松本麗華

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松本 麗華
誕生 1983年4月 (36歳)
千葉県船橋市
ホーリーネーム アジタナーター・ウマー・パールヴァティー・アーチャリー
ステージ 正大師
教団での役職 法皇官房長官
入信 1987年
関係した事件 麻原彰晃長男連れ去り事件
判決 保護観察処分
現在の活動 著述家

松本 麗華(まつもと りか、1983年4月 - )は、元オウム真理教幹部。教団内の地位は正大師。麻原彰晃こと松本智津夫 元死刑囚の三女。著述家。母親で元オウム幹部の松本明香里と他の姉弟ら[1]で麻原彰晃の遺骨を要求している[2][3]

来歴・人物[編集]

麻原彰晃の三女として生まれ、幼いころより後継者としての教育と寵愛を受ける。千葉県船橋市に家族とともに住み、3歳からは幼稚園にも通っていたが、5歳の頃、家族とともに静岡県富士宮市オウム真理教富士山総本部へ移住。2歳ころから石井久子新実智光村井秀夫岐部哲也山本まゆみなどに世話をされ育つ[4]

オウム真理教解体後は、小学校中学校には通えず、入学には1ヶ月間の観察期間が必要であったため、小学校3年時から通信教育を受ける[5]日出高等学校の通信制(単位制)を経て、2004年文教大学人間科学部臨床心理学科に入学。大学では心理学を学び、2008年卒業。その後はアルバイトをしながら心理カウンセラーの勉強を続けている。この間、テレホンオペレーターのアルバイトを行っていた際には、社長から「アーチャリーに似ている人がいる」と電話が入り、解雇されるなどする[5]

手記[編集]

2015年平成27年)3月20日には、講談社より本名で半生を振り返った手記を公開。この中では松本死刑囚を「大好きな父」としたことを、受け止められない人や多くの批判があることは理解しているが、そうした意見を聞いて、自分自身を作り上げていきたいと語っている。本を出版した理由として「このままでは父の真相が分からないまま葬られてしまう」との危機感があったことと、自分自身が「自分の人生を生きていない」という甘さがあることを知ったことなどをあげている。手記中には、父・松本智津夫を一貫して「麻原彰晃」と記しているが、本人は幼少期から松本を麻原彰晃として、あるいは教祖として見ていたため、松本智津夫と聞くとまるで「どこかの知らないおじさんみたいな感じがする」と述べている[6]。父である松本智津夫に対しては、今もかけがえのない存在であり今も温かくて包容力のあるどっしりとした父としてのイメージもあるという[7]

また、麻原が逮捕される1995年5月16日前日には麻原に呼ばれたものの、眠さのために行かず「お別れ」ができなかったことで罪悪感を持っているという[7]。自分自身の信仰心については、物心ついた頃から教団があり、そこにいるのが自分にとっては自然なことで「オウムという“街”に住んでいた感覚に近い」と感じており、「入信も出家もしていない」と語っている[7]

父・麻原彰晃について[編集]

  • 世間のイメージと実像とのかい離があまりにも大きかった[5]
  • 2004年、逮捕から9年以上たち接見したが、別人のように痩せこけ髪も歯も抜け落ち老人のような姿であった。詐病だと思っていたが、面談を重ねても何の反応もなく、精神が崩壊した姿に衝撃を受ける[7]
  • 「父と会ったら、何を言おう。優しい声で、わたしの名前を呼んでくれるに違いない」と夢想していたが、父は完全な廃人になっており、「父と言葉を交わしたい」という望みは、数十回の接見中、一度も叶えられなかったため、うつ状態になった[4]
  • 裁判時には麻原はすでに精神が崩壊しており、何も語らないままに裁判が進行し死刑が確定したことや、幹部らが父のメッセージを自分に都合のよいように変えたり、アーチャリーの名を無断で使いその後の教団運営がなされた事実から、父の事件への関わり合いについては保留にという立場を保っている[7]
  • 麻原の空中浮揚については、見たことがなくやって見せてほしいといったが「疲れているから」と断られた。ただし、体が勝手に跳びはねる空中浮揚の前段階とされるダルドリー・シッディ現象は何度も目撃している[7]
  • 麻原の精神鑑定書はかなりの部分が嘘にもとづく報告からなっており、例えば鑑定書には食事をこぼさずに食べたとあるが、麻原はもともと目が見えないので食事はこぼすため、胸にバスタオルを巻いて食事していた[5]

