松平忠栄 (尼崎藩主)

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松平忠栄
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化元年12月13日1805年1月13日
死没 明治2年9月7日1869年10月11日
改名 千勝・主水(幼名)→忠栄
戒名 徳誉道扶豊安院
官位 従五位下遠江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶家定家茂
摂津尼崎藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠告、母:松平光雄娘・吉
養父:松平忠誨
兄弟 忠宝、菅沼定賢、忠得、忠進、
平岡頼暢、忠栄相馬祥胤正室、
峻章院、加藤明允正室、本多忠升正室、於鏡の方
正室:小笠原忠固長女
継室:松平宗発娘・洵子
忠興万里小路通房後室ら

松平 忠栄(まつだいら ただなが)は、江戸時代後期の大名摂津国尼崎藩6代藩主。尼崎藩桜井松平家9代。官位従五位下遠江守

生涯[編集]

文化元年(1804年)12月、3代藩主・松平忠告の九男として誕生。文政12年(1829年)に甥で5代藩主・忠誨が死去したため、その養子となって家督を継いだ。天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱が起こると、土井利位に従って鎮圧に貢献した。天保13年(1842年)には大砲7門を鋳造している。

嘉永6年(1853年)のペリー来航では、幕府に対して鎖国をあくまで堅持するよう提言している。翌年にロシア船が大坂に現れると、大坂の警備を務めた。なお、このような出費続きで藩財政が逼迫したため、鶏卵を専売している。

文久元年(1861年)8月6日、病気を理由に家督を七男・忠興に譲って隠居する。明治2年(1869年)9月7日、尼崎で死去した。享年66。

著書に「胎蕨編」がある。

系譜[編集]

関連項目[編集]