けた。寒冷地につき冬期は中央扉は締め切りとし両端の扉は半自動とした。観光シーズンになると盛岡駅発の国鉄の気動車が乗り入れてくるのでそれを連結して東八幡平へ運転していた[6]。廃止後、弘南鉄道に譲渡され、同社モハ2025・2026となった。

客車[編集]

ハフ1(ハフ1 - 5)
木造の二軸緩急車。ハフ1, 2, 5は元国鉄のハフ2661形、ハフ3は元国鉄ハ1005、ハフ4は元国鉄(越後鉄道の車両を国有化)ハフ3451。後年、ハフ1がユニフ1、ハフ2がユニ2、ハフ4がハニ4へと改造された。
ホハフ6
日本鉄道「ろは20形」木造ボギー客車で1900年(明治33年)に大宮工場で製造。国有化後にホロハ5742[7]→ホロハフ5907→ホロハフ1902→ホハフ2612となり松尾鉱業に入線、ホハフ6となった。1951年(昭和26年)に廃車になった。
スハフ7(スハフ32形)
事故で1948年(昭和23年)に廃車された国鉄スハ32671(1938年〈昭和13年〉新潟鐵工所製)の譲渡をうけ[8]再生したもの。1971年(昭和46年)廃車。なおスハ32系客車の民鉄への譲渡の唯一の例である。
ナハフ8
木造ボギー客車で元国鉄ナハフ14381(1911年汽車製造製)1930年(昭和5年)に日本車輌東京支店で改造を受けているが外観は原型を保っている。
オハフ9(オハフ32形)
戦災により1946年(昭和21年)に廃車された国鉄スニ3018(1927年〈昭和2年〉日本車輌製)を譲り受けたもの。荷物車を客車に改造したもので、台枠を延長して車体長さを20 mとし、二重屋根・折妻から円屋根・切妻の形態となり、原型をとどめない[9]
オハフ10(オハフ32形)
戦災により1948年(昭和23年)に廃車された国鉄スロハ321(1940年新潟鉄工所製)を譲り受けたもの[10]。松尾鉱山関係の重役などが乗車する特別室が設けられていた。
ナハフ11(オハフ32形)
元国鉄のナハフ14386(1910年日本車輌製)で、ナハフ8とは同じ形式(14100)だった。1953年(昭和28年)に払下げられ国鉄盛岡工場で鋼体化された。オハフ10と同様に特別室が設けられている。定員120名

貨車[編集]

有蓋車ワ7両、ワフ4両、無蓋車ト7両、トム9両計27両(1954年時)。大半が払い下げであった[11]

脚注および参考文献[編集]

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  1. ^ a b c 和久田康雄『鉄道ファンのための私鉄史研究資料』電気車研究会、2014年、26頁
  2. ^ 『日本鉱業発達史. 上巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 「松尾鉱業株式会社申請一般乗合旅客自動車運送事業経営(新規)免許について」『旅客自動車・岩手県(五)・昭和二十六年』50-51頁(国立公文書館デジタルアーカイブス)
  5. ^ a b c 『消えた轍 2』27頁
  6. ^ 気動車は電灯、ドア用にエンジンをアイドリングしている『岩手山ろくを走る阪和電車』
  7. ^ 客車略図 形式5740
  8. ^ 「スハ32系客車 車歴表」『鉄道ピクトリアル』No.777 2006年7月号より。また深道宗重「松尾鉱山鉄道」ではスハフ32671としているがスハフ32に671はない。1955年3月号で訂正しているが、その後に出版された他書でもスハフ32671と誤用している。
  9. ^ オハ31系の一族 下巻、186頁
  10. ^ 「オハ35系客車 車歴表」『鉄道ピクトリアル』No.748 2004年7月号、74頁より
  11. ^ 「松尾鉱山鉄道」
  • 柴田重利「東北の私鉄」『鉄道ファン』No.17 1962年11月号
  • 寺田裕一『消えた轍 2』ネコパブリッシング、2005年
  • 寺田裕一『新消えた轍 3』ネコパブリッシング、2010年
  • 深道宗重「松尾鉱山鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.39 1954年10月号
  • 『鉄道ピクトリアル』No.44 1955年3月号、22頁 1954年10月号の補遺訂正
  • 吉川文夫『岩手山ろくを走る阪和電車』『鉄道ピクトリアル』No.213 1968年8月号
  • 若尾侑『戦後を走った木造車1』大正出版、1999年、57 - 59頁
  • 今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』2 東北、新潮社2008年。ISBN 978-4-10-790020-3。
  • 地方鉄道軌道統計年報
  • 私鉄統計年報各年度版