批判[編集]

  • 麻原の四女は自著『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』で三女麗華を批判している。
  • 元オウムとの間では、特に上祐史浩からどちらが初期アレフの主導権を握っていたか、松本一家が上祐の進めた麻原外し路線を妨害したかで主張が真っ向から対立している。また元アレフ幹部の上祐史浩野田成人村岡達子や、麻原の四女は過去、アレフに母親である松本知子と一緒に関与したと証言する[12][13]。ただし、野田成人村岡達子は松本知子が主導的に関与していたと思わせる記述をしている。[14][15]
松本麗華はオウム真理教長老部会議(麻原逮捕後のオウム指導体制)の座長を務めたことは認めるものの、その後継であるアレフ(現Aleph)との関係は入会すらしていないとして明確に否定しアレフで名前が出てきたのは松本知子が名前と権威を利用していたからとしている[4][5]。「三女派」という表現をブログで使用した滝本太郎に対しては訴訟を起こしている[11]

四女(妹)との対立[編集]

四女は、松本死刑囚とその妻(母親)によって、教団の教義を教え込まれるなどの虐待を受けたとして、両親との関係を解消したいという思いから、両親を相続人から除外するよう訴えを起こした。2017年10月に横浜家庭裁判所が四女の希望を認めた。

四女は最初で最後の会見として、今もオウムの後継団体に若い信者がいることについて問われると、「教団が言っていることをうのみにせず、自分で考えてほしい」と投げかけた。父親の死刑の是非を問われると「私は死刑執行を望むとは思ってないし、言ったこともありません。父の罪の重さを考えると死刑の執行以外に責任を取る方法はないと思うので、当然だと思いますし、執行されるべきだと思っています。」と述べて、死刑が当然と述べている[16][17]

四女の会見を受けて、麗華は四女の主張を否定、言動を批判して「妹の聡香(仮名) 麻原彰晃の四女の記者会見について思うこと」にて「妹(四女)は家族の元を離れたあと、父からもらったこの宗教的階位を盾に、教団のトップに立とうとしています。」と主張している[18]。この点につき、村岡達子は、四女は教団施設で暮らすようになったと言い[19]、元教団幹部は、「教団のほとんどの正悟師が四女の支持に回り、上祐氏も四女の取り込みに動いたことがあった」と述べている[20]野田成人は、「四女が家出してきて、アレフ教団に干渉」した、「四女が江川さんの所行く前後、(中略)重要幹部が雪崩(っていうほど多くないけど)打つように教団辞めてったよ。後から知ったけどそれは四女が「1カ月以内に教団を出ろ」って指示したらしいな」と述べている[21]

略歴[編集]

