松平忠告

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠告
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛保2年(1742年
死没 文化2年12月10日1806年1月29日
改名 戌千代・与一(幼名)→忠告
別名 俳号:亀文、一桜井
戒名 享誉道長泰安院
官位 従五位下大膳亮遠江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
摂津尼崎藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠名、母:宗義誠
兄弟 加藤明堯忠告土井利厚
脇坂安弘正室、水野勝起正室、五百姫ら
養兄弟:菅沼定用娘
正室:松平光雄娘・吉
松平忠恕
側室:万木氏、田中氏
忠宝、菅沼定賢、忠得、忠進、
平岡頼暢、忠栄相馬祥胤正室、
峻章院、加藤明允正室、本多忠升正室、於鏡の方

松平 忠告(まつだいら ただつぐ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名摂津国尼崎藩3代藩主。尼崎藩桜井松平家6代。官位従五位下大膳亮遠江守

生涯[編集]

寛保2年(1742年)(異説として寛保3年(1743年)5月26日)、2代藩主・松平忠名の三男として誕生。長兄は早世し、次兄の加藤明堯(後の近江国水口藩主)は庶子で他家に養子に出されたため、世子に指名され、明和3年(1766年)12月の父の死去により、明和4年(1767年)2月20日に家督を継いだ。

明和6年(1769年)、幕命により領地替えが行なわれたが、このときに藩財政の大きな利権となっていた地域を幕府によって奪われ、代わって利権の少ない地域を与えられたために藩財政の悪化が始まった。また、江戸城桜田門番に任じられたことも少なからず負担となった。

このため、忠告は俳諧の道に進み、談林派七世谷素外に師事して俳名を亀文、または一桜井と号した。寛政11年(1799年)には大坂天満宮に談林派の祖西山宗因の句碑を建設している。また、「一桜井発句集」という句集を残している(この句集は子の忠宝によって文政5年(1822年)に完成する)。

文化2年(1805年)12月10日に死去した。享年64。跡を次男・忠宝が継いだ。

系譜[編集]

関連項目[編集]