松平斉善

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平斉善
時代 江戸時代後期
生誕 文政3年9月25日1820年10月31日
死没 天保9年7月27日1838年9月15日
改名 民之助または千三郎(幼名)→斉善
別名 通称越前守
戒名 諦観院廓誉超勝常然大居士
墓所 福井県福井市の運正寺
東京都品川区南品川の海晏寺
官位 従四位上少将上座、正四位下少将、左近衛権中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
越前福井藩
氏族 徳川将軍家越前松平家支流福井松平家
父母 父:徳川家斉、母:本輪院
養父:松平斉承
兄弟 清湛院徳川家慶徳川敦之助峰姫
徳川斉順浅姫徳川虎千代、元姫、
徳川斉明、文姫、徳川斉荘、盛姫、
池田斉衆溶姫、和姫、斉民末姫
喜代姫徳川斉温斉良、永姫、
徳川斉彊斉善蜂須賀斉裕斉省
斉宣、泰姫ら26男27女
養兄弟:菊姫於義丸邦之助
養子:慶永(春嶽)
テンプレートを表示

松平 斉善(まつだいら なりさわ)は、江戸時代後期の大名福井藩15代藩主[注釈 1]官位正四位下左近衛権中将。12代将軍・徳川家慶の異母弟。

生涯[編集]

文政3年(1820年)9月24日、11代将軍・徳川家斉の二十二男として江戸城にて誕生。天保6年(1835年)閏7月11日、松平斉承の養子となり、従四位上・少将上座に叙任する。8月28日に養父の跡を受けて家督を相続する。同年10月28日、正四位下・少将に叙任する。実父でもある将軍・家斉の偏諱を拝領し斉善、また越前守を名乗る。天保8年(1837年)8月25日には左近衛権中将に進む。生来病弱であったと伝わり、天保9年(1838年)4月に江戸を出立し、初入国を果たすが、その直後の7月27日[注釈 2]に19歳で急死した。

死去の時点で嗣子がなく、本来ならば断絶するところであったが、兄・家慶の計らいと先代藩主・斉承の正室・松栄院(浅姫・家慶異母妹)の働きかけにより、従弟の慶永田安徳川家当主徳川斉匡の子)が継ぐこととなった。この時慶永は他家[注釈 3]への養子縁組が決定していたが、9月4日に急遽福井松平家の養子とされた。この手続きの整合性と正当性のため、越前国許からの斉善死去報告の使者は9月2日には江戸に到着していたが、「(国許での)斉善死去は8月28日。(だがそれとは知らないまま)江戸での養子縁組承認は9月4日。国許よりの使者到着は9月6日(に急使が到着した、とするなら、死亡日付は逆算して8月28日頃が都合がよいという設定)」とされた。

若年のまま死去し、またほぼ江戸在府であったため、藩政にその直接の足跡は少ないが、治世の期間の天保6年12月(1836年)には財政難を理由に領地を増やして欲しい、およそ90万両の赤字があると幕府へ届け、助成を仰いでいる。天保8年(1837年)に江戸上屋敷を焼失、再建費用として幕府より2万両を貸与されている。また同年8月には不作を理由に1万両を助成され、天保9年(1838年)7月初旬には松栄院(浅姫)の住居普請のため1万5000両を拝領している。

領内の凶作や火災被害の困窮者に対し、金銭援助や食料配給を行うなどの福祉策を行っている。変わったところでは天保8年(1837年)3月、風病流行のため藩主導で祈祷を行い、御札守を領内領民に配布している。

偏諱を受けた人物[編集]

  • 松平道(養叔父(養父・斉承の弟))
  • 岡田功(松江藩主松平斉恒の養弟。久世道空六男)

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第13代となる。
  2. ^ 8月28日、8月24日説あり。
  3. ^ 伊予松山藩松平勝善

出典[編集]