松平忠福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠福
時代 江戸時代中期
生誕 寛保2年12月26日1743年1月21日
死没 寛政11年5月22日1799年6月25日
改名 幸太郎(幼名)→忠福
戒名 即是空院繊月幽閉
墓所 東京都墨田区向島の弘福寺
官位 従五位下采女正
幕府 江戸幕府西の丸若年寄
主君 徳川家治家斉
上野小幡藩
氏族 奥平松平家
父母 父:松平忠恒、母:津軽信興
兄弟 忠福、大久保忠恕、内藤信凭正室、
松平乗祐養女、松平忠順室、本多忠昭室、桑原盛員養女
正室:松平資訓養女
忠房高木正剛忠彊横瀬貞征
津田信久正室、曲淵景露室、曲淵景露室
テンプレートを表示

松平 忠福(まつだいら ただよし)は、江戸時代中期の大名上野国小幡藩2代藩主。官位従五位下・采女正。忠尚系奥平松平家4代。

経歴[編集]

寛保2年(1742年)12月26日、初代藩主・松平忠恒の長男として誕生。明和5年(1768年)、父の死去により跡を継ぐ。安永3年(1774年)12月に奏者番頭となり、天明5年(1785年)12月24日に西の丸若年寄となる。天明6年(1786年)10月に若年寄となった。

藩政においては、寛政3年(1791年)に藩校・小幡学校を創設する。また、藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、寛政10年(1799年)に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果はなかった。寛政11年(1799年)5月22日に死去した。享年58。世子とした長男の忠房、三男の忠彊がともに早世したため、跡を忠房の子・忠恵が継いだ。

系譜[編集]