  • 1983年昭和58年)4月 - 千葉県にて麻原彰晃と松本知子の3女として生まれる[6]。幼少期からの家庭教師石川公一だった。11歳にして正大師となり教団での地位は麻原に次ぐ2位となる。ホーリーネームアーチャリー。省庁制の際には法皇官房長官を務めた[22][7]
  • 1986年1月29日 - 初めての海外旅行インドへ行き2週間滞在。家族と石井久子らが一緒だった。長時間父と一緒にいることや石井らに遊んでもらったことで楽しい記憶となる。その後インドへは10回以上渡航する。このころまでは麻原の弟子と接点はなかったが、このしばらく後、麻原が弟子に車で送迎されるようになり、新実智光ら弟子との接点ができる。
  • 1986年4月 - 3歳から千葉県船橋市の菅長学園の幼稚園へ通う。季節を問わず上半身は素足という方針の幼稚園であった。園内の自由時間にはの教室に行き、クラブ活動ではバレエ教室で踊る。この当時はおとなしい子供であった。姉らが通っていた水泳教室にも通うようになる。
  • 1986年4月 - 「オウムの会」が「オウム神仙の会」に改称。
  • 1986年12月 - 麻原のヒット作となる『生死を超える』刊行。自身の解脱体験を詳細に綴り話題に[4]
  • 1987年7月 - 「オウム真理教」に改称。麻原とともにエジプトへ[4]
  • 1988年2月 - 麻原らとインドへ[4]
  • 1988年3月 - 静岡県富士宮市の富士山総本部道場建設予定地にてイベントが計画され、道場用地にしばしば家族で訪れる。生活用に改造されたバスの中で寝泊まりする。道場建設開始後も同様の生活が続く。ハイビスカスのお茶を好んで飲む[4]
  • 1988年5月 - 再度インドへ。
  • 1988年6月 - 麻原がダライ・ラマイニシエーションを受けるためインドへ。7月には麻原がチベット仏教の高僧カル・リンポチェに会い「ヴァジラヤーナ」他の密教の秘儀を伝授される[4]
  • 1988年8月6日 - 富士山総本部道場の開設記念式典が決行される。式典後は船橋から家族で道場へ引越すが、その後住むことになるサティアンは未完成であったため、道場1階の部屋で生活を始める。幼稚園(菅長学園)と水泳教室はやめ加藤学園幼稚園へ転園。第1サティアンビルが竣工すると3階に家族の自宅と麻原専用の住宅の2つが造られた。麻原の瞑想室は非常に高い天井になっており、天井にはスポンジ状のものが貼られていた。これは空中浮揚で高く飛びすぎてを打った際の対策であると麻原に説明を受ける。また瞑想室内には子供の身長をはるかに超えるような深い浴槽が設置されたが、呼吸心臓も停止するサマディを水中で証明するために作られたものであった。子供部屋もユニークな造りになっており、リビングに面した壁側にロフトが造られ、そこに子供らの寝床があり、それを取り囲むようにホワイトボードが貼られ、絵が描けるように工夫されていた。また、壁には小窓が設置され開けるとリビングの様子が分かった。ロフトと反対側の壁には3人分の勉強机が並べられていた。石井久子新実智光村井秀夫岐部哲也山本まゆみらに世話や相手をしてもらい、大きな兄や姉ができたようで楽しい思い出となる。この頃より、麻原を「お父さん」ではなく「尊師」と呼ぶようになる。夜尿症のため、麻原の床で毎日のようにおねしょをするが小言は一切言われなかった。この当時は麻原の視力はわずかに残っていた[4]
  • 1988年9月 - 在家信者死亡事件
  • 1988年12月 - 「大乗のヨーガ」の修業の成就を認定され、ウーマー・パールヴァティー・アーチャリーホーリーネームを付けられる。当時、麻原がふざけて「遊びの女神はいらっしゃいますか~」と麗華を呼ぶことがあったためこのホーリーネームの意味を「遊びの女神」と長く解していた。ウマーは「」、パールヴァティーは「山の娘」の意味であることを手記の執筆にあたり調べて初めて知る[4]
  • 1989年2月 - 男性信者殺害事件発生。
  • 1989年3月 - オウム真理教が東京都宗教法人認証を申請。
  • 1989年4月 - 妹である4女誕生。
  • 1989年5月 - 麻原に同行しインド訪問。
  • 1989年8月 - オウム真理教が東京都から「宗教法人オウム真理教」の認証を得る。10月、信者の親らが「オウム真理教被害者の会」結成。
