松平忠実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠実
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正13年(1585年
死没 慶安5年8月23日1652年9月15日
改名 弥三郎(幼名)→忠実
別名 通称:外記
戒名 等覚院殿一宗源無大居士
墓所 千葉県銚子市岡野台町の等覚寺
官位 従五位下土佐守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川秀忠家光家綱
氏族 五井松平家
父母 父:松平伊昌
兄弟 忠実、宗治、昌長、高木貞盛室、
西尾忠照継室
正室:松平家忠
忠昌、伊耀、元成、忠尚、松平康盛室

松平 忠実(まつだいら ただざね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本五井松平家7代。官位従五位下土佐守

略歴[編集]

6代・松平伊昌の長男として誕生。慶長3年(1598年)に元服し、徳川秀忠からの一字を賜って忠実と名乗る。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父・伊昌に代わって出陣。その後、大番頭となり、従五位下土佐守に叙任される。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には郡山城の警備、翌年の大坂夏の陣の際には伏見城の警備に当たった。元和2年(1616年)2月、発病中の徳川家康に召されて駿府城に赴き、密事(内容は不明)を受けて伏見城に戻り、3年間在城したという。

寛永4年(1627年)、下総国海上郡内に転封され、寛永12年(1635年)に4000石を加増され、合計6000石を領して交代寄合となる。慶安5年(1652年)、京の二条城で没した。墓所は下総国海上郡岡野台村の等覚寺(成就院といわれたが、忠実の法号を賜った)。家督は次男・伊耀が継いだ。