  • 1989年夏 - 麗華がアーモンドが好きだというので麻原がアーモンドを大量購入。出家信者にも食べさせ多くが腹を壊した[23]
  • 1989年11月 - 麻原らとインド訪問。坂本堤弁護士一家殺害事件発生。
  • 1990年2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙真理党が惨敗。この時麗華が麻原に票のすり替えがあったのではと指摘したところ、麻原も選挙結果は改竄されていると主張するようになる[24]
  • 1994年6月 - 麻原の体調悪化により教団運営ができないのではとの懸念からオウム真理教に省庁制が導入され、11歳にして法皇庁長官に。この頃より麻原は「誰もグルを愛してくれない」、また麗華と2人になると「もう死のうかな」などと頻繁につぶやくようになる[4]
  • 1995年5月16日 - 12歳、父である松本智津夫逮捕。午前10時ころ、警察官らが家族の閉じ込められた部屋へ進入、「麻原を見つけたから靴を出せ」と怒鳴った。警察の誘導だと感じた麗華は「靴なんてないよ。お父さんいないから」と返答すると警察官は「じゃあ、裸足のまま連れて行く」と言った。嘘ではないと察した母・松本知子サンダルを用意し渡した。警察官3人に令状なしに泣き顔を撮られる。その後、寝るたびに記憶が消えていく現象を経験する。強制捜査前1400人いた出家信者が事件後、500人まで減少する[4]
  • 1996年8月24日-10月下旬 - 唯一の正大師となったプレッシャーから、教団引き締めのための観念崩壊セミナーを主催し多くの怪我人を出すが、自身も大きな精神的ショックを受け家出リストカットを繰り返すようになる[4]
  • 2000年2月19日 - 同年1月に麻原の長男を連れ去ろうとしたとして逮捕され、保護観察処分となる。
  • 2004年 - 3月に合格した和光大学を入学拒否したとして提訴。東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じる。
  • 2013年7月 - ブログを開始、麻原につき多くを綴る[5]。一時期は3時間に一度は罵倒が書き込まれる状況だった[7]
  • 2014年1月28日 - オウム真理教元教団幹部の死刑囚4人の間の書籍の受け渡しを仲介していたとして東京拘置所から4人との面会を禁じられていたことが明らかになった[25][26]
  • 2014年1月中旬及び2月中旬 - 麻原の二男のアレフ復帰の計画に関して、観察処分下の教団運営に二男が参加することを反対するむねを特定のアレフ幹部信徒を通じて一部の幹部信徒に伝え、さらに計画を推進している幹部信徒を批判する文書を全国の幹部信徒に送付した。これに対する賛否をめぐって三女に同調する幹部信徒が除名処分となり、さらにその対応で教団内部の対立が顕在化するなど、彼女の教団運営への関与が教団に混乱をもたらしたとされる[27]
  • 2015年3月19日 - NNN系列の報道番組『NEWS ZERO』のインタビューに初めて実名で出演。
  • 2015年3月20日 - 地下鉄サリン事件からちょうど20年目に当たるこの日に本名で手記『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社、ISBN 978-4062194808)を上梓[28]ニコニコ生放送に出演して田原総一朗と対談した[29]
  • 2015年6月21日 - オウム真理教元教団幹部の死刑囚4人との面会許可など(2014年に禁じられたもの)を国に求めた訴訟を取り下げたと報じられた[30]
  • 2017年9月29日 - 読売新聞に対して行った1000万円の賠償請求の敗訴確定[31]
  • 2018年3月19日 - 日本脱カルト協会代表理事・立正大学教授の西田公昭からカルト2世信者と批判される[32]
  • 2018年4月10日 - 2世信者発言について西田に内容証明を送り抗議[32]
  • 2018年4月30日 - オウム事件被害者の弁護士滝本太郎に損害賠償300万を要求し訴訟を起こす[33]
  • 2018年春 - 四女と、四女を取材したジャーナリスト青沼陽一郎、アナウンサー安藤優子に対して損害賠償を求め訴訟を起こす[34]

関連人物[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 長女、四女を除き、麗華を含む麻原彰晃と知子の子供四人
  2. ^ 麻原彰晃死刑囚の遺体、妻ら引き渡し要求 「遺骨は金庫に保管する」
  3. ^ 四女側「身の危険感じる」 遺骨は拘置所で保管へ
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 松本麗華『止まった時計』三女・アーチャリーの手記(講談社
  5. ^ a b c d e f お父さん分かりますか?麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ
  6. ^ a b スポーツ報知 2015年4月17日15時0分【BOOKセレクト】松本麗華著・「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記」
  7. ^ a b c d e f g h 週プレNEWS 2015年04月07日 06時00分麻原彰晃の三女が明かす半生と父への思い「矛盾の中で生きてきました」
  8. ^ Egawa Shoko Journal: 扉を開けて~松本智津夫三女の入学拒否問題を巡って」2018/6/27閲覧
  9. ^ 滝本太郎ウェブ日記(InternetArchive)「さるさる日記 - 『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記」 2018/6/27閲覧
  10. ^ 江川紹子「真相究明」「再発防止」を掲げる「オウム事件真相究明の会」への大いなる違和感 | ビジネスジャーナル」 2018/6/27閲覧
  11. ^ a b 滝本太郎ブログ 「メディアと三女 | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記」 2018/6/27閲覧
  12. ^ アレフ問題の告発と対策 麻原三女『止まった時計』 ひかりの輪公式サイト 2018年4月15日閲覧。
  13. ^ 松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』 p.49
  14. ^ 野田成人『革命か戦争か』 p.84
  15. ^ 『週刊新潮 』2011年8月11・18日号
  16. ^ [1]
  17. ^ [2]
  18. ^ [3]
  19. ^ 『週刊新潮 』2011年8月11・18日号
  20. ^ 『週刊新潮 』2011年8月11・18日号
  21. ^ オブツ真理教
  22. ^ オウム真理教 こちら広報部
  23. ^ 元信者たちの手記 カナリヤの会
  24. ^ 平成7年刑(わ)894号 平成14年7月29日 東京地方裁判所
  25. ^ 『オウム4死刑囚が本回し読み、教祖三女が仲介か』2014年1月28日 読売新聞
  26. ^ 法務大臣閣議後記者会見の概要”. 法務省 (2014年1月28日). 2015年5月25日閲覧。
  27. ^ コラム 麻原ファミリーをめぐる教団運営の混乱 (PDF)”. 内外情勢の回顧と展望. 公安調査庁. p. 56 (2015年1月). 2015年5月25日閲覧。
  28. ^ 地下鉄サリン事件20年、松本死刑囚の三女「アーチャリー」語る ウォールストリートジャーナル日本版
  29. ^ “田原総一朗:「空気」によって突き動かされる怖さ――麻原彰晃・三女に聞く”. BizCOLLEGE (日経BP). (2015年3月24日). http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20150324/440371/ 2015年8月30日閲覧。 
  30. ^ 『松本死刑囚三女、元幹部らとの面会訴え取り下げ』 2015年6月21日 読売新聞
  31. ^ 「松本死刑囚3女の敗訴確定」 読売新聞 2017年9月29日
  32. ^ a b 滝本太郎ブログ「三女と西田先生 | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記
  33. ^ 滝本太郎ブログ「訴状到着 原告三女、被告私 | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記」、上祐史浩ツイート
  34. ^ 青沼陽一郎ブログ「麻原彰晃の三女アーチャリーが嬉々として早稲田大学講演会を喧伝するのは、主催サークルOB名簿にぼくの名前があることを知ってのことなのか!?
  35. ^ オウマー日記(西村雅史)

参考サイト[